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手放す力

井上 多恵子 [プロフィール] :4月号

 “Let it go.” こう言いながら、高く挙げた右腕をひらひらとさせながら下降させる。私の師匠、マーシャル・ゴールドスミス氏に倣って、何度か繰り返してきた動作だ。“Let it go.” の意味は、「それを手放せ。」マーシャル・ゴールドスミス氏は、コーチングの神様と称される方だ。自分がコントロールできないもの、追いかけてもしかたがないものは、手放したほうがいい、というのが彼の信条だ。彼の信条のメリットを頭では、ずっとわかっていた。でも、実践できていなかった。
 元々私は、過去を振り返ってクヨクヨすることがよくあった。洋服などを手放した後に、「ああ、残しておけばよかった」と思うのはまだかわいいほうで、何かで激しく落ち込んだ時などは、なんと子供時代にさかのぼり、「あの時ああしておけばよかった」と思っていた。過去の複数のシーンを何度も何度も、頭の中で繰り返していた。自分が希望して職場異動をした際も、異動した先で辛いことなどがあると、「前の職場の方がよかった。なんで異動なんかしたのだろう。時計の針を巻き戻せないだろうか。」と思っていた。そんなこと、思ってもなんの得も無いどころか、マイナスしかないにも関わらず。
 そんな私も、今は「手放すこと」が少しは、上手くなった。2023年3月末に長年勤めた会社を卒業した後、「卒業しなければよかった」と思ったことは一度も無い。幸せ者だと思う。卒業し個人事業主として独立した後の一年間、たくさんの仕事に恵まれ、とても充実していた。会社を卒業したら仕事が無くて寂しくなるのでは?という心配は杞憂だった。一緒に仕事をしていた人たちと離れた先には、ワクワクする数多くの人達との出会いがあった。元同僚たちとも、縁が完全に切れたわけではない。一部仕事をお願いされていたり、あるいは、お茶をして近況を報告しあったりしている。新しく出会った人たちは、それまで私が知っていた人たちと人種が違うと思う位、生きてきた世界が違っている。だからこそ、彼らと接していることが、私にとって大きな刺激になっている。グローバルコミュニケーションのコーチングをする中で、多くの人達と毎週顔を合わせている。親しい友人たちとおしゃべりをしているような感覚だ。仕事の内容も変わった。社内政治の部分はなくなり、純粋に相手の成長を願って接することが増えた。それまでの世界を手放したら、ワクワクする世界との出会いがあった。磨いてきた自分が得意とする領域で勝負できているからだろう。
 先日、転職をしようかどうか迷っている知人の相談を受けた。知人曰く、今いる職場は安定していて給料もよい。仕事にも慣れているので、大変なことはない。一方で、自分の貢献度と比較すると、低く評価されていると感じる。年齢的には後進の育成の立場になっており、自分を育成してくれるような職場ではない。モチベーションもさほど上がらず、成長実感も低い。そんな知人に対し、私はこう答えた。「私があなただったら、転職する。私は器用ではなく精神的にも強くないので、社内異動するだけで、上手くいかないことが多かった。これまで複数回転職を成功させてきたあなたは、違う。新しい環境に行っても、対応できる。これから何年も、充実感が無いまま仕事をしていくのは、精神的にもマイナス。年齢を重ねた今転職するのは不安かもしれないけれど、あなたなら、今の安定を手放しても大丈夫。手放した先に出会う世界を楽しみにして。」
 手放す、という点においては、ある出来事に対する自分の感情も対象になる。あることに対して、イラついたとする。誰でも、自然と湧き上がる感情を抑えることは難しい。できることがあるとすれば、イラついた感情をできるだけ素早く手放すこと。イラついた感情のまま行動すると、自分自身がその瞬間に集中できなくなるだけでなく、周りに対して悪い影響を与えることになる。嬉しい感情は長続きしないが、イライラした感情は長続きする。それだけでなく、何かがきっかけで戻ってきやすい。「そういえば、あの時あの人にひどいことを言われたな」と思いだすと、以前の私は、そのイライラした感情を反復し、増幅させていた。今は、「あ、またそういう感情の中に入っているな。」ということに気づき、自分に言い聞かせることができるようになっている。“Let it go.” と。そう言えても、イライラした感情はすぐには離れてくれないことの方が多い。しかし手放せないことによる弊害を知っている今、引き続き手放せるよう、努力していくしかない。
 先日聞いたウエビナーで、「あなたがどういう態度で振舞うのかを感情に指示させるな」と語っているアメリカ人がいた。そうか!不の感情を手放せない時でも、どう振舞うのか、それは自分で決めることができるのだ。そう考えると、自分にできることの余地は大きいように思う。

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