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「きぼう」日本実験棟開発を振り返って (39)
―ISSの新体制でも半年はうまくいかず―

宇宙航空研究開発機構客員/PMマイスター 長谷川 義幸 [プロフィール] :2月号

○ 新しい宇宙ステーションプログラムのNASAのマネジメント体制 (1) (2)
 1990年代前半は、国際宇宙ステーション計画を取り巻く世界の状況は不安定な時期でした。例えば、1991年1月に湾岸戦争、同年12月にソ連崩壊などがあり、ソ連崩壊に伴い生活の場を失ったロシア宇宙技術者による宇宙技術の散逸や核ミサイルの第3国への輸出問題など宇宙ステーションプログラムにも大きな影響を及ぼしました。1993年2月からコスト超過対策がクリントン政権の米国財政再建の一環として米国議会で宇宙ステーション計画の中止を含めた大規模な見直し議論が起こりました。参加国の意見も聞くことになり、日本も宇宙開発事業団(現JAXA)の副理事長が、米国議会に招致されて計画続行を訴えるというはらはらした大きな出来事がありました。そして、下院で辛うじて1票差で計画続行が決まって、関係者はほっとしました。宇宙ステーションの見直しによりロシア宇宙棟の追加、さらに軌道傾斜角(赤道面からのずれ)はこれまで28.5度でしたが、ロシアのバイコヌール基地から打ち上げるため51.6度に変更されました。この角度では地球の自転が利用できないので地上からの打ち上げ能力の制限がでて組み立て計画に大きな影響を及ぼすことになりました。1993年夏には、NASAはジョンソン宇宙センターをリードセンターとしてプログラムオフィースを置き計画全体を取りまとめる役割を与える一方、レストンの担当者はプログラムマネジメントの失敗の責任を取らせる形で解雇しました。また、図1の4つのワークパッケージ(薄青色で表示)は各州の政治的な影響を受けて、業務分担が複雑になっていたため、提案書を出す側も、審査する側も難事で手に負えなくなっていました。そのため、NASAは契約体制を抜本的に変更し、ボーイング社を主契約企業としワークパッケージをやめました。
 ヒューストンに新たな体制によるオフィースが作られて会議のラッシュが始まりました。また、1996年にボーイング社とロッキード・マーティン社が均等に所有する共同子会社を設立し、シャトルの日常運用業務を請け負う契約とISSの運用計画、訓練、実運用などの契約をしてスタートすることになりました。この会社は、USA社 (United Space Alliance) という名前でした。
 ボーイングの民間航空機開発実績を応用して設計段階からISSのユーザーを参加させることに
図 1. 宇宙基地プログラムのマネジメント体制(初期段階) したので、ユーザーを代表する立場で、USA社職員がNASAとの様々な設計会議の共同議長として開発計画の役割を担うことになりました。Co-engineeringです。しかし、NASAでは、細かな作業を含めて予算を扱えるのは政府職員しか関与できません。個別予算の承認とコスト管理はNASA職員がやらなければなりませんが、増加するコスト管理が追いつかず、半年間も設計作業の進みが悪くなりました。このため、NASA職員が設計と作業指示を決定しUSA職員はその指示に従って実施を行う役割分担する体制に変更してようやく業務が進むようになりました。

○ 新しいシステム仕様と設計審査のやり方 (2) (3)
システム工学の「機能分解(Function Decomposition)」という手法 NASAは、新しい体制とやり方が始まったのでISSのシステム仕様を決めなければならないのですが、レストンで作られた宇宙ステーション要求文書は沢山の要求が膨らんで大変なことになっていました。それまでは仕様書の内容が要求なのか、前提条件なのか曖昧で、どうやって検証するのか?よくわからないものが入っていたのです。そこでボーイング社のシステム屋はシステム工学の「機能分解(Function Decomposition)」という手法でシステム要求をスリムにする作業を始めました。(図2)この手法の基本的な考え方は、下位レベルで何をするための機能なのかを明確に文書にして、上位レベルのシステム機能との関係をシーケンス化するもので、記述に“and”とか“or”を使わないでメーカーが間違いなく図面に展開できるように記述するものです。「きぼう」のシステム仕様もこの方法を教えてもらい改善していきました。
また、設計審査のやり方も変わってきました。アポロ計画の設計のやり方は、開発のフェーズ毎に設計作業を終了させて設計審査を受けて、次のフェーズの設計作業を開始するものでありました。ISSの黎明期に設計開発のとりまとめ担当であったNASAマーシャル宇宙飛行センターでは、アポロに比べISSのシステムがあまりに大きすぎて、設計作業および審査が終わらず細かな作業指示も半年から1年も出されないため、どうにも作業が進まない事態がありました。このため、ISSのリードセンターになったジョンソン宇宙センターでは、オンゴーイング設計審査と称して、設計作業を進めながら,並行して設計審査も行う方法が採用されることになりました。設計審査が始まると、まずパワーポイントの資料が100枚程度壁に張り出され、随時それにコメントや指摘を記入して、担当が回答していくもので、1~2か月過ぎると立派な審査資料になっていました。審査期間を短縮していくこの方法は、緊急避難的に行っていくものですがヒューストンへの移行作業が落ち着くまで続きました。落ち着くと正常なやり方に戻っていきました。このようにISSは前例のない複雑なシステムだったので、厳密なシステムの最適化を行うことは難しく、とにかくISSが全体として問題なく機能させるため試行錯誤しながらマネジメントプロセスを適時変更しながらやっていくしかなかったのです。

○ 参考文献
(1) 長谷川秀夫、「激動時代とヒューストン駐在事務所」、「きぼう」日本実験棟組み立て完了記念文集より、2010年、JAXA社内資料
(2) 加藤武彦、「Space Station Freedom Liaison Office (フェーズC/D)」、「きぼう」日本実験棟組み立て完了記念文集より、2010年、JAXA社内資料
(3) 松原彰士、「1994-1998のヒューストン駐在員事務所事情」、「きぼう」日本実験棟組み立て完了記念文集より、2010年、JAXA社内資料

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