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シミュレーションをする力

井上 多恵子 [プロフィール] :10月号

 「失敗からも学ぶことが大事だ」と良く言われる。私もその通りだと思い、研修などでも、「経験から学ぶようにしてください。その際、失敗に目をつぶるのではなく、失敗からも学ぶ姿勢が大事です。」と語ってきた。先日、その言い方を少し修正したいと思った表現との出会いがあった。「失敗を単に認めるのではなく、ちゃんと考えてやった結果の失敗なら、学びがある。」マイクロソフトの40代トップの方が、あるセミナーで語った言葉だ。そうか。やみくもに行動し、上手くいかなかったら反省すればいいというわけではないのだ。何かをやる前に「ちゃんと考える」ことを自分に課してきたからこそ、このスピーカーは、マイクロソフトで高い職位につくことができたのだろう。
 何かの行動をするにあたり、その行動を取ることでどういう展開になりえるのかを想像し、必要に応じて軌道修正する。そうすることで、仮説を立てて検証することができる。そして、それらが貴重な経験知として、自分の中に蓄積されていく。
 かつて、プロジェクトを共に進めたアメリカ西海岸のベンチャー企業。彼らは、ひたすら突っ走り、走りながら考え、不具合があったら修正をしていく仕事の進め方をしていた。例えば、ソフトウエアに何らかの変更を加えたらどんな影響が出るのか、を事前に詳細に考えることはせず、お客さん相手に、実験を繰り返していたようなものである。そんな彼らに対し、「慎重に進めてください!」と何度、お願いしたことか。何か不具合が出れば、course correct =軌道修正すればいいと思っていた人たちとの仕事は、大手企業で手堅い仕事をしていた私には、こわいものがあった。
 事前にシミュレーションをして、ベストと思われる行動を取る仕事の進め方の方が、私にはあっている。コーチングを通じても、その大事さを学んだ。以前アメリカ人の著名な方がコーチングする場面を見たことがある。部下との接し方を変えることを決心した人に対し、コーチはこう言った。「部下に伝える場面を想定して、言ってみてください。」コーチングを受けていた方(コーチー)が、あるフレーズを言ったら、「その言い方で、あなたの部下はどう感じるでしょうか。」と聞いていた。その質問を受け、言い方を少し変えるといったやり取りを何回か繰り返して、はじめて、「あ、この表現なら大丈夫そう。言いたいことがちゃんと伝わりそうだ。」という表現に、コーチー自身がたどり着いていた。
 だから、私が講師をする研修では、知識だけを一方的に伝えるのではなく、知識やスキルを実際に職場で使うとどういうことがおきそうか、を考えてもらい、時間が許す限り、実際の場面を想定したロールプレイもしてもらっている。実践を想定してどう適用するかということを考えて試してみない限り、スキルや知識は身につかないと確信しているからだ。特に、人間関係を良くするためのコミュニケーションスキルなどは、知識と実践の差が大きい。知識はたくさん持っていても、部下を動機づけることができないどころか、かえって苦しめるコミュニケーションを取るマネジャーを数多く見てきた。今はやりの上司と部下との一対一の面談も、形式だけ取り入れようとすると上手くいかないことが多い。だから、私が行う一対一の面談の研修では、伝える知識量は絞り、練習とフィードバックを繰り返すようにしている。
 そういう私自身も、適切なシミュレーションがいつもできているとは言えない。グローバルコミュニケーションを指導する機会が複数あるが、相手目線に立つレベルが十分でないことをよく思い知らされる。教材を作る過程で、自分目線になり、「これぐらいはわかるだろう。知っていてほしい」と言う私の想いが、相手の現在地とずれることが多々ある。何回も失敗し、注意しているつもりだが、先日もまだまだだということを知った。私が教えているあるグループの人達は、「これで大丈夫?」と聞くと「大丈夫」と答える。だから、問題はないのだろうと進めていたが、「大丈夫でなかったら言ってくれるだろう」という私の推測が甘かった。私やグループの他のメンバーに対する遠慮があり本音を言えなかった人達を置き去りにしていたことを、ある受講生と一対一で話をした時に教えてもらった。
 今回セミナーで聞いた言葉を当てはめると、「ちゃんと考えていた」とは言えない。今年も残り三か月。新しい対象者に向けて、新たに教材から作成したワークショップも実施する。「自分はこういう前提で考えた。」という思考過程を自分の中で明確にし、実践した後、「その前提は正しかったのか否か。正しくなかったとすれば、なぜか。どうすればより適切な前提を考えられたのか。」を振り返り、より精度が高い前提をその次の試みの際に考えることを繰り返すことで、受講者にとってより有益な研修やコーチングを提供していきたい。

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