図書紹介
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天路の旅人
(沢木 耕太郎著、(株)新潮社、2023年2月25日発行、5刷、576ページ、2,400円+税)

デニマルさん : 8月号

今回紹介する本は、第74回読売文学賞(2023年03月07日、贈賞式)の随筆・紀行賞を受賞している。この読売文学賞は、読売新聞社が1949年に第二次世界大戦後の文芸復興の一助として発足した。小説、戯曲・シナリオ、評論・伝記、詩歌・俳句、研究・翻訳の5部門に分類し、過去1年間に発表された作品を対象とし、受賞者には正賞として硯。副賞として200万円が授与される。第1回目(1949年)の小説賞は、井伏鱒??二著『本日休診』が受賞し、今年で74回目となり佐藤亜紀著『喜べ、幸いなる魂よ』が受賞に輝いた。その中で、随筆・紀行賞は第19回(1967年)より創設され、團伊玖磨著『パイプのけむり』が受賞し、その後に白洲正子著『かくれ里』や司馬遼太郎著『ロシアについて』が選考された経緯がある。そこで今回紹介の本であるが、本書の内容から著者自ら(史上最長にして、新たな旅文学)と称する出来映えで、取材から出版までに25年近い歳月や著者と主人公との出会いを含めて色々な話題が満載されている。その辺から本書を紐解いていきたい。著者が事前取材で岩手県盛岡に一年以上通う背景には、幾つかの布石があった。キッカケは地元新聞に主人公の紹介記事があったが、それ以前に「秘境西域八年の潜行」(西川一三著、中公文庫)とTBSテレビで西川著書の「秘境西域」を辿る番組に関わったことがあった。この時点で著者は主人公が西川一三である認識は無かったという。その経緯を著者は、本書の序章で因縁めいた繋がりを書いている。しかし、この時点でも、まだ原稿作成には到っていない。2008年冬、某週刊誌での訃報「中国西域に特別潜行、西川一三さん不撓不屈」(89歳で逝去)の記事を目にする。ここから著者は、今までのインタビュー取材からの濃密な人間関係を含めて出版して責任を果たす意味で原稿作成に努めたと書いている。ここで時系列的に取材から出版までの経緯を整理してみたい。主人公が「秘境西域八年の潜行」を書き上げたのは、中国帰国後の1950年代の後半。中公文庫から出版されたのが1990年である。そして、著者が取材を開始したのが1990年後半。本書には正確な年代が書かれていないので、筆者の推定である。そして主人公の訃報に接して以来、本書の原稿書きをスタートしている。本書の肝心な「秘境西域八年の潜行」は第二次太平洋戦争の最中である。その途中で終戦を迎えるが、主人公は、何故か潜行の旅を続ける。その概略は少し後述しますが、本書で確かめて頂きたい。
その前に、著者である沢木耕太郎氏のプロフィールを紹介したい。1947年東京生れ。横浜国立大学卒業。暫くしてルポライターとして出発し、鮮烈な感性と斬新な文体で注目を集める。1979年『テロルの決算』で大宅壮一ノンフィクション賞、1982年『一瞬の夏』で新田次郎文学賞を受賞。その後も『深夜特急』『檀』など今も読み継がれる名作を発表し、2006年『凍』で講談社ノンフィクション賞、2013年『キャパの十字架』で司馬?太郎賞を受賞する。長編小説『波の音が消えるまで』『春に散る』、国内旅エッセイ集『旅のつばくろ』『飛び立つ季節 旅のつばくろ』、そして2023年に読売文学賞の随筆・紀行賞を受賞している。

著者と主人公の関係は?      ――書名「天路の旅人」への拘り――
著者は、当初本書の題名を「空(くう)」と考えていたという。それには主人公の西川一三との一年を超える取材インタビューから、8年間もの中国西域をラマ僧に扮して潜行した仏教的な意味合いと、主人公の人柄に強い印象を感じたのか。更に、般若心経の「色即是空 空即是色」の「空」の概念に引きずられたともいう。ある時「天路(てんろ)」という言葉に出合った。「空」と「天」の宇宙的一体感が、お互いの共通的な認識の様にも通じた。強いて挙げるなら、「二人の年齢差は、30年近くある。しかし二人の旅が二十六歳の時に始まっている。西川の身分は大使館調査員という肩書の「密偵」、一方著者・沢木の旅は重いミッションではなかった。この旅路は互いにインドで偶然に重なった。その運命的な繋がりの場面は、インドのカルカッタで釈迦(しゃか)の聖地ブッダガヤでの話。ブッダガヤの菩提(ぼだい)樹の下で太鼓を叩(たた)いていた盲目の老人についての話を沢木が話すと、西川が反応した。その盲目の老人が同一人物であったかどうか、お互いの確証は無いが非常に似通った体験をしている。著者は、原稿作成の過程で主人公に「自分自身を重ねていた」とも思われる印象もある。それが「天によって導かれた道であり、旅である」故に、書名は「天路の旅人」と決めた経緯を雑誌インタビューで語っている。著者は過去の自分の独り旅から、主人公の旅を辿って、何か運命的な繋がりを感じながら本書を書き上げたのかも知れない。

主人公・西川一三とは?       ――僧侶:ロブサン・サンボー――
本書に主人公の出生から中国潜入までの経緯を紹介している。その第二章<密偵志願>の冒頭に『西川一三(かずみ)は、1918年山口県地福の農家の次男に生まれた。中学は福岡県の名門・修悠館を卒業した。卒業時は六尺(約180センチ)を超える身長で、立派な体格であった。1936年に南満州鉄道に入社して、満鉄本社の満州・大連に向かった。1941年に満鉄を退社して、興亜義塾なる蒙古事情の調査機関(機密情報収集等の諜報活動)に入って潜行活動をスタートした』と履歴を書いている。日本人である主人公は潜行に当たって、現地に同化する意味でラマ教の修行僧“ロブサン・サンボー”に変身と言うか、化身している。その時点から8年間を中国西域の多くの都市を独りで壮絶な旅を開始するのである。この詳細は本書では、12章(約450ぺージ)に亘って詳細に綴られているので割愛です。想像を絶する生死をかけた潜行の旅を是非読んで頂きたいと思います。ご参考までに、本書の表表紙と裏表紙の裏のページに中国の西域(当時の満州、内蒙古、外蒙古、ソ連邦、チベット、ネパール、ブータン、英領インド等々を明記した)地図と、その西域を主人公が巡った足跡を赤色で示した道順地図が掲載されている。その地図から主人公の潜行を辿る参考にして頂きたい。先に著者は、「史上最長にして、新たな旅文学」と言っている。それは原稿完成まで25年間の歳月と500ページを超える長編紀行文を書き上げた。紀行文であるからノンフィクションであるが、小説を読んでいる様な情景イメージが鮮明に浮んで来る。これは主人公と著者の想いが一体化された小説風のノンフィクション「天路の旅人」となったのか。

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