PMプロの知恵コーナー
先号   次号

ゼネラルなプロ (27)

向後 忠明 [プロフィール] :1月号

 あけましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願いいたします。
 引き続き昨年に続き“ゼネラルなプロ”の執筆をしますので飽きずに読んでください。

 <前12月号よりの続き>
 これからの日本は少子高齢化やグローバル化が進み、一方では日本経済の地位がどんどん低下していくといった現象が続くと、新聞や雑誌でもよく報道されています。
 そのため、働く人たちの環境も、求められる人材像も読者諸氏だけではなく多くの人たちの働き方も変わるし、また働く場所も変化していくと思われます。
 特に新興国の発展はこれまでとは違ってその発展度合いも昔と比べてさま変わりです。
 これまでの日本は1憶2千万人の安定市場といった基礎の下でのビジネス展開が主なものでした。
 しかし、昨今では中国、韓国、インド、そして東南アジア等の新興国が目覚ましく発展し、日本企業も安閑としていられなくなってきています。
 まず大きな影響を受けているのが製造業そして建設業であり、この傾向は大企業に限らず中小企業も例外ではありません。
 特にこれら企業には大きな影響が出て今後は本社機能まで成長市場に近い、海外に移転させるところも出てくるでしょう。
 一方、人材においてもこのようなビジネスのグローバル化に伴って、外国人を日本国内の正社員として雇用するケースも出てきています。
 そのため、日本企業に勤めている日本人もこれまでとは違った意識を持ってビジネスのグローバル化に対応できるようにしておく必要があるでしょう。それには自分の専門としていたこれまでの仕事の内容をハイブリットで高度化した専門知識を持ち、そしてビジネスのグローバル化に対応できるようにすることが求められます。

 すなわち、変化に柔軟に対応できるT字型またはπ字型の人材、すなわち“ゼネラルなプロ”の育成が急務となります。

   前回はアルジェリアやオランダへの出張での出来事の話をしてきました。その中でコミュニケーションの重要性について述べてきました。
 読者諸氏の中で海外での仕事はたとえば英語ができれば十分と思っている人もいます。
 確かに、一つの専門に特化した技術を持つ専門家が海外で仕事をする場合は、その専門技術そしてある程度の語学(たとえば英語)ができれば十分と思います。
 このことは、前月号で話題にしたアルジェリアやオランダでの著者が経験したことから理解できます。
 しかし、もっと英語、特に会話ができればこの出張で多くの友達もでき、またその人たちから多くのことを聞くことができたのではないかと、今でも残念に思っています。
 この悔しさをばねに英語能力をもっとつけようと何とか海外での次の仕事につけるように社内営業を開始しました。
 そこで見つけたのがフィリッピンのプロジェクトでした。著者が会社に入社してから5~6年目の頃でした。(1974年頃で先月号の表26-1に示すまだまだ日本企業がそれほど多く海外に出てない頃)

 <フィリッピン>
 フィリッピンは日本からも近く、英語を主とする国であり、仕事相手としてはアメリカやイギリス人よりなんとなく親しみやすさ感じました。このような理由から、このプロジェクトに参加することを希望しました。
 しかし、専門部に所属している人が海外のプロジェクトに参加することはよほどの国際プロジェクト部門からの引きがないと難しいものでした。そのため、何とか上司を説得し、国際プロジェクト部門と兼務ということでこのプロジェクトに参加することができました。

 しかし、この国際部門はプロジェクマネジメントを主体としたもので担当するプロジェクト全体を仕切るといった仕事です。
 この当時ではプロジェクトマネジメントに関するスキルは全くの素人でした。
 もちろん、この時はプロジェクトマネジャなどではなくプロジェクトの中の一部の設備の担当プロジェクトエンジニアーでした。
 ここで初めてプロジェクトマネジメントというものに関係することになったのです。
 この当時は読者諸氏もご存じのPINBOKやP2Mといったプロジェクトマネジメントに関する書物などありませんでした。
 そのため、社内のプロジェクトマネジメントに関する書物(ほとんど英語)でしたが、そこから基礎知識を学び、わからないところは先輩に聞いたりして、実際のプロジェクトで学んでいきました。いわゆるオンザジョブでの学習です。
 また、このプロジェクトの顧客は外国資本の製油所で、すべてのコミュニケーションは英語であり、書類もすべて英語で作成する必要がありました。
 アルジェリアでの仕事はほとんど“書く”ということはなく、プロジェクト担当の人がやってくれたので問題ありませんでした。
 しかし、今度は”英語で書く“という試練が出てきました。
 これまで会話に重点を置いてきましたが今度は書くこともやらなければならなくなり、毎日が辞書と首っきりで勉強しました。
 もちろん顧客に提出するときは英語圏の現地社員がいたのでチェックしてもらいました.最初の頃は原型を残さないくらい訂正が入りました。
 しかし、曲がりなりにも数か月たつと徐々に訂正箇所も減ってきて何とか文章もまともになってきました。
 学生時代は読むことと書くこと(いわゆる和文英訳)をやってきていたのでその上達も会話と比較し早かったのだと思います。
 会話については頭の中で日本語を思い浮かべ和文英訳して言葉に出している状態であり、なかなか上達しません。当然ヒアリングも英文和訳というワンクッションおいた形での会話となっていました。
 このような英語能力の状態でフィリピンにでかけることになりました。
 この時もやはり羽田国際空港からの出発でした。出張期間は3か月の駐在ということでした。
 フィリピンは日本からも近く確か4時間もかからずマニラ空港につきました。
 フィリッピンに着いた当初の仕事はマニラにおいて商社や顧客との打ち合わせであり、そのためマニラのホテルに数週間ほど宿泊することになりました。
 もちろん顧客との打ち合わせは英語でした。
 また、ホテルでは受付の人たちとも仲よくなりここでも英会話の練習を試みました。
 このように、なるべく日本語を話さずまたヒアリングスキル向上のため現地の人と付き合い、英語能力のスキル上達の努力をしました。
 一方、この頃のフィリピンは政局もしっかりしていないため戒厳令などが引かれ夜遅くなると一切の外出は不可能になるような状態でした。
 また、各企業は入り口にライフルを持った警備員が必ず立っていて、非常に不気味な景観でした。変わった動きをするとすぐに撃たれそうな感じでした。このようにまだフィリピンは現在のような安全な場所ではありませんでした。

 数週間ほどしてマニラでの一連の打ち合わせが終わり建設現場に行くことになりました。その場所はバターンというところで、前もって得た知識によるとこの場所は第二次大戦のころ山下将軍がフィリピン人を含む外人部隊の捕虜を虐待したところと知っていました。。
 その事件とは「バターン死の行進」という事件で日本人でもよく知っているものです。

 そのため日本人に対する感情に厳しいものがあるようで、このようなことからプラントエリア全体は鉄条網で囲み、雇い兵を配置して万全の態勢をとっているとのことでした。いよいよバターンへ赴任することになり、何も起こらないことを祈りながらバターン半島に向かいました。
 ところが、バターンに向かう途中で事件に遭遇することになりました。それは!!

 「運転手が急ブレーキで車を止めました。
 何が起こったのかと前方を見ましたが周りはすでに薄暗くなっていて、その原因にはすぐ気が付きませんでした。
 よく見ると大きな木材が道路の真ん中に置かれていました。
 そのため、運転手と一緒にその障害物をどけようとして車のドアを開けたましたが、その時、遠くでパーンという音がして車体にカーンという音がしました。
 運転手は急いで著者を車に誘導し急発進をし、その場を急いで去りました。何が起こったのかわからないので運転手に聞いたら“あれは銃声でこちらを狙ったもの”ということでした。」

 このようなことに遭遇しましたが、無事、暗くなってから所定のホテルに着くことができました。
  翌日、現場事務所に行き、この事件について話をしたら現場の人たちにも同じ経験をしたと言ってました。
 このように国の治安状態によっては自分自身の責任は自分の知恵で身を守る必要があるのだな・・・と感じました。
 その後は何度も打ち合わせでマニラに行きましたがなるべく明るいうちに行き来をするようにしました。その結果では幸いにも上記で述べたような事件には二度と遭遇しませんでした。
 その後は何事もなく順調に職務をこなしていきました。

 ところが、現場に来て2か月ほどして担当する仕事にも慣れてきた頃、今度は右目に激痛が起こり、仕事どころのことでなくなりました。会議などでは目もあけることもできず、まるで「座頭市」のようなしぐさで顧客への説明をする始末でした。周りの人も心配してくれてさっそくマニラの病院に行きました。
 診断では“このままだと右目が失明する”ということでビックリ、そして入院することになってしまいました。
 現場事務所のトイレやホテルの不衛生な備品を使った手で、目をこすったりしたことが原因かと思います。
 病名は“コンジュバイデス”ということでしたが全く意味が????でした。後でわかったのですが「結膜炎」のそれも重度の症状ということでした。
 そのため、結局は仕事のほうは中断でマニラの病院に入院することになりました。
 一週間ほどの入院で完治しましたが、日本からの帰国命令で退院後すぐに帰国ということになりました。
 このように自分の与えられた職務を全うできないまま帰国となってしまい悔しい思いを残すフィリピンでのプロジェクトでした。

 ここで言えるのは、日本と同じ環境にあるといった甘い気持ちがこのような結果となったと反省したものです。
 すなわち海外での長期の暮らしにおいては現地の文化、習慣そして日本人に対する偏見そして安全や衛生面での心がけなどに関する知識を持って臨む必要があるということを体験することができました。
 フィリピンでの経験は英語の実力向上とプロジェクトマネジメントの基礎的要件そして現地における注意やリスク等々を学ぶことができました。
 このように若い時には海外の仕事に大いに挑戦し実体験でいろいろと学んでいくことは書物で学ぶより体感的に理解することができます。
 ところが最近はあまり海外、特に新興国に仕事で長期に出ることを望まない人が増えていると新聞報道にありました。
 なぜそういうような傾向になったのか? 特に、現代はビジネスのグローバル化が問われているのに・・・!
 当時はサラリーマンのもっとも興味のある職種として国際、広報等があり、国際ビジネスにあこがれを持った人たちも多かったようです。
 ところが今は、発展途上国といった(今は新興国)国がかなり技術的にも日本に負けない企業もあり、円高による日本企業の海外逃避、デフレスパイラルの真っただ中、政治の沈滞そして失業者の増加等々あまり良い環境ではありません。
 なんとなく、現在は給料も上がらず、ビジネスを取り巻く環境も悪く、意気も上がらない沈んだ状況にある日本の働く人たちも前向きにならない気持ちもわかるような気もします。
 しかし、円高で企業がどんどん海外に出て行き、また外国企業の追い上げがあるようなビジネス環境下にある今こそ新たな発想のできる、そしてとグローバルに活躍できる人材必要となってきています。また、これをチャンスとみて挑戦し、行動のできる人材がこれからの日本に必要なのです。
 この人材が、これまで説明してきた“ゼネラルなプロ”なのです。

 さて、フィリピンプロジェクトの次にかかわった国はトルコ、インドネシア、そしてシンガポールといった国々でした。
 プロジェクトの内容も高度化、複雑化し、規模も大きくなっていきました。
 これらのプロジェクトは海外への長期の駐在はなかったので、これまで話をしてきたアルジェリアやフィリピンで体験したようなことはあまりありませんでした。

 しかし、これらのプロジェクトは競争入札によってかなりきつい競争で受注したものでした。これらのプロジェクトで覚えたことはプロポーザル作成、交渉そして契約といった一連の受注活動での活動手順とその方法です。
 その結果、プロジェクトマネジメントを志す者はこの契約までの一連のプロセスと活動内容について深く理解し、知識として持っていることが重要であることを知りました。
 これらの一連のプロセス及び活動内容についてははすでに“ゼネラルなプロ(13)~(16)”で説明しているので、そちらを参照してください。

 特に海外プロジェクトを実践しようとするプロジェクト担当者は「契約」という行為に熟達していなければなりません。
 契約は「神との約束」いうことで利害関係者が対等な立場で物事を目的に向かって進めるにあたっての約束文章です。
 特に日本と海外での異なるビジネス慣習の下ではこの行為は必須であり、またリスクマネジメントの基本文章にもなります。
 日本人は「性善説」に立って物事を進めるきらいがあります。しかし、ビジネスにおいては「性悪説」に立って契約関係の書類を作成していく必要があります。

 これらの各国での一連のプロジェクト活動からプロジェクトマネジメントに関するエッセンスの多くを学び、ある程度のプロジェクトをプロジェクトの代表、すなわちプロジェクトマネジャとしてやっていける様な気がしてきました。
 この時は1980年の頃であり、著者も30歳代中頃の脂ののった頃の話でした。

 今月号は以上ですが、次月号ではシンガポールでのプロジェクトの話をします。

ページトップに戻る