PMプロの知恵コーナー
先号   次号

ゼネラルなプロ (46) (実践編 - 3)

向後 忠明 [プロフィール] :8月号

 <アルジェリアでの保全業務経験>
 最初の海外でのプロジェクは、筆者の所属する会社(J社)が建設した設備のメインテナンスであり、プロジェクトと言うより、既存設備の現地での点検と補修作業でした。
 対象国はアルジェリアであり、「ここは地の果てアルジェリア」と言う歌は知っていましたが海外へ初めての赴任にしてはあまりにも過酷な国と思いました。
 既にプラント建設が終了したプロジェクトであり、仕事の内容は自分のこれまでやってきた専門分野の仕事の延長であり、プロジェクトと言うほどの仕事ではありませんでした。
 この仕事の内容は主に現場での作業であり、アルジェリアでの作業は筆者とクレーンオペレータと鳶職人の3人でした。
 (後でわかったのですがこの2人は既にアルジェにて別な作業についているとのことで実際は筆者一人が日本から行くとのことでした)

 アルジェリアに赴任するに当たっては当然のようにその国の言葉や習慣を調べましたが、フランス語が主な言語として使われている事そして宗教がイスラムとのことでした。その他はプラント建設に以前携わっていた人たちからもビジネス習慣や生活上の問題などを聞きました。
 この当時はまだ若く、海外での仕事に興味を持っていた筆者でしたので、フランス語や宗教については全くの無知であったが、何とかなるだろうとの思いでアルジェリアに行くことになりました。

 この当時(1970年)は国際便は羽田発であり、ヨーロッパ便はすべてアンカレッジ経由でした。
 荷物は仕事に必要な機材を含め相当量になりましたが羽田までは運送業者に任せ、一応この当時は若輩でもビジネスクラスでしたので荷物の重量の問題はありませんでした。
 日本からの出発では、この当時羽田ではビジネスで海外へ赴任する人には会社の緒関係者が羽田まで来て、みんなで「バンザイ、バンザイ」とやっていたとの記憶があります。海外赴任が珍しい時代だったのかと思います。
 その様な雰囲気の中筆者は一路、アルジェリアへの機中の人になりました。
 ところが、筆者の乗った飛行機はシャルルドゴール国際空港でいったん降りることになっていましたが、筆者の荷物は自動的に次のアルジェリア行の飛行機に積みかえられると思っていたら、とんでもないことになってしまいました。
 一旦、シャルルドゴール国際空港では一旦全員が降ろされることになり、荷物も同時にチェックアウトするようなことになってしまいました。
 何せ、始めてのことであり、右も左もまたその処理の方法もわからず、結局は次のオルリー空港と言うところまで自分で運ぶことになりました。
 オルリー空港はパリを跨いで反対方向の直線距離で30Kmぐらいの距離のところでした。
 荷物は段ボール箱が3つとそれに自分の荷物です。これを一人でまずは地下鉄に乗るため空港から駅まで抱えて一個一個運び、汗だくになり、最寄りの駅まで運びました。そして、電車に乗りオルリー空港までいったという記憶があります。
 今、考えてみると、私の所属会社にはフランス事務所もあり日本での事前の事務所への連絡、または日航の事務所での交渉等の手段で何とか処理してもらうこともできたことと思います。
 全くど素人の極みでした。
 何とか、オルリー空港に着き無事チェックインもでき、機上の人になりアルジェリアに向かいました。

 フランスとアルジェリアは地図上でも非常に近く、すぐにつきましたがこのアルジェ空港でも問題が発生しました。
 税関で私の持ってきた荷物にクレームがつき、荷物を英語で説明するのですが相手がフランスや現地語しかわからないので説明がつきません。
 英語のわかる人がいても発音に癖がある上に上手なしゃべりではありませんでした。筆者も英語は全く素人であり、何とか単語を並べて話せる程度でした。
 その為当然のことですがスムースなコミュニケーションができるわけがありません。
 そして、別室に連れて行かれ、ここでまた延々と説明するが相変わらずコミュニケーションが成り立ちません。英文の書類を見せるとある程度はわかりますが、荷物の中にステンレス製の太さ40cmほどの棒が入っていて、これを小銃の材料になるのではないかと言うようなことを言われました。
 筆者がもうこれではらちが明かないと切羽詰まったところ、J社のアルジェ事務所駐在員スタッフ(現地人)がやってきてフランス語で説明してくれましたので危うく、捕まらずに済みました。
 (飛行機の到着時間がわかっているはずならもっと早く来て、このような事態にならないようにしろよ!と心の中で文句を言いました。これがアルジェリアなのかと変に納得してしまいました)
 こんなことが最初から起きるとこれからの現場での仕事はどうなるのかと思うと気が重くなってきました。
 その後、J社事務所で簡単な打ち合わせを行い、現場で一緒に働くクレーンオペレータや鳶の職人と仕事の段取りや方法を話しました。
 その後、宿舎に向かうのですが、着いてびっくりで、その宿舎とは読者諸氏も良く中東の辺鄙な部落にある土と煉瓦で作った家であり、窓やドアは木製であり、中に入ると土間があるような家でした。
 筆者がイメージしたホテルのような居室や施設もなく、風呂はなく水シャワーであり、家から歩いて10分ぐらいのところにある露天の共同シャワーでした。

 このような環境の中で仕事が始まったわけですが、顧客との打ち合わせが最初の仕事でした。ここでまた顧客担当の英語が筆者以上に下手であり、英語の下手同士の打ち合わせとなりこれまた空港での税関との話し合いと同じことになるのでは危惧しました。
 しかし、技術者どうしの打ち合わせであり、打ち合わせ内容も筆者の専門分野にかかわるものであったので、黒板などに絵や文字を書いたりしてお互いに何とか理解ができ、その日は無事に過ごしました。

 さて翌日から現場でしたが、溶接の必要な作業があったので、お客に溶接工の派遣を依頼しました。一方、日本人の職人には溶接が可能になるように設備の外枠の外しや仮設の据え付けを依頼し、その日のうちに作業を完了し、翌日の溶接工を待つことになりました。
 翌日、日本人職人と溶接工を朝から待つことになり、その待つ間に溶接以外の作業をしていたところ、何やらアルジェリア人らしからぬ人がやってきました。
 なんと溶接工はフランス人でした。
 (溶接は高級金属同士の溶接でありそれなりの技能が必要でアルジェリア人には無理であったので顧客はフランス人に頼んだようでした)
 また、ここでフランス語でのコミュニケーションが必要になりました。
 その日はあいさつで終わりましたが、さっそく本屋に行きフランス語と英語の対訳辞書を買ってきてにわか勉強です。
 翌日からの仕事はフランス人溶接工に仕事の指示をしなければなりません。
 そこで、夜遅くまで辞書と作業内容のフランス語化を行いました。そして、それに従い溶接の必要性や被溶接部の材料とその場所についての説明をしました。
 本人はわかった様ですが筆者に対する質問はフランス語です。その都度、辞書を開き、相手にフランス語の文字を示させ、また図を描いて「あなたの言っていることはこのような意味か?」などのやり取りで毎日の仕事を進めました。

 このように、話の内容が筆者の専門にかかわる技術的な話であったので、相手がフランス人であっても、何とか仕事は進めることができました。

 一方、日本人の職人の専門であるクレーンオペレーションや鳶職の仕事についても会社や学校では知ることのできない職人の技を色々教えてもらいました。

 最初のころは、彼らとも仲良く、仕事をしていましたが彼らも長いアルジェリアでの駐在だったので日本に早く帰りたい気持ちもあったようです。この現場もそうですが、オフの時間もいつも同じ顔を朝から晩まで見て、寝食をともにしているとやはりギクシャクしてきます。そして、何かにつけイライラして私に文句を言ってくるようになりました。
 何はともあれ、職人との協調なくしてこの仕事は完了しません。
 そのため、筆者も監督のようにただ指示を出すという事ではなく、汗を一緒に流し、汚いことや場合によっては危険なことも手伝ったりしました。
 また、宿舎に帰れば食事も一緒であり、炊事も買いものも順番を決めてやるようにしました。もちろん、彼らが良く行く酒場にも、同行したりしました。このように、何とか趣味も話しの内容も異なったが、仕事も個人的なことも相手に合わせて行動していきました。
 最初のころは、このような生活には慣れていなかったので、こちらがあまり相手の話に乗らないと「何、そんなにお高くとまっているんだよ--、やはり学卒はちがうよな--」でした。
 このようなことで仕事もオフの時間も職人と一緒に約3か月程やりましたが、何とか仕事も予定通り終わり、職人たちは先に帰国して行きました。

 ここまでの話で読者諸君はコミュニケーションの重要性は十分わかったと思いますが、コミュニケーションには会話はもちろんですが人と人との調和を図る話し方や雰囲気作りが大事なことであることが分かったと思います。
 コミュニケーションの詳細についてはゼネラルなプロ(35)の3/5を参照してください。

 その後、筆者も仕事の後始末やお客への報告もあるので、少し遅れて帰国することで考えていました。
 ところがお客の方から、今回と同様な他の設備も見てくださいとの依頼があり、本件本社に確認したところ「君の仕事の変わりはいないからもう少し頑張ってください」とのことになり、「エ― ―!!!!」でした。

 本社から何の指示もなく、顧客からは「今回補修した設備とお同じ設備全部の点検」と言うだけのことであり、何をやっていいのやら苦慮するだけでした。
 しかし、「私もこの分野のプロ」と自分に言い聞かせ、汚い住居でただ一人さびしく今後の計画を立てることになりました。
 その計画を顧客に示し、了解を得ました。計画では一人での仕事なので誰の邪魔もなく作業は進めることができるので一か月程度のスケジュールとしました。
 この期間は住処も一人住まいであり、家に帰ると何ともさびしい限りでした。食事の殆どはカップラーメンであり、食後は話し相手もテレビもなくまた本もありません。
 寝室に行けば小さなベッドに窓から吹き込んだ粉のような小さな砂を払い、横になり家族の写真を見ながら寝るといった毎日の繰り返しでした。

 一人になると余計なことを考える毎日でした。
 これまで専門部での仕事を考えると、それまでの仕事の方が良かったのかなーと思う事もありました。
 この当時では本当のプロジェクトを経験していませんが、この孤高のそれも「地の果てアルジェリア」での経験は今にして考えるとプロジェクト遂行上での筆者の大きな糧となった様でした。

 そして、無事にアルジェリアでの仕事を終えて帰国することになり、帰国の準備をしていたところ突然に本社より連絡が入りました。
 「君の専門にかかわる新技術の内容確認をオランダのSIPM(シェルの研究開発機関)に寄ってください」とのことでした。

 そして、アルジェリアからフランスへと行きました。そこで、日本の航空会社の事務所によって、筆者がアルジェリアに行く時の不親切さに対するクレームを述べました。
 「今度アルジェリアでJ社は5000憶円程度のビッグプロジェクトを始めるが、今回のような不親切なことがあると日本の航空会社を使用することがないですよ・・」などと偉そうなことを言って、オランダに向かいました。さて、オランダは初めて訪れる国でした。
  オランダについては読者諸氏には特に説明の必要はないので省略しますが、訪問先のSIPMでは多くの驚きがありました。
 何はともあれ辺境のアルジェリアの環境からヨーロッパのそれも観光立国であるオランダに来たのでまるで「おのぼりさん」のような驚きの連続でした。
 また、SIPMはさすが国際メジャー石油の研究開発の本拠であり、建物、付帯設備そして立派な庭園で、度肝を抜かれる思いでした。
 そして、そこで働く人達はそれぞれ個室を持っていて、私の担当者も個室での執務であり、当然その個室の中での打ち合わせとなりました。
 その個室の中には特に書類棚もなくきれいなオフィスで二人きりでの話であったが、必要な書類は電話で関連資料の名前と番号を示すと女性が関係書類をすぐに持ってきました。
 疑問に思い、「なぜ関係書類がすぐに出てくるのですか」と質問したら、「当社は機能別そして組織別にファイリングシステムができているのですぐに検索できるのです」
 と筆者に説明してくれました。
 ここで著者はファイリングシステムの重要性を身に染みて感じ、日本に帰ったらこれを普及させようと思いました。
 今に思えばいわゆるWBSに似たものをSIPMではすでに取り込んでいたのだと思います。

 さて、このような驚きのSIPMでの仕事も終わり、時間もあったので観光や買い物をし、帰国の途に就きました。

 余談ですが、オランダのスキポール空港に着きチェックインをした後、何やら英語で私の名前が呼ばれ、搭乗口近くの航空会社の担当員のところに来るようにとのことでした。「何事???」と思いそこに出かけたら、担当者が「あなたはフランス事務所からの指示でファーストクラスにグレードアップです」と言われました。
 「ヤッター」です。フランスでの交渉事がここで功をそうしたという事です。
 「地の果てアルジェリア」の苦労で約体重は7kg減りましたが、ここにきて女神が訪れたような気がしました。
 まさに「苦あれば楽あり」のまだ筆者も若い1972年のころの出張経験でした。

 今回は保守作業の仕事でしたが、初めての海外での経験であり、専門設計部では知ることのできない経験そして人に頼ることのできない環境での仕事の厳しさを知ることができました。
 来月はフィリッピンでの筆者の専門分野の設備に関するEPCプロジェクトについての話をします。

ページトップに戻る