PMプロの知恵コーナー
先号   次号

ゼネラルなプロ (28)

向後 忠明 [プロフィール] :2月号

 これまでの各国での経験やそこで感じられた印象などについて話をしてきました。
 これらのプロジェクトを通して、海外プロジェクトについての“いろは”を学んだような気がします。
 そして、「異文化環境におけるプロジェクトの遂行」へのプロジェクトマネジメントに自信がついたような気がしてきました。
 著者も入社してちょうど14年目の頃でした。その頃はゼネラルなプロ(26)表26-1に示す「企業の国際化段階」の第3と第4の間の時期でした。

<インドネシア>
 インドネシアでの経験談をするのを前月号では紙面の都合では端折ってしまいましたので、改めてここに追記します。
 インドネシアは日本とも深い関係があり、大小の島からなり多様な文化がみられる国です。基本的にはイスラム教が主な宗教ですが、中近東のようにあまり神経質になる必要はないようです。
 この当時のインドネシアは産油国として日本にとっても重要な国でした。読者諸氏も知っている第二次大戦において石油が重要な戦略物質であったことで日本軍がまず目に付けたのがインドネシアのパレンバンにある製油所でした。
 パレンバンはスマトラ島の南側にある比較的大きな町ですが、ここにある製油所の顧客はプルタミナといった国営の製油所で、今回のプロジェクトはここの製油所の新増設に関する仕事です。受注額は数千億円規模のものであり、このプロジェクトには最初から参加し、顧客との交渉の場に立ち会い、先輩の交渉の仕方を見聞きすることができました。

 まずは現地調査のため羽田より飛行機に乗りジャカルタへ・・・
 そして、そこから国内線でパレンバンへ・・
 パレンバンに近づくにつれ空から製油所の全景が見えるようになり、空から見た光景はまさに第二次大戦当時に日本軍が空撮した場面と全く同じでした。
 この辺から日本軍の落下傘部隊が地上に向かって飛び降りここを占領したかと思うと身震いを覚えました。空から見てもかなり大きな製油所でした。
 ここでの仕事はまず現地の事情調査と製油所の現地調査から始まりました。
 インドネシアでの日本人に対する感情は、日本軍の占領時での治世が良かったことや戦後のオランダからの独立を手助けしたことなどからあまり悪いものは感じませんでした。
 特にビックリしたことは現地の年寄りの人たちの多くが日本語が話せるということでした。
 パレンバンの街並みや道路、通信、港湾等々のインフラは十分なものではありませんでした。
 また、原油受け入れ基地の新設予定地も地盤が悪く道なき道、そして膝までつかる泥道を海岸のほうに向かっていかなければならない場所でした。地質調査などを行いました。この時、著者は泥に足を取られ、体中泥だらけになりました。
 また、この辺に像が出没するということで像の習性を考慮したパイプラインルートや原油受け入れ基地の新設に耐える地盤調査などで現地人の知識に助けられることも多かったことを記憶しています。

 現地人の協力は今後のプラント建設の助けになることもあると思い、現地古老との積極的な接触を試み、現地の文化・慣習、宗教そして仕事上の習慣などを聞き学びました。
 言葉については仕事上は英語で充分であったが、インドネシアではインドネシア語が主な言語でもあり、現地人との付き合いも大事と思い、インドネシア語の勉強もしました。
 その結果は仕事の上でも多いに役立つことになりました。(インドネシア語は文法も日本語に近く英語ほど難しくありませんでした)

 一方、このプロジェクトで技術基本(顧客要求条件+基本的な技術指針)というものの重要性をも知ることができました。
 著者が所属していたエンジニアリング会社(J社)はこれまで与えられた顧客の技術基本をもとにプロセス設計から詳細設計と行ってきました。
 その理由はこれまではアメリカの技術提携会社またはBP,エクソン、シェル等々といったメジャーオイルの技術指針に沿ってプロジェクト遂行をするといった仕事のやり方でした。
 インドネシアのプロジェクトは既存設備の更新と新設であり、また顧客は全く技術指針というものがなくJ社にお任せの状態でした。
 このようなことが顧客との事前折衝の場において判明したことから、会社としては経験したことの無いことだったので非常に困った状況となりました。会社の役員などはその場にいた我々に対して「ここまで来て引き下がれない。なんとかしろ!」との一言です。
 当然、顧客に対しては見境なく「Yes」との返事をしてしまいました。

 この種の仕事は当然技術部門の英知を集めて作成しなければなりません。しかし、多くの専門技術分野にまたがる内容であり、各専門設計にかかわる基本思想をまとめなければなりません。
 プロジェクト部門にいる人が当然まとめ役になるものと著者は思っていましたが誰も手を挙げません。専門部門の各部長も誰も手を挙げません。
 著者はプロジェクトマネジメントはエンジニアリングマネジメントでもあるとの考えを持っていましたので当然プロジェクト部門がやることと思っていました。
 またその様に発言していました。その様な事情から、本プロジェクトのプロジェクトダイレクターが著者のところに来て“どうだね!”と言ってきました。持論もあったのでその役割を引き受けました。

 その後は死にも狂いで各専門部門の部門長を集め彼らの意見を聞きながら各部門の設計思想を聞き、そしてメジャーオイルの技術指針(Basic Practice)を参考に、各専門部の担当を決めてもらい具体的な技術指針をまとめました。
 もちろん、この時は現地にて調査したもろもろの情報を組み入れ現地に即した指針も入れたりしました。
 結果は顧客の承認をもらい、それに基づくプロポーザル条件も作成し、交渉が再開されました!・・・・・
 ところが、本番作業の準備を開始していた頃、インドネシアそのものの経済情勢に大きな変化が発生しました。このプロジェクトにもその影響が発生し、プロジェクト規模の縮小が顧客より伝えられてきました。

 結果的には、著者はプロジェクトの縮小とともにこのプロジェクトから外され、ほかのプロジェクトに移ることになりました。
 しかし、このプロジェクトでの経験はプロジェクトマネジメントを行う上で、フェーズ的にさらに広い範囲の仕事にも自信を持てるようになりました。
 また、この経験は著者の今後のプロジェクト活動において、分野を問わないあらゆるプロジェクトでも躊躇なく挑戦することができるようになった源泉のような気がしています。

 さて、次に参加したプロジェクトはシンガポールに日本の企業(S社)が化学工場を新設するといった大規模なプロジェクトでした。

<シンガポール>
 これまでのJ社の主な海外プロジェクトはメジャーオイルのものがほとんどでした。
 このプロジェクトは顧客が日本で海外がプラント建設場所としたものでした。

 読者諸氏はシンガポールと聞くと近代的ビルが立ち並び、街並みも素晴らしく、世界の金融センターのイメージを持つかもしれません。しかし、このプロジェクトを開始したころの中心街は整理されてきれいであったが、少し外れるとインフラも不十分であり、バラック小屋もたくさん存在し、現在とは全く異なる風景でした。
 今のシンガポールのイメージからは想像できないと思います。
 しかし、本プロジェクトはシンガポールにとっても初めての石油化学会社の進出でした。
 そのため、シンガポール政府と顧客との間で何度も技術打ち合わせが行われました。当然、コントラクターであるJ社も顧客の技術アドバイザーとしてここに同席することになりました。
 シンガポール政府側の官僚は若い人たちばかりであり、非常に熱心に“なんでも知ってやろう”といったすごい意気込みが感じられました。そして、若いのにもかかわらず、権限もあり物事を迅速に決定してきました。
 この人たちが現在のシンガポールを引っ張っているのだと思います。

(今の日本の若い人たちもやる気があっても権限委譲が不十分なため、やる気を失っている人も多いようです。これは会社の上層部にも問題があるような気がします・・・・著者のボヤキ)

 さて、このプロジェクトはシンガポール本島からポンポン船で20~30分ぐらい行った沖合の無人島に建設されるものでした。この島はすでにプラント建設用に平地になっていました。
 いわゆるグラスルーツプラントであり、全く零からすべてを整えなければならないプロジェクトでした。
 ここでのプラント建設は無人島とは言っても、自由になうわけでなくシンガポールの法律や規制に従う必要があります。
 そのためにはシンガポールにおいてプロジェクトを実行するために必要な手続きについて調査し、その申請方法や内容にも精通する必要がありました。
 要するに海外でのプロジェクトでは当然日本と異なった法律、規制の中で仕事をするので、プラントを建設する国のそれらを守る必要があります。
 特にこのプロジェクトはシンガポールで初めての化学プラントなので整備されていない法律や規制も多く、かなりシンガポール政府との調整で時間も多く取られました。
 また、このプロジェクトでは多くのインド人、マレーシア人、シンガポール人等々近傍各国の労働者や下請け業者も参加していて、日本人だけとの仕事のやり方と動きが異なり、この人たちの扱いに最初は戸惑いを覚えました。
 しかし、現場での長い付き合いで以下のようにしていけば良いことに気が付き、現地人との付き合いでの座右の手引きとしました。

1. 仕事の指示は明確に
  言葉での伝達だけではまず仕事はやらない。(書類に示す、そして書類に残す)
  手順書を作り共通の理解を持つように心掛ける(分ったそぶりを示すが自己流で全く役に立たない)
  指示すればやっていると思っては行けない(進捗チェックはしつこく)
  気が利かないし、言われた事しかやらない。(逆に役割分担を採用時には明確にする)
2. 現地スタッフへの接し方
  “分らない”とは言わない、また自分の誤りを簡単に認めないし、だからと言って人前ではしからない。(プライドが高い)
  起きた問題に対し、如何に自分に責任が無いかを弁解する傾向が強い。(謝らない)
  自分の持っている知識や貴重な書類は開示しない。(開示すると自分の価値がなくなると思う)
  約束の時間を守らない、しかし、焦ったり怒ったりしたら余計問題になる。
3. 困難な人材の定着対策
  愛社精神・忠誠心が希薄
  そのため、転職するのが当たり前との考え方が強い(しかし、会社側から辞めさせるのは難しい)
  給与や労働条件はお互いよく知っている(情報交換はこの分野だけは早い)ので公平な処遇と制度が必要である。

 上記はシンガポールのプロジェクトにかかわらずこれまで経験してきた海外プロジェクトを通して感じたことでした。

 このシンガポールのプロジェクトでは当然コミュニケーションは英語であり、かなりこれまでのアルジェリアからインドネシアまでのプロジェクトで接した人たちの英語よりは発音がより英語に近いものを感じました。
 著者はこの機会をとらえてホテルの人に個人レッスンの形で英会話を学び、日曜日は一緒に食事をしたりして更なる英会話能力の向上を図りました。

 本プロジェクトの内容の詳細については本エッセーでは省略しますが、その特徴としてほかのプロジェクトと異なるのは、プロジェクトの場所が無人島であり、ここに最先端の化学プラントを建設するということです。そのため、インフラそして各種の建屋と備品の調達といったすべての生活基盤となるものを準備する必要がありました。
 特に、島であるのでインフラには岸壁、港湾、送電設備、水道、電話回線、道路、交通信号等々公共的な工事もすべて含まれていました。
 このため、このプロジェクトで著者は海外でのインフラ設備の申請から建設までの作業手順について多くのことを学ぶことがでました。この経験が後に情報通信関係のプロジェクトに多いに生かされることになるのです。
 今月号はここまでとします。なお、このプロジェクトで顧客である日本の化学会社(S社)と“契約”に関することで議論になったことがありました。
 この件については次月号にて話します。

ページトップに戻る