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その瞬間を生きる力

井上 多恵子 [プロフィール] :9月号

 「メッチャ充実してるよ、毎日」。会社の元同僚から、「会社を辞めてから、どうですか?」と聞かれて、私がした回答だ。元同僚曰く、「珍しいですね。井上さんが、『100%充実している』と言い切るのは」。確かに、会社員時代、元同僚には色々と愚痴をこぼしていた。「上司と仕事のやり方が合わない。私を適正に評価してくれない。会議に出ても、発言する機会がほとんどない。」などなど。不完全燃焼の日々を過ごしていた。
 片や、「メッチャ充実している」今。「自分で選び取る自由」は、理由の一つだ。会社員ではなくなった今、どの仕事をやるかやらないかを自分で決めることができる。嫌な仕事はやらない、という判断もできる。もちろん、その前提として、仕事の依頼があることは必要だ。
 独立して個人事業主になる前の半年間は、正直不安だった。「仕事の依頼がなかったら、毎日どうしよう」と。身体のケアとすっきり感を求めて、毎日ジムに通うという選択肢はある。映画やドラマやポッドキャストを見聞きしたり、雑誌を読んだりすることもできる。しかし、私の場合、それだけでは動機づけの燃料が続かない。自分がやる活動が結果として、誰かの役に直接立っているという実感が、欠かせないのだと思う。
 幸いなことに、独立した翌月から、途切れることなく、仕事を頂いている。その安定感が、精神的な余裕に繋がっていることは間違いない。でもそれだけでは、「メッチャ充実している」境地にはなれないはず。ある日、グローバルコミュニケーションのコーチング・セッションを終了した時に、気づいた。コーチングのセッション中、100%集中することができていたからだ!ということに。
 「えー?普段から集中できていないの?」と言われそうだが、私は、できていない。いや、私だけでなく、集中力が続かない人は多いようだ。以前マインドフルネスの研修を受けた際、「現代人の集中力は8秒しか続かない。8秒は金魚の9秒を下回る」という話を聞いた。8秒の信ぴょう性はわからないが、カフェや電車で、人と話しながらスマホをいじっている人たちのことを見ると、納得がいく。私自身も、よほど複雑な動きでない限り、運動が終わったら何をするのがいいか、などと考えながら、運動をしている。この原稿を書いている時も、一気に書き上げるというよりは、ちょっと書くと、「なんかメッセージ来てないかな?」とスマホをいじっている。少しでも集中力を増そうと、外のスペースに行くと、目に入るものが減るので、多少ましにはなる。しかし、すぐ他のことを考えたくなることには、変わりはない。これはさすがにまずい。そう思って、他のことに意識が向き始めたら、少なくとも、他のことを考え始めている自分に気づくようにはしている。
 マインドフルネスの研修で、干しぶどう一粒を味わい尽くす、というワークを体験した。普段何気なく食べている干しぶどうを、全神経を集中して観察し、味覚を楽しむ。その時も100%集中できたわけではなかった。しかし、普段何気なく食べている時とは、干しぶどうの価値が随分異なって感じられ、集中することへの欲求は芽生えた。
 そんな私が、仕事で100%集中できた、というのは嬉しい驚きだ。コーチングのセッション中は、相手が発する一つ一つの言葉や、表情やジェスチャーや声のトーンなどの非言語メッセージを逃さないようにしている。相手がおかれた状況を想像し、どうやったら相手の気づきを引き出すことができるのか、どうやったら行動変容をしてもらえるのかを考えている。他のことを考えている余裕が無い。だから、充実しているのだ。自分が大好きで得意なコミュニケーションという領域で、価値を提供していると感じることができるからこそ、一時間、100%集中していても、疲れを感じないでいることができる。
 時間は誰に対しても、平等に流れる。その質をどう高めていくかは、自分次第だ。瞬間に集中し、瞬間を生ききる事ができている時間が仕事の大半を占めているというのは、なんて幸せなことなのだろう。Mrs. Green Appleの曲「僕のこと」のサビの部分の「ああ、なんて素敵な日なんだ」を、口ずさみたくなる気分だ。この歌には、「奇跡」や、「今日まで歩いてきた日々を人は呼ぶ。それがね。軌跡だと」と言った言葉がある。
 100%の集中を実感できたセッションを経て、誰かとその時間を共有すること自体が、奇跡だと思えるようになった。世の中に80億人を超える人がいる中で、そして、行動の選択肢が無尽蔵にある中で、一緒に時を過ごすことになった人。そのことを奇跡と捉えることで、瞬間を大事にする場面をこれからもっと増やしていきたい。そうすることで、相手にとってもいい時間になり、仕事の依頼も継続的に続いてくれる気がしている。
 皆さんは、充実している、生きている実感のある瞬間を過ごしていますか。もっと増やすために必要なことは何ですか。

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