PMプロの知恵コーナー
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ゼネラルなプロ (47) (実践編 - 4)

向後 忠明 [プロフィール] :9月号

 <フィリッピンでの初めてのプロジェクト>

 アルジェリアから帰ってから数か月がたちました。この間、特に与えられたプロジェクトもなく他の案件に関する見積もり作業の手伝いや補助作業をしていました。
 この間では新規案件のプロポーザル作成やプロジェクトの各種セットアップの在り方そして仕事の流れなどを学びました。しかし、系統だった教育ではなくピンポイントの指導を受けただけでしたので、プロジェクトマネジメント全体の知識体系など理解できないままでいました。
 ほどなくして、フィリピンにおける石油精製プラントのEPC(Engineering, Procurement ,Construction)プロジェクトが動き出しました。
 ある日、他のプロジェクトの手伝いをしていたところ、このフィリピンプロジェクトのプロジェクトマネジャ(以下、PMと言う)がやってきて、このプロジェクトを手伝ってほしいと言ってきました。
 筆者は設備設計専門部門出身だったのでその設備の担当プロジェクトエンジニアー(プロジェクトマネジャ配下のエンジニアーの呼称で以下、PEと言う)としてアサインされました。
 このプロジェクトの建設現場はフィリピンのバターン半島の一角にあり、第二次大戦で有名な場所です。日本軍によるフィリピン進攻作戦において、このバターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍・フィリピン軍捕虜そして民間人が、収容所に移動する時に多数死亡したという事です。
 このような事情から建設現場の周りの人たちの日本人に対する国民感情はあまり良くないとの話も聞こえてきました。

 このプロジェクトから筆者がその一員となってその一角をまとめるといった仕事につくことになりました。1974年当時で筆者もまだ若くなんでもやってやろうといった元気一杯の頃でした。
 仕事の内容は筆者が所属していた設計専門部での仕事に関するプロジェクトマネジメントでした。今回の仕事の内容は設計専門部にいた時とは逆の立場となり、設計専門部にいろいろと設計上の依頼をすることが主な仕事でした。
 プロジェクト全体の指揮はPMでしたがその配下で仕事をする小さなプロジェクトのPMと言う気概で本業務を進めました。すなわち、プロジェクト全体から見れば狭い所掌範囲の役割でしたが設計要件の設定、設計部門への依頼、調達、そして現場の監督といったEPC(Engineering ,Procurement ,Construction)全体の責任者と言う気持ちでプロジェクト業務に望みました。

 ところで、海外プロジェクトでは誰もがわかっていることですが、英語がいつも付きまといます。すべてのプロジェクト関係書類は英語です。プロジェクト関連書類の構成や内容も英語であり、特に契約書のパッケージを見るのも初めてであり自分の役割とその内容との関連もわかりませんでした。
 契約書本文は全く理解できず、結局はそれに付帯する技術文書それも自分に関係するところだけを見て、自分の役割をこなせばよいとの発想でいました。
 設計専門部にいた時、少しはプロジェクトマネジメントの役割と言うものを耳にしていました。しかし、現実にその場に立たされると何を最初にやる仕事なのかがわからず右往左往するだけでした。この点では経験豊富な先輩たちが手取り足取り教えてくれたので何とか仕事を進めることができました。

 しかし、英語だけはどうしようもありませんでした。ましてや前述の契約書本文は“ちんぷんかんぷん”でした。
 その上、一般的に日本人は「英文は読めるが書いたり、話したりすること」には慣れていません。筆者もその例にもれず全く英文を作ったことはありませんでした。
 このプロジェクトを担当してからは各種文書は自分で作成しなければならず、苦労の連続でした。もちろん、翻訳課があり日本語を英文にしてくれます。
 しかし、そのままではと思い、途中からは自分で英文書を作るようにして翻訳課に持って行き英文チェックをしてもらいました。しかし、赤字による修正ばかりで全く原型を留めることもなく帰ってきました。
 ここからは、翻訳担当者のところにへばりつき、相手が「いい加減にしてくれよ!!他の仕事ができない!!」と文句を言われましたが、あきらめずこのような行動を続けていきました。

 (この当時は、筆者が所属している会社も海外のプロジェクトはこれからという時期で英文書類の標準化や英語に「読み、書き、話す」の三拍子そろった人材もそれほど多くいませんでした。)
 この時から筆者はこれまでの英語に対する不勉強を反省し、翻訳についてはまずは人に頼らず自分で文章の英文化を行い、その後翻訳専門家に見てもらい、コメントをもらうという繰り返しを行うようになりました。
 当然海外で仕事をするとなると、文書によるコミュニケーションは当然であるが会話も英語です。
 アルジェリアではフランス語であったので絵文字などでコミュニケーションをとってきました。
 しかし、今度は顧客も英語が堪能な人たちばかりで絵文字と言うわけにはいきません。英会話についてはボキャブラリーを増やすため、大学受験生のように毎日単語を繰り返し覚えました。

 日本での必要な業務をこのようにして何とかこなしてきましたが、関連する技術上の問題は設計専門部での「昔取った杵柄」で心配はなかったが、英語に関しては納得できないまま現場に行くことになりました。

 今度は長い駐在の予定だったので多くの荷物を持ち、羽田から家族に見送られフィリッピンに出かけました。
 フィリッピンには4時間程度のフライトでありすぐにつきました。前回のアルジェリアでの苦い経験もあり、税関も何の問題もなくクリアーできました。

 この当時のフィリッピンは治安体制も万全でなく、夜は戒厳令が出され一切夜の街には出られない状態でした。
 一般の会社でも入口にライフルを構えたガードマン立っているような状態です。
 このような中、現場受け入れ態勢ができるまで関連商社や顧客との打ち合わせなどがあり、数週間マニラのホテルに滞在することになりました。
 一番下っ端のPEである筆者は会議での発言はあまりできませんでしたが、打ち合わせ時の議事録作成の担当を指示されました。ここでも「エーー!!」でした。
 PMに「私には無理です」と断りましたが「打ち合わせ覚書は速記と違ってそこで話されたエッセンス(要点)をまとめて書けばよい、やってみろ!!!」とのことでした。
 「やるだけやってみるか!」と言う気持ちでやってみました。案の定、相手の言っていることをすべて理解していないため、後でPMから真っ赤に直され返却されました。それでもPMはあきらめず同じことを繰り返し筆者にこの仕事をさせました。
 今にして考えてみると、これが「On The Job Training」だったのかなーと思っています。
 一方、英会話についてはフィリッピンはどこに行っても英語が通じるので、ホテルでは受付の人、打ち合わせ後の会食や懇親会でも英語で語らい、街中では誰かれなく英語で話しかけ、英語に慣れることに専念しました。
 このように数週間程マニラにて過ごし、いよいよ現場に行くことになりました。

 この現場はマニラ湾を挟んでちょうどマニラ市と反対の半島の端にある現在のペトン・バターンリファイナリーがある場所です。バターンへの道は比較的よく、気分よく運転手と私だけでしたが英語で話をしながの快適なドライブでした。このような快適なドライブを妨げるように車の前方に大きな木が横たわっているのが目につきました。
 「こんなところに危ないなー」と思い、車から降りてその木をどかしていたら、どこからか銃声がして、車に弾痕ができていました。危険と感じすぐにその場を去りましたが、このような怖い思いもしました。
 ところが現場に着いた時、現場全体が鉄条網で囲まれていました。「ここまで防衛しないといけないほど治安が悪いのか」と緊張した次第でした。
 もちろん、鉄条網の周りは昼夜を通して銃を持ったガードマンが張り付いていました。
 このような現場でしたが、何事もなく一番下っ端の筆者は毎日の現場監督業務のほか何でも屋の仕事となり毎日炎天下の中を駆けずりまわっていました。
 その様な中、自分の担当した設備が図面通りに立ち上がっていくのを見て、これまで専門設計部で計算と作図だけをやっていた筆者にとっては、感動を覚える毎日でした。
 しかし、現場でもほとんど毎日のように顧客、協力業者との打ち合わせがあり、目の回るような忙しさでしたが、筆者は自分の所掌の設備の進捗と品質チェックには十分に気合を入れ見ていきました。
 ここで筆者は自分の担当所掌の部分での役割でしたが品質管理と進捗管理がプロジェクトマネジメントの重要な仕事であることを学びました。
 下っ端の筆者にはまだコストについての権限はまだありませんでした。その点、若干気楽なこともあり、コストについては無頓着な所があり、気前よく業者の変更には寛大に接していきました。
 ある日、先輩から「プロジェクトマネジメントで重要なことはコストとスケジュールと品質は相反するものであるからそれらを適切に調和させマネジメントすることが必要です。お前は勝手に業者の変更要求にOKを出しているが、注意するように!!!。これはすべてコストにかかわることと心得なさい」と注意されました。
 それからは、業者からの変更要請に対しては神経を使うようにすると同時にコストに対する意識も持つようになりました。
 先輩のこのような注意や叱咤があり、この時がプロジェクトマネジメントの重要性と難しさを感じた時でした。その後も、現場におけるマネジメントについて、多くの先輩諸氏から実践の場でいろいろ教えてもらいました。
 このように、具体的なプロジェクトにおいての先輩からの実践的学びは前回報告のアルジェリアの仕事より、多くのものを教えてくれました。しかし、後でわかったことですが、当初のプロジェクトマネジメントに対する考え方が甘かったと反省すると同時に、現場で先輩諸氏から実践を通して学ぶことは、まさに「習うより実践で学べ」という事でした。
 しかし、筆者は自分の担当部分の仕事が終わってしまったので短い駐在でしたがこのプロジェクトの最後を見ることなく、任務を完了し帰国することになりました。
 このプロジェクトを通してまだ筆者のプロジェクトマネジメントの実力はよちよち歩きの状態という事がこのプロジェクトで身に染みてわかりました。
 そして、帰国の機中で、プロジェクトマネジメントをもっとしっかりと学び、自分のものとし、プロジェクト全体を見ることのできる人になろうと考えました。

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