ハンチバック
(市川沙央著、(株)文藝春秋、2023年6月30日発行、第1刷、93ページ、1,300円+税)
デニマルさん : 10月号
今回紹介の本は第169回芥川賞(2023年7月発表)を受賞し、以降色々な話題を呼んで、現在でも注目を集めている。その話題となったのが著書だけでなく、著者が重度身障者であることに起因する問題まで話が拡散していた。その辺りから諸諸の話題と本書の紹介をしてみたい。先ず著者の市川沙央さんをご紹介しよう。1979年(昭和54年)生まれ。早稲田大学人間科学部eスクール人間環境科学科卒業。幼少期に難病の先天性ミオパチー(体の筋肉に力が入らない筋疾患で、呼吸筋にも影響がある病気)と診断され、14歳から人工呼吸器を使わねばならない生活をしている。そこから療養生活という名の引きこもり状態だと本人が語っている。家から出られない、話せない自分は、だから小説家になると覚悟した。当時から愛読していた集英社コバルト文庫のノベル大賞に応募を始めて20年以上だという。その選考審査で三次選考まで残れるが大賞には届かなかった。それでも諦めずにチャレンジを続けていた。同時に、以前から作家・島田雅彦氏のファンだったので、島田氏が選考委員を務めていた「文學界」にチャンシしていた。本書「ハンチバック」の執筆期間中に大学の卒論(「障害者表象と現実社会」)と重複する事になり、本書が裏卒論的な役割を果たした。今年5月に第128回の文學界新人賞に選ばれ、7月に芥川賞の受賞となったと語っている。芥川賞発表での選考委員の平野啓一郎氏は、「最初の投票から選考委員会の圧倒的な支持を得て、最初の投票で決まりました。作品としての強さが選考委員から語られました」と選考経過を説明している。続けて内容については「本作の主人公は特殊な困難を抱えて生きています。重度の障害をもつ作者の実際の状況と作品、社会との関係が高いレベルでバランスがとられた稀有な作品として支持を集め、受賞が決まりました。否定的な評価は無かったが、解釈に関してはいろいろな意見が提示されて議論が盛り上がりました。作者が今後どのような作品を書くのか、期待する声も大きかったです。」と述べている。そして著者は、受賞後の記者会見で「こうして芥川賞の会見の場に立てたことは非常に嬉しくて、我に天佑(てんゆう)ありと感じています。」と述べ、「重度障害者の受賞者が、なぜ“初”なのか考えてもらいたい」のと「読書バリアフリー」を訴えていた。この著者の問題提起は、難しい内容を含んでいて、浅学菲才の筆者には簡単に纏められないが、出来る範囲で書いてみたい。
本書の話題性(その1) 書名「ハンチバック」とは?
書名の「ハンチバック」とは、聞き慣れない言葉である。英語のHunchback(脊椎上部が異様に湾曲しているため背中が丸くなっている人)で、俗に「せむし」「せむしの人」と和訳されるが、差別語であり現在では使われることはない。それを敢えて著者が書名にした理由がある様に思える。それを「芥川賞で重度障害者が“初”受賞者となった」点を考えて敢えて訴えている。ある選考委員は「健常者中心の社会の通念や常識を批判的に見て、困難な状況に置かれた者が語る文学」とも評している。この点は、受賞発表の記者会見で「訴えたいことがあって、初めて純文学を書きました」と述べている。著者の訴えたい点とは何か。是非、お読みになって探って頂きたい。参考までに本書概要を少しご紹介する。主人公は40代女性で、先天性の障害により寝たきり同然の生活を送っている。背骨が曲がった自分の姿をハンチバックとあざけりながら、マチズモ(健常者優先)の社会に対して反発しながら生きている。その主人公は「普通の女性の様に妊娠して中絶したい」と望む。それを施設の介護者の男性に大金を支払って実現しようと試みる。その背景には、障害者の自立した生活のあり方や将来設計やら、介護施設の介護のあり方(女性の入浴介護は同性者に限る等々)にも及んでいる。重度障害者を支える制度、体制、施設や介護者の問題等が山積している。
本書の話題性(その2) 当事者文学の創始者?
本書は、先に紹介した主人公(40代女性で先天性障害の寝たきり生活、自ら「ハンチバック」と蔑む)と著者(先天性ミオパチーで人工呼吸器を必要とした電動車椅子の生活)は重度障害者として重なる。著者は、本書を書いた経緯を「重度障害者の生活があまり知られていません。今この社会は健常者と障害者の社会が分かれてしまっていますが、本当に隣近所に障害者がいて、ふたつの世界が混ざり合っているような状態です。だから教育の段階から必要だと思っています。「ハンチバック」は分かりやすく、短いです。読んでいただければ、多様性という題目ではなく「実存としての多様性」を見ることが出来ると思います。」と語っている。芥川賞受賞時の記者会見で、この本は私小説ですかとの質問に、「自分としてはせいぜいオートフィクション。重なるのは30%という感覚です。ただ私小説的に読まれるだろうと予想して、家族には読まないでと言ってあるのですが・・。」と語っている。著者の卒業論文でのテーマは「障害者表象」であった。ちなみに「表象」とは、「知覚 した イメージ を 記憶 に保ち、再び心のうちに表れた作用」をいうが、元来は「なにか(に代わって)他のことを指す」という意味がある。故に当事者文学とでも置き換えられるのか。
本書の話題性(その3) 読書バリアフリーとは?
先に、著者が問題提起した「読書バリアフリー」について触れてみたい。著者は「私は紙の本を憎んでいたと云うバリアフリー」とは以下の5点。①目が見ること、②本が持てること、③ページをめくれること、④読書姿勢が保てること、⑤書店へ自由に行けることであると指摘している。これらは健常者が何の疑問も感じていない事だが、重度障害者には深刻な問題でもある内容だ。出版される書籍の電子化(デジタル化)は、全体の四分の一程度。大部分は紙ベースの本である。学校の教科書から定期刊行物や役所の公報や書籍等々バリアーの壁は厚い。本書が芥川賞を受賞して、色々と障害者のバリアーを訴えた結果、我々が初めて知った現実もある。著者は、最近のインタビューで「本書は怒りだけで書きました。でも、復讐は空しいという事も分かりました。これからは、愛の作家になれるように頑張っていきたいと思います。」と近況を語っている。読書バリアフリー解決は、これからである。
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