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日本の宇宙開発草創期、米国技術を熱心に習得する
~丁稚奉公(見よう見まねで)でノウハウを習得~

PMマイスター 長谷川 義幸 [プロフィール] :12月号

〇 宇宙開発事業団は米国技術導入を図る (*1)
 私が宇宙開発事業団(現JAXA)に入社したのは、N-1ロケットによる衛星「きく」を中高度軌道に打ち上げに成功した1976年(昭和51年)であった。当時日本は先進国においつけ追い越せとの機運が充満していて、宇宙開発も放送、通信、気象の静止衛星の打ち上げを政府より求められていた。そのため、旧国鉄の技師長として東海道新幹線という巨大技術システムを築き上げた島秀雄氏を初代事業団の理事長に迎えて宇宙開発推進を図った。そんな中、私は入社の辞令を島理事長よりもらった。

〇 技術導入の背景
 当時の日本の宇宙開発はよちよち歩きの子供であった。
 アメリカは、すでにアポロ計画で月に人を送り込んでいたし、ロシアは有人宇宙ステーションを本格的に行う準備をしていた。
 日本政府として、宇宙の開発・利用は、非常に重要なものであり速やかな展開が期待されていながら、なかなか成果が出ず、思いが満たされない状況であった。このため、自主開発路線を行っていた「宇宙開発推進本部」を改組して「宇宙開発事業団」とし、島秀雄氏のリーダーシップで開発を促進させようとしていた。
 島氏は着任早々から自主国産から技術導入へ移行する方針転換を行った。その方針が政府に承認され、日米政府間協定を締結してアメリカのロケット技術を導入して技術の習得を始めることになった。
 島氏の目標は「日本の宇宙開発が一定の技術能力を確保するまで技術導入の経験を通して独自の滋養すること。事業団の技術者らは将来的に独自の技術基盤を築きあげる。」であった。 (*2)
 しかし、アメリカの技術供与は“平和目的に限る。衛星の再突入技術はICBM開発につながるとして規制”となったのでほとんどがブラックボックスであった。

〇 米国技術を熱心に習得
 私は入社2年目にアメリカのカルフォルニア州パロアルトにあるフォード・エアロスペース社(注)の工場に出張するように命ぜられた。
 現地駐在員はメーカーの5人が滞在、米国政府が駐在用ビザを発給しないので、3か月おきにアメリカ国外に一旦出て再度ビザを取得しなければならなかった。
 事業団技術者は出張で滞在する。アメリカ企業との契約があるうちに、事業団とメーカーの技術者が技術を貪欲に吸収する努力をしていた様子を出張中に目の当たりにした。
 (注)フォード自動車の子会社。1990年にスペースシステムズ・ロラール社へ売却。

 1週間に一度、日本担当マネジャーとの会議があり、これまでの進捗状況と今週の予定を数枚のプレゼンでマネジャーが説明する。
 試験についても、概要説明があるだけ。「試験現場では、写真をとってはいけないし、メモやスケッチをしてはいけない。ただみるだけ。質問は、上記会議でしてくれ。写真をとりたいのであれば、事前に打ち合わせで申し出てくれ。会社の専属のカメラマンにとらせる。」 など非常に制約が多かった。
 駐在員は交代で現場にいき、じっと衛星の周りにある試験装置の配置と試験のやり方、試験装置メーカー名を記憶し、交代要員がくると直ちにオフィースにもどり、記憶した内容をポンチ絵と装置メーカー名を用紙に記入し、試験のポイントは何か、などの説明を加える。
 すべては記憶できないので、忘れた部分は、〇〇と記しておき、それが終わると現場に戻り交代する。交代した者はオフィースにもどり、先ほどの用紙に情報を加えていく。一日が終わると全員オフィースに集合してこの日の出来事を総ざらいして報告内容を仕上げ、メーカーと事業団にFAX(1ドル360円であり、国際電話は非常に高く重要な時にしか使えなかった。)で伝送する。
 翌日朝には、日本からFAXで、「試験装置の型番を調べよ。試験の合否基準はどのようにして決めたのか、過去の衛星開発での経験を探れ。」などの指示が書いてあり、手分けして調査にあたった。一方、日本では、得られた情報を基に、衛星の開発を自分たちで行うべく試験方法、合否の根拠、必要な試験設備の手配をしていた。

 私は中堅になりNASAとの技術調整でしばしばアメリカ出張をした。試験の合否基準の話題になったときに、どこからその基準がでているのか議論していた。
 彼らは「過去の不具合を反映させて基準を厳しくした」というので、「その経緯が書かれた技術資料をもらえないか?」と頼んだ。その技術者とは懇意になっていた。すると、「輸出管理規制に該当しないかどうか確認して、問題がなければ送ってあげる。」
 2週間位して、分厚い封筒が送られてきた。コンフィギュレーション管理や品質管理のやり方も含まれていた。アメリカはシステム工学やプロジェクトマネジメントを利用して、開発手順の手続きを整然と決め、問題発生時にタイムリーに決断ができるようにしている国であると改めて感心した。

 日米政府間協定は、ともかくアメリカが日本を自分たちの仲間になるまで手助けしてやろうというものだった、温かく見守ってくれたアメリカの懐の深さを実感した。
 日本が現在ロケットも衛星も設計製作できるようになったのは、技術導入を生かして努力を続けていったのが花開いたものと最近しみじみ思い出している。

[参考文献]
*1 :中野不二夫著、「日本の宇宙開発」、文春新書、平成11年
*2 :佐藤靖著、「NASAを築いた人と技術」、東京大学出版会、2008年

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