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時間を堪能する力

井上 多恵子 [プロフィール] :3月号

 世の中には多くの不平等が存在するが、時間に関しては比較的平等性が高い。もちろん、寿命や自由に使える時間の多寡は人それぞれ異なる。しかし、一日24時間という時間は誰にでも等しく与えられている。その時間をどれだけ有意義に過ごせるかによって、人生の充実度は変わってくる。
 では、時間を堪能するためには何ができるのか。そのヒントになりそうなことに、最近気づいた。一つは、5週間前から始めたコーチングのプログラムだ。これは、自分ができるだけベストな状態でいられるように、心と脳を訓練するプログラムだ。
 このプログラムの開発者であるシルザッド氏によると、人が理想的な状態になることを妨げる脳や心の機能は複数存在している。そして、その中で万人が共通して持っているのが、「評価や判定をすること」だという。対象は、自分自身、他人、そして環境である。この説明を聞いたとき、強く共感した。私は物事が順調に進んでいるときは意欲的に行動できるが、ひとたび失敗すると自己批判に陥り、なかなか抜け出せなくなる。以前は他人に対しても厳しかったが、コーチングを学ぶことにより、それはある程度コントロールできるようになっている。しかし、自分自身に対して厳しくある癖はなかなか抜けない。
 シルザッド氏は、「失敗を認識し反省することは大切だが、それを長引かせることは意味がない」と指摘する。確かに、いくら自分を責めても、失敗した事実は変えられない。それでも、頭の中で失敗のシーンを何度も再生し、多くの時間を無駄にしてしまうことが私にはしばしばある。さらに、その落ち込みが、新しい挑戦や日常生活にも悪影響を及ぼすこともある。
 そんな時は、前向きな思考を促すために「身体の感覚を使うと良い」とのことだ。例えば、10秒間、周囲の音に耳を傾ける。自分の呼吸や周囲の微細な音に意識を向けることで、普段聞き逃している音が聞こえてくる。深呼吸をしながら音に集中すると、わずか10秒でも落ち着いた自分に気づける。味覚についても同様で、じっくりと味わうことで、それまでに気づかなかった味覚との出会いを楽しめる。
 何かをした際の疲労も、ヒントを与えてくれる。同じ作業でも、疲れ方は大きく異なる。例えば、慣れている講義は一日中行っても疲れないが、経験の少ない講義では、疲労感が増す。先日担当した2時間のワークショップは、後者。終えた途端、頭が圧迫されるような感覚に襲われ、入浴するまで圧迫感から解放されなかった。このワークショップは、それまで仕事をしたことがなかった企業向けに実施した。初回ということで、成功させてぜひ次に繋げたいという強い思いがあった。それだけでなく、この機会をくれたコーチの信頼を裏切ることはできなかった。彼は、私の経歴を見てオンラインで一度話しただけで、英語のワークショップを実施できる人材として仕事を任せてくれたのだ。信頼してくれたことに応えるべく、事前に何度もシミュレーションを繰り返し、本番では30人の参加者一人ひとりに気を配った。普段以上に観察力を働かせた結果、脳内では多くのシナプスが活発に信号を送り合っていたのだろう。その結果、2時間が丸一日ほどの長さに感じられ、疲れに十分見合う充実感があった。
 この経験と比較すると、普段の生活は「自動操縦」に近い。新しい経験をすれば、「自動操縦」から抜け出すことができるが、大人になると、新しいことに触れる機会は減ってしまう。では、どうすれば、代り映えしない日常の中で、新しい発見ができるのか。
 意識の向け方次第で、時間の感じ方を変えることができる。試しに、前述した「身体の感覚を使う」ことに意識を向け、山手線に乗った際、「鶯谷駅」から連想を広げてみた。「ウグイス」→「鳴き声」→「ゴールデンウィークに訪れる伊豆高原」→「幸せな時間」……と、思考が次々と展開されていった。ワークショップで経験したほどではないにしても、脳内のシナプスが活発に動いている感じがした。何かの文章を読む際も同じだ。文字面だけ追うのと、既存の知識とつなぎ合わせてみたり、情景を想像してみたりしながら読むのとでは、大きな違いがある。例えば、マンションの価格について書かれた記事を読んだとする。坪当たりの平均販売額の記述を読んだ際に、「ふーん」と思って読み飛ばすのか、「一坪は、約3.3平米。私が住んでいるところは、〇〇坪。購入時の価格は〇〇だったから、今の平均販売額と比較すると、〇〇。〇〇年で〇〇の差が出ているんだ。」と思考を巡らしてみたり、聞こえてきた音声に漢字をあてはめてみたり。そうしたちょっとした頭の体操をするだけで、時間の感じ方が変わってくる。ぼーっと過ごす時間ももちろん大切だ。でも今の私は、もう少し時間を堪能できる余地があるように思う。より意識を向けることで、限られた時間をより堪能できるようになりたい。

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