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新しい見方をする力

井上 多恵子 [プロフィール] :12月号

 「えー?762円?なぜ?いつもは300円台なのに?」電子マネーで支払いを終え、表示された金額を見て、思わずつぶやいた。そして、カウンターに置かれたヨーグルトを見て、初めて気づいた。ヨーグルト2個分を私は買おうとしていたのだ。週2回の定期購入で、毎回ヨーグルトを一個買っている。買う際には、店内に置かれたミニ冷蔵庫から透明な袋に入ったヨーグルトを取り出している。昨日も、同様にしたはずだった。落とし穴は、これまで袋に入っていたのは、ヨーグルト一個だけだったということだ。二個を購入するお客さんが今回登場したのだ。とは言え、一個と二個では、重さも全体の大きさも違う。普通なら、当然その差に気づくはず。でも全く気付かないほど、私は無意識状態だったのだ。そこにあるものを見ないで、「そこにあるはず」と私が思い込んでいるものを見ていたのだ。
 思い込みにより、あるはずのものが見えない。我々の思考も、同様に凝り固まり勝ちだ。本来楽をしたがっている脳は、一つの見方を続けることで楽をしようとする、という話も聞いたことがある。だから、「前もダメだったから、今回もダメだ。」「あの人はこういう人だ。」「自分はこういう人だ。」と決めつけようとする力が強くなる。決めつける力がポジティブに働けばいい。例えば、「私にはこれを成し遂げる力がある。」「あの人はいい人だ。」など。しかし、凝り固まった思考では、新しい可能性を見つけることは難しくなる。
 思考の柔軟性を高めるために推奨されているのが、多様な人達が自由に発言できる場をつくることだ。11月に一般財団法人海外産業人材育成協会(AOTS)で開催されたプロジェクトマネジメントの研修では、そういった場が提供されていた。私が講師を担当したリーダーシップの講義で、グループワークをしてもらっていた時のこと。あるグループのところで、「議論は進んでいる?お互いから学びを得ている?」と聞いたら、即座に返事が返ってきた。「すごいよ。だって、自分たちのグループは、全員違うからね。今住んでいる国も携わっている業界も。だからとても刺激的だよ。」と。その研修には、新興国の方々が集まっていた。私が話しかけたグループには、インド・パキスタン・バングラデッシュ・タイ・メキシコ・フィリピンから、建設・製造業・IT系など異なる業者の年代が異なる参加者が集まっていた。
 多様な人達、といった場合、このAOTSでの研修のように、国や業種や年代などが異なる人達が集められるのがベストだ。しかし、あらゆるところでそれが可能か、というとそうではない。そんな時にどうやったら、新しい見方をできるようになるのだろう。
 イノベーション研修で学んだ方法が活用できる。強制的に、新しい見方を取り入れる方法だ。例えば、「スティーブジョブスだったらなんて言うだろう。」というように、誰かになったつもりで、その人の思考方法を借りる。「誰か」は、こういう思考方法をしたいという目的に沿って、自由に選べばいい。実在する、あるいはしていた人物でなくてもいい。実際ディズニーストアを改装する際に、妖精だったらどう考える?という問いから考えていったそうだ。具体的な問いを使う方法もある。「この施策を半分のお金でやるとしたら?」「10倍の成果を出すためには?」というように制限をかけるものや、反対に制限を取っ払って、「もしお金が無尽蔵に使えるとしたら?」「もし制約が全くないとしたら?」という形で考える。「6つの帽子」思考法というのもある。頭の中で生み出されるさまざまな思考の種類を6色の帽子に振り分けて整理するというものだ。例えば、白い帽子は事実に注目し、赤い帽子は直観に注目するといった形だ。
 自分一人で、これらの方法を実践するのは、ハードルが高いかもしれない。その場合は、誰かの力を借りるといい。私が新入社員だった時、両親に悩みを話したことがあった。「ハワイ向けの海外営業を担当しているけれど、失敗ばかり。どうしよう。」と。そしたら父がこう言った。「会社は多恵ちゃんの失敗だけでつぶれないよ。トラブル解消で、ハワイに行けるかもしれないよ。」と。ハワイに行くというのは行きすぎだろうとは思ったけれど、確かに会社はつぶれないよな、と思ったら気が楽になった。自分の小さな失敗をより大きな視点で見るきっかけを父はくれたのだ。
 2024年のスタンフォード大学の卒業式のスピーチで、ある人から聞いたという比喩をメリンダ・ゲイツさんが学生にプレゼントしている。岸辺にぶつかると消えてなくなる波を見て、大波が「終わりはもうすぐだ。」と小波に言う。すると、おびえる大波に小波は言う。「大丈夫。私達は水だから、岸にぶつかっても大丈夫。」と。自分が見方を変える力を持つだけでなく、誰かに新しい見方を贈ることができる存在になりたい、とこの比喩は、私に思わせてくれた。
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