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「きぼう」日本実験棟開発を振り返って (32)
―最先端の有人宇宙開発アメリカをみる―

宇宙航空研究開発機構客員/PMマイスター 長谷川 義幸 [プロフィール] :7月号

○ 宇宙ステーションプログラム時代のNASAのマネジメント体制 (1) (2)
図1.宇宙基地プログラムのマネジメント体制(フェーズC/D)  NASAは宇宙ステーションのプログラムオフィースを本部直轄のレストンに移すとともに、プログラムオフィースを支援する企業を決めました。プログラムオフィースは、そのプログラムを構成する複数のプロジェクト(ワークパッケージ)をインテグレテーションするのですが、その活動をサポートする仕事です。この契約はSpace Station Engineering and Integration Contractで略してSSEIC と呼ばれていました。(図1)
 スペースシャトルプログラムでは、主契約者がこの業務も担当したのですが、開発をする会社がやると自分の都合が良いように物事を決める傾向があり、宇宙ステーションでは開発とは関係のない会社から選定しました。フェーズBでは各ワークパッケージでは、2社と概念設計の契約をしていました。例えば、ワークパッケージ1はボーイングとマーチンマリエッタ、ワークパッケージ2はダクラスとロックウエルでした。レストンに移動したフェーズC/Dでは各ワークパッケージで2社が提案をだし1社に絞りました。SSEIC の契約はグラマンがとり1987年8月からスタートしましたが、SSEICの初代技術代表は修羅場を潜り抜けてきたアポロ13号のフレッドヘイズ宇宙飛行士でした。

○ レストンで見たNASAの会議
 私は、1989年7月に出向先から戻り宇宙ステーション本部勤務の辞令をもらいました。訓練と運用管制(Command and Control)担当になり、着任からしばらくしてレストンに出張するように、との指示で初めてのレストンに出掛けることになりました。会議室の重い扉をあけるとそこは子供の頃からみたいと思っていたNASAの世界がありまた。ワーキンググループやパネルが400以上ありフェーズC/Dにも拘わらず概念検討みたいな技術検討をやっていました。検討会は70から80人で大部分はNASAと企業のメンバー、日本、欧州、カナダは少人数での参加でした。議論は聞いたことのない用語や単語が機関銃のように撃ち合っている感じで、何が議論の中心なのか全く理解できませんでした。アメリカの内部検討会みたいだと思いましたが、それでもチェアマンが時折、「日本はこれにどう対処するのだ?」と質問を振るので知識も少ない状態で参加しているのですからまともに返答できるわけはなく、「日本に持ち帰って検討する」みたいな返答でその場をごまかしていました。時差ぼけでしたが神経はぴりぴりしていました。国際宇宙ステーション計画の機会に日本も欧米並みの宇宙先進国になるのだ、国際パートナーとして一人前の地位を獲得するのだ、との思いをもっていました。しかし知見の差は歴然としておりプライドだけは胸にもって国際会議に参加していました。英語の理解力もまずいのですが、それより有人宇宙の知識がないので内容を理解できないことにだんだん気づきました。「こいつは大変なことになった。これから一体どうなるのだろうかと?」と不安と希望の入り混じった気持ちでした。始めは異空間でしたが検討会をいくつかこなしているうち冷静になれるから不思議です。各検討会の検討内容がダブっていることに気が付きました。検討会のマネジャーは自分が自分がという感じでしたので他の検討会とのコミュニケーションが薄いようでした。しかし、直接検討会に参加したことによりNASAのマネジャーと支援企業がメンバーになって、NASAのチェアマンシップでの会議運営、情報共有や透明性の確保など大規模なプログラムの管理・運営ぶりを観察できたのは幸いでした。(3) 見るもの聞くものすべてが珍しく、観察魔となってNASAの仕組みや企業との関係などを、自分の引き出しに取り込んでいきました。ちなみにレストン時代の宇宙ステーションは、1988年の公募により「宇宙ステーションフリーダム(自由)」と命名されました。ソ連の宇宙ステーション「ミール(平和)」を意識してのことでした。

○ 新規のプログラム開発にはベテランの力が必要
レストンでの作業が進みサブシステムの要求を記述する機能要求書と物理的な定義と要求を示す文書の作成が始まると、電力系、データマネジメントなどの機能別の開発に対して欧州や日本のような宇宙実験棟というシステムを提供する側の開発に対する考え方の違いが出てきました。NASA内は系統別サブシステムで定義できるのですが、NASAの一部にはならない日欧のモジュールのサブシステムの系統は独自のもので相いれない状況がでてきました。クリントン政権になって連邦政府の財政赤字急増に対策を迫られ、その影響は宇宙ステーションにも及び、大幅見直しが行われました。その結果民主党のISSになりプログラムオフィースが本部直轄からヒューストンに戻ってきました。そして、ボーイング社を単一主契約者としてプログラム全体の統合管理をさせることになりました。さらに有人宇宙開発のベテラン達がプログラムの内容を詳細にチェックしたところ、軌道上での組み立ては打ち上げ毎にインテグレーションしなければ成立しないことに気づきました。複雑な構造物を宇宙で組み立てるには高いレベルでの経験が不可欠だったようです。そのためプログラムオフィースは直ちに体制を変更しました。打ち上げる荷物毎にインテグレーションするLaunch Package managerを置く体制になりました。しかし、打ち上げ毎にインテグレーションするという考え方で設計されていないので見直し作業は大変なものになりました。ちなみに「きぼう」はシャトル2便でISSに組み立てるのですが1人アサインされました。PMPを持っている方でした。(1)
図2.レストン時代の宇宙ステーションを揶揄した新聞漫画  レストンの検討を象徴的に表わしている新聞漫画(図2)が手元に残っていました。「宇宙飛行士が組み立て結合や配管・配線などを何時間にもわたって工事する船外活動が非常に長く、建設が完了しても維持保守で精一杯で宇宙実験に回す時間がない。」 まさにこの種の議論をいろいろな角度からぎりぎりやっていました。そもそも宇宙飛行士がとび職のように船外活動で建設することを前提条件に置くことが現実的でなかったのです。頭で描いたものをとにかく全精力で検討してみる、というのがレストンの状態だったようです。やはり実現可能なシナリオを作り上げるには、有人宇宙開発のノウハウを熟知しているベテランが参加した体制が必要でした。

○ 参考文献
(1) 加藤武彦、「Space Station Freedom Liaison Office (フェーズC/D)」、「きぼう」日本実験棟組み立て完了記念文集より、2010年、JAXA社内資料
(2) 長谷川、PMAJオンラインジャーナル『「きぼう」開発を振り返って(31)』
(3) 長谷川義幸著、「きぼうのつくりかた」、地人書館、2018年

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