PMプロの知恵コーナー
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ゼネラルなプロ (26)

向後 忠明 [プロフィール] :12月号

 先月号でプログラム及びプロジェクトマネジメントの話は終わりとしました。これで“ゼネラルなプロ”に必要な最低限の基礎的知識の話は終わりにします。
 ただし、与えられた職務に応じて必要とされる知識はそれぞれ状況に応じて不断の知識吸収を行い、さらに“ゼネラルなプロ”として大成していこうといった心がけが大事です。

 さて、今月号からはグローバルビジネスに対応可能なプログラムまたはプロジェクトマネジャに必要な考え方や知識について著者の30年以上にわたる海外業務の経験を含めて話を進めていくことにします。
 なお、その前に読者諸氏が所属する企業がどのような段階を経て現在に至ったかを以下の表26-1に示します。

表26-1 日本の企業の国際化段階
段階 年代 展開パターン 人材 経営の特徴
第一 1960年代 輸出中心 語学中心
(例;商社)
無手勝流、
試行錯誤
第二 1970年代 現地化
販売、サービス、
後半、現地生産
特定地域専門プロの現地派遣(事務所または工場) 日本的現場主義の展開
第三 1981~85年 国際化展開
国際部、海外事業部と既存事業部の混合展開
専門職としての国際経営者 戦略的人材開発の確立
第四 1986~90年 多国籍化展開
日本中心多国籍化
海外事業部の独立と役員の派遣
本社役員の国際経営者化 情報網の整理
第五 以降 世界的起動組織
(M&A,本社の海外化)
日本人、非日本人の混合によるマネジメント 企業のグローバリゼーション
(財団法人)日本在外企業協会:マネジメントの今日的課題

 上記の表26-1から察するに現在はほとんどの企業は第五段階のグローバル化に入っていることがわかります。
 ましてや、プログラム & プロジェクトマネジメントに携わる人が所属している会社のほとんどはこの段階にあるといって過言ではありません。
 それではこのグローバル化に対応できる人材にはどのようなことが必要なのでしょうか? 
 一般的によく言われていることはコミュニケーションが最も大事な要因と言われています。全くその通りですが、多分皆さんは中学から英語を学んできたので誰でもが文法、読む、そして和訳することは問題ないと思います。しかしビジネスでは会話や文書作成が重要となります。この部分になると多くの日本人が不得意とするところです。
 学校教育が悪いといえば悪いですが、ビジネスマンとしてはその様なことを言っていられません。
 海外ビジネスで必要なスキルは英語能力だけではありません。そのほかにも海外ビジネス特有の重要なスキルがあります。
 海外プロジェクトは国内プロジェクトに対しその難易度は1~2ランク上がるといわれています。まずは読者諸氏に図26-1に示す海外プロジェクトの特徴を見てもらってから、「海外プロジェクトに対応するにはどのような能力が必要か?」を考えてもらいたいと思います。

図26-1 海外プロジェクトの特徴
図26-1 海外プロジェクトの特徴

 ここで手前味噌ですが著者の経験からその特徴的なプロジェクト(業務)についていくつか話をしてみたいと思います。

 第一回目の話はアルジェリア出張について話をします。
 “ここは地の果てアルジェリア・・・”といった歌がありますが、図26-1に示す特徴として主に感じたものは①遠い②言語/非言語での情報交換でした。
 この時の著者の立場は設備設計の担当者でもあったので、特に図26-1に示す他の問題はあまり感じられませんでした。

 アルジェリア出張へのきっかけはほかの先輩たちが声を上げなかった為です。その頃の著者は入社して3年目で英語も入社時に英検2級を会社で強制的にとらされた程度の能力であり、全く海外は初めてでした。
 その頃は表26-1に示す1970年代頭初の頃であり、著者の所属企業も現地には現場事務所だけの状態でした。
 著者の心細い心情も考えずに上司は“現地に日本語のわかる現地人がいるから大丈夫”というだけです。“なぜ、私がこのようなところに行かなければならないのか!!”と思いながら羽田空港へ、そして見送りの人たちの“バンザイ”に見送られ機中の人になりました。
 羽田、アンカレッジ、フランス(ドゴール空港~オルリー空港)そしてアルジェリアと本当に遠く感じた飛行機の旅でした。
 今ではアンカレッジ経由などといった便はありませんがその頃はヨーロッパに行く便のほとんどがアンカレッジ経由でした。
 フランスでは少し時間があったので観光のつもりで街中を歩きましたがここでびっくりしたのは英語が通じないことでした。後でわかったことですがフランス人は英語がわかっても知らない振りをする人がいるようです。
 日本人も日本国内で英語で話しかけられると逃げる人もいます。
 しかし、外国で仕事をする場合はそういうわけにはいきません。この時からコミュニケーションツールとして語学は大事なものであるということを実感させられました。
 いよいよ、アルジェリアに着きました。そして、初めての税関検査ということでしたが、現場の要請で設備の部品などを段ボール箱に入れて持ってきていました。
 さっそく税関職員から説明を求められました。ここでもフランス語です。彼らの多くにも英語が通じませんでした(現在はどうなっているか不明ですが!!)。その後も下手な英語で説明したのですが、両方の英語が下手だと難しい会話はできないと同じです。いくら説明してもわからずに時間がたつばかりでした。そのうち、別室に連れて行かれましたが状況は変わりません。
 いよいよ私もどこかに連れて行かれるのかな???と覚悟をきめた時、現地事務所の人が汗をかきながらやってきました。
 「“地獄に仏”とはこの時のことを言うのだな…」と思いました。現地事務所の人が税関の人とフランス語で私の言いたいと思うことを通訳してくれてこの場は無事すみました。
 アルジェリアに着いた早々このようなことにあり、この先どのようなことが起こるのか不安ばかりが残りました。
 さて、事務所で一通りの挨拶をし、その後、宿舎に連れて行ってもらいました。
 ここでまたびっくりで!!!!宿舎は煉瓦と土(たぶん粘土)で固めたもので建てられたもので、入り口は取手付きの木の扉、家の床はいわゆる土間であり、今の日本の牛舎のようなものでした。
 もう一つの驚きは先住人がいて、紹介されましたが一緒に現場で働く日本から来た職人さんで担当はクレーン操作と溶接が担当だということでした。
 著者の役割はその人たちと一緒に設備の修理を行い、また技術面での指示をすることであり、その結果を顧客に報告するといったような内容でした。
 いよいよ、生活と仕事をこの人たちとの共同毎日行うことになりましたが、生活で最も重要な食事は朝及び夜は自炊であり昼は顧客の食堂でした。
 このような生活環境から読者諸氏も容易に想像できるでしょう。この生活は絶対長くは続きません。特に職人さんは英語も全くダメであり一人では何もできません。それでも夜になるとどこから聞きつけたかわからないが、よからぬ場所にチョクチョク出かけ、夜は遅く帰ってきます。翌日の仕事に影響があるので著者が注意すると“その様なことを言うなら、早く日本に帰してくれ。好きでこんなところに来ているわけでない・・・”と悪たれを言われます。その様なことが何度かあり、それからは険悪な状態になってしみました。このような殺伐とした状態が1.5か月ぐらい続きました。しかし、何とか“だましだまし”一緒の生活を過ごし、所定の仕事も終えることができ、職人さんたちを日本に帰すことができました。
 著者はその後、半月ばかり一人でこの土くれの家で過ごし、残務整理を行いここでの仕事を無事終えました。
 この2か月間で仕事の上でわからないことがもちろん沢山ありました。日本に技術的なことやスケジュールの確認をするにしても日本とのコミュニケーションにもコストがかかり事務所からも良い顔をされませんでした。
 今のようにインターネットや品質の良いネットワークは皆無に等しい状態でした。そのため、日本とのコミュニケーションには苦労しました。場合によっては、日本からの連絡も待っていられないこともあり、自分の判断で作業を進めたりすることもありました。

 いよいよ日本に帰れると帰国の準備をしていたら、日本から“オランダによって新技術に関する資料とその説明を聞いてその結果をまとめて持って帰国するように・・・”との要請がありました。
 その時、“ちょっと待ってよ!!英語もままならない、そしてそれも新しい技術に関する打ち合わせをしてまとめて帰国しろ!!!この入社間もないこの私に!!!!”と多いに憤慨しました。
 しかし、「ここは地の果てアルジェリア」です。本社とのコミュニケーションもままならず、反論してもしょうがないと思いオランダに行くことにしました。
 飛行機便はフランスからなので、再びフランスによることになりました。前回のフランスでのレベンジと思い、アルジェリアで少し覚えたフランス語を使って道などを尋ねてみました。今度はまともにコミュニケーションができました。
 その後オランダに行ったのですが、オランダではまともなホテルに泊まりまともな食事をすることができました。
 また、顧客はシェル石油の技術開発本部に相当するところで、社員の話す英語もきれいであり、わからなければ何度も質問に丁寧に答えてくれました。昼時には一緒にこの会社の食堂で顧客扱いの歓待を受け、食事も素晴らしく、そして整備された社内の執務室の説明や素晴らしく整理された庭の散歩なども一緒にしました。
 ここでの待遇はアルジェリアでの待遇とは雲泥の差でした。
 そして、無事にオランダでの仕事も終わり、スキポール空港に帰国のため出かけました。
 ところが、ここでもハップニングがありました。それは、空港に着いたらアナウンスがあり、なにやら私の名前をマイクで言っているように聞こえました。その時は、アルジェリアでの税関での出来事を思い出し、恐る恐る指定の空港事務所に行きました。
 それは“なんと”航空券のファーストクラスへのグレードアップのことでした。理由がわからないまま、飛行機に乗りました。若造の私にはファーストクラスなど初めてであり、ただ落ち着かないばかりでしたが食事は高級レストラン並みで気に入りました。
 ここで“オチ”があるのですが、ファーストクラスの食事があまりにもおいしくまた時差の関係で何度も出てくるのです。
 いやしいかな、全部平らげました。しかし、日本に着くころは腹が痛くなり、下痢気味になってしまいました。
 結局、日本に着いたらすぐに空港医務室に直行ということになりました。

 以上が著者の初めての海外出張の経験でした。
 この出張で学んだことは図26-1に示すに示す「距離が遠い」ことのコミュニケーションの不便さと「言語、非言語が異なる情報交換」でのコミュニケーション断絶または不便さでした。
 そのほかの項目に関する不便さはまだ担当レベルであり、プロジェクトリーダでもない立場での出張でしたのであまり感じませんでした。しかし、自己責任で物事を判断しなければならないという事象に何度も遭遇しました。
 このように、特に距離が遠くなるとコミュニケーションがままならなくなるのでその基礎となる言語に精通すること、また自己責任で物事をきめなければならないことなどをこの出張で学びました。
 そして、この出張での経験が、著者煮には大きな刺激となり、海外での仕事への大いなる興味を持ち、更なる英語力向上に対する自己研鑽への駆動力となりました。
 ここでちょっと蛇足ですが、今の若い人たちがあまり海外、それもちょっと不便で、若干リスクのある新興国へ出張を嫌がる人が多いと聞きます。ビジネスのグローバル化や著者の出張した1970年頃と比較してのコミュニケーションツールの発展段階、そして交通手段の発展を考えたら情けなく思います。
 著者の考えですが、このような人たちはプロジェクト & プログラムマネジャには不向きな人間と思います。それだけでなくビジネスマンとしてもましてや“ゼネラルなプロ”不適格と考えても良いでしょう。

 続きは来月とします。

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