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「きぼう」日本実験棟開発を振り返って (42)
―ISSの船長はどちらから出すか?米ロの駆け引き―

PMマイスター 長谷川 義幸 [プロフィール] :5月号

○ ロシアは有人宇宙計画ではプライドがある。(1)
 1969年、NASAは月面到着を成功させソ連を打ち負かしたが、その後は進むべき方を見失い勢いをなくしていました。他方ソ連の宇宙計画は努力を倍加させていて、1971年から1982年にかけて、7基の有人宇宙ステーションを宇宙で実現させました。表向き将来の火星へ向けた準備だと説明していましたが、ブルガリア、シリア、ベトナムなどの宇宙飛行士が搭乗して自国に帰ったあと、ソ連の好印象をおおいに触れてまわったので、実際はソ連の宣伝活動としての側面が強かったのです。ソ連は多くの成功と失敗を繰り返しながら、宇宙長期滞在のコツをつかみ始めていました。そして、1984年にはなんと236日間滞在しました。さらに、1986年には宇宙ステーション「ミール」のベースモジュールや居住モジュールや実験モジュールを次々打ち上げて宇宙長期滞在の経験を積み重ね始めました。
 しかし、ソ連は1991年に崩壊しました。これを契機に、アメリカ政府は1993年にロシアをISSに参加させることを決定し、そのISSの運用準備のために「シャトル―ミール計画」をロシアに提案しました。「ミール」にアメリカ人宇宙飛行士を滞在させ長期滞在の有人宇宙技術の獲得や、ソユーズにアメリカ人を登場させロシアの有人宇宙技術を取り込み、成功裏にISS建設に利用することが目的でしたが、ロシア財政難でミサイル技術が流出し核拡散の恐れがあったので食い止める目的もありました。そして、7人のアメリカ人宇宙飛行士を1995年から98年にかけてミールに搭乗させるのと引き換えに、新しい宇宙実験棟製作の4億ドルの支払いをロシアに提供することになり、瀕死の状態にあったロシアの宇宙計画は命脈を保つことができました。しかし、この計画を始めてみると、米ロ間ですさまじいまでの政策的、技術的な葛藤がずっと継続することになりました。有名なのは、ミールでの火災発生、ロシア無人輸送船のミールへの衝突による空気漏れなどミール放棄の一歩手前の危機を経験しました。火災が発生したときも、衝突事故が起きた時も、事故の原因、経過の詳細はロシアからNASAにほとんど知らされることはなく、現在でも不明な点が残されたままの箇所があります。ソ連時代、重要な生産手段を国有にして政府の管理下に集中させる全体主義に基づいて、ロシア人宇宙開発関係者は、幹部の命令で動くチームワークと自己犠牲を重視して行動するようになっています。“ロシアでは、だれかに何かを話す権利を与えられていないなら、絶対にそれを口にだしてはいけない、承認の許可がいる。”ということになっておりロシアになってからもその仕組みを引きずっているので技術者も教官も、技術上の秘密を守ることにかけては用心深いのです。

○ ロシアと付き合い始める (2) (3)
 ロシアはISS参加後、ISSの建設は1989年以来紆余曲折が多々ありますがなんとか行われました。しかし、2003年のシャトル「コロンビア号の事故」をトリガにアメリカ政府はシャトルを2010年に退役させることを決定したので、ISSと地球との往還機はロシアのソユーズを使うしかなくなりました。想定外の出来事でした。そのため日本人を含んだ全てのISS宇宙飛行士の訓練はヒューストンではなくモスクワで行うこととなりロシア滞在の時間が長くなりました。JAXAもモスクワ技術調整事務所を開設せざる負えない状況となり所長を配置するとともにロシア宇宙関連部署との調整にロシア宇宙開発を行っていたベテラン技術者と通訳を雇うことになりました。遠い世界だったロシアの有人宇宙開発の現場が我々にも急速に身近になったのです。さらに、「きぼう」を利用した宇宙実験でロシアと協力をすることになり実験の打ち合わせために職員は頻繁にモスクワを訪問するようになりました。ロシアとの付き合いは初めてではれものにさわるようにお互い間合いを図っている感じでした。最初の駐在員所長の経験では、会議ではトップレベルで話をしないとなにも先に進みませんでした。当初は、担当レベルの打ち合わせであれば電話ですむと思っていましたが、ロシアでは先方の幹部にレターを送付するように求められるのが普通でした。そのレターに幹部が目を通してOKがでないと打ち合わせがセットされないのです。返事をもらうのに時間がかかりせっかちな日本人にとってはもどかしく感じることが度々ありました。会議で発言するのは代表する責任者のみの場合がほとんどでした。互いの信頼関係ができてくると、個人的な付き合いが機能するようになりました。ロシアとの協力協定や宇宙飛行士関連での調整を行う中で、アメリカ人とは違うロシア人の考え方が少しずつ分かってきました。1995年当時、筆者は「きぼう」プロジェクトに配属されてavionics マネジャーでしたが、JAXAではロシア宇宙開発との付き合いが少ししかありませんでした。JAXAでは、毎日始業時に厚さ数センチの世界の宇宙開発の動向に関わるニュースクリップが配布されていました。ロシア人の特性を知っておく必要がありロシア関連の記事に注目して目を通していましたが、その中に以下の米ロ間でのISS船長の座席争いの記事がありましたので紹介します。

○ 公平の考え方は米ロで違うみたい
 アメリカ人は公平かどうかにこだわります。公平とは、「だれものが競争できる機会を同じように与えられる。」ことで、機会が同じであれば、競った結果がどうであれfairとして扱います。例えば、成功して大金持ちになっても、失敗して貧乏になっていても公平な競争になります。しかし、ロシアでは、「結果がほぼ同じになるように与えられる。」ことのようです。
  1. (1) 1993年にロシアがISSに参加することになったとき、当然アメリカのパートナーとしてロシアからも船長をだすことが当たり前と思っていました。ロシアには世界の宇宙開発をリードしてきたという自負があり、特に長期間の有人宇宙滞在技術においてはアメリカよりはるかに先をいっており、極端な財政難からアメリカの言いなりにならなければならないことに、嫌悪感をむき出しにする者もいる状況でした。
  2. (2) NASAは、船長ポストをずっと握ってISSを仕切るつもりだったですが、ロシアが「同じ配分」を得ることにこだわったので、当惑したようです。米ロ間の何か月にもおよんだ舞台裏での駆け引きがあり、ロシア国家会議が加わって、“ロシア人が宇宙空間で外国人の監督下におかれることがあってはならない。”との決議案を可決する一幕もありました。しかし、2000年10月、ISSの長期滞在が始まることになり第一次滞在クルーに選ばれていた経験豊富なロシア人宇宙飛行士アナトリー・ソロビョフは、アメリカ人のウイリアム・シェパードが船長に任命されたとたん参加を取りやめるという事態がありました。
  3. そのミッションを記念したパッチ:出典JAXA(3) ソロビヨフはロシア空軍のパイロットでしたが、宇宙飛行士になってソユーズもミールも何回も搭乗し船長も務め、船外活動も沢山しており、シェパードより経験ははるかに凌いでいたので、アメリカの船長の下で仕事をすることを断ったのです。幸い経験豊富な2人のロシア人宇宙飛行士(セルゲイ・クリカレフ(エネルギア技術者)とユーリー・ギドゼンコ(ロシア空軍大佐)が搭乗することになり、亀裂は回避されました。(右図はそのミッションを記念したパッチ:出典JAXA)その後のISS船長は、アメリカ人とロシア人が交代で務めています。
    NASAの枠に日本人、カナダ人、欧州人が船長を務めることができるようになりました。若田さんや星出さんが船長を務めたのはこの枠をお陰です。ちなみにソロビヨフは1999年に定年に達し宇宙飛行士を離れています。

○ 参考文献
(1) ブライアン・バロー著、「ドラゴンフライ」、筑摩書房、2000年
(2) 澤岡 昭著、「日本企業はNASAの危機管理に学べ!」、ニッポン放送プロジェクト、扶桑社、2008年
(3) クリス・ジョーンズ著、「絶対帰還」、光文社、2008年

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