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「きぼう」日本実験棟開発を振り返って (31)
―初期のISSプログラムマネジメントはうまくいかなかった―

宇宙航空研究開発機構客員/PMマイスター 長谷川 義幸 [プロフィール] :6月号

○ 当初のISSプログラムマネジメント体制
 ISSは当初から技術よりマネジメントの挑戦だといわれていました。1985年から始まったISSの技術調整は、ヒューストンのジョンソン宇宙センターで行われていましたが、1986年ごろからNASAはプログラムオフィースを首都ワシントン郊外のレストン地区に移しました。当時のNASAプログラムマネジメントの内部事情について、JAXAヒューストンとレストン技術調整事務所長を歴任した加藤武彦氏が、当時を述懐していますので、以下に紹介します。

 「NASAは意思決定階層を3段階とし、図1のように、レベルIがNASA本部の宇宙ステーション局、レベルIIのプログラムオフィースは身分は本部の一部ですが、ジョンソン宇宙センターに置きました。レベルIIIは、開発で4つに分け、ワークパッケージ1はマーシャル宇宙飛行センター(V2ロケットを開発したロケットの父、フォンブラウンが初代所長として10年間いたところ)、ワークパッケージ2はジョンソン宇宙センター(有人宇宙開発の拠点)、ワークパッケージ3はゴダード宇宙飛行センター(ワシントンDC郊外)、ワークパッケージ4はルイス研究センターとしました。ジョンソン宇宙センターとマーシャル宇宙飛行センターは、仲が悪く、会議で何かを決めてもあの手この手を使って
図1.宇宙基地プログラムのマネジメント体制(初期段階)決定がひっくり返ることがしばしばありました。さらに悪いことには、NASA長官、宇宙ステーション局長、プログラムマネジャーが頻繁に変わるという状況で、うまく進みませんでした。意思決定の仕組みがまずいのと、腹を据えて意思決定する責任者がいなかったことが原因でした。」(1)

○ ワシントンDCに開発のベテランは行かなかった
 米国議会はチャレンジャー事故調査委員会の勧告をうけ、NASA本部はもっと権限をもつべきだと考え、プログラムオフィースをワシントンDCにもってくるべきとNASAに指示しました。そのため、フェーズC/Dから本部のそばのレストンに移動することになりました。しかし、NASAの開発部門で実際にプロジェクトを推進してきたベテランからは生活費も家の値段も高い、配偶者の仕事が失われるなどの理由でワシントンは敬遠されました。ジョンソン宇宙センターの宇宙ステーションプログラムからレストンに移った人は5人ほどでした。非常に少数でしたのでジェット推進研究所に頼んだのですが、ワシントンが嫌われベテランたちはほとんど移動しませんでした。
 1993年9月中旬のSpace News(宇宙開発を専門に扱う権威ある米国の専門誌)に、「ジョンソン宇宙センターからレストンへプログラムオフィースを移した時に、経験者がほとんどレストンに来なかったためプログラムは1年半か2年無駄にした。新しい人達で宇宙ステーションを開発しても2から3年の遅れが出てくるだろう。」という記事が掲載されました。
 結局、ワシントンに異動したのは、宇宙ステーションに関係のない部門でプロジェクトマネジメントの経験の浅い方々でした。

○ クリントン政権がプログラムマネジメント大幅改革
 その後、技術問題が山積し、予算も大幅超過になりクリントン政権は参加国を巻き込んだ大規模なプログラムの大幅見直しを断行しました。1993年にNASAゴールデン長官は、実施体制の責任明確化とスリム化のために、プログラムオフィースをジョンソン宇宙センターに戻すとともに、4つの宇宙センター個別契約をしたワークパッケージを廃止してボーイング社への一元化を行いました。さらに、新しいマネジメントの仕組みを導入するため、航空機開発を成功させているボーイング社のマネジメントを取り入れることにしました。例えば、航空機開発では、設計段階から顧客のパイロットやエンジニアを参加させた結果、開発期間とコストの大幅な短縮ができるようになりました。異なる分野のエンジニアが縦割りの壁を越えるため設計のやり直しが少なくなったのです。そのやり方(2)を応用して、宇宙飛行士や運用管制官などエンドユーザーを開発工程に早くから参加させ、運用の観点からの要求を設計に反映させるとともに、直接検証する仕組みを導入しました。また、ISSプログラム全体をNASAと共同で進めるため、ISS副プログラムマネジャーにボーイングの民間航空機の開発責任者に指名しました。

図2.NASAレストン入構バッジ  1989年から私はISS計画に参加することになりました。最初の3年間はレストンを中心に出張していました(図2)が、レストンのマネジメントの仕方が素人的であることに気が付きました。ヒューストンでその印象をNASAのメンバーに話すと、「レストンに行った連中は現場の訓練やオペレーションをやっていた人間が多く、マネジメントを勉強していないからだよ。」と教えてくれました。

 加藤氏は、レストンに集まった職員の技術レベルが高くなかったことを示す出来事を以下に書いています。「プログラムの大幅見直しが大詰めに近づいたころ、レストンの職員は仕事がなくなることが目に見えてきたにも拘わらず、他の場所へ移ることができない状態になっていました。特にマネジャークラスの人はNASAのどこの宇宙センターも引き取ってくれない状態でした。」(1)

 NASAは政策的に方向が決まると、その目標に向かって組織と人と仕組みを素早く改善していきました。プログラムオフィースをジョンソン宇宙センターに戻した後、スペースシャトルプログラムから経験豊富なプロジェクト経験者(3)とエンジニアを大量にISSプログラムに投入するとともに、仕事の仕組みを改革し開発体制立て直しを行ってISSを成功に導きました。NASAといえど経験のない壮大なプログラムでは豊かな経験のあるマネジャーを投入しないとうまくいかなったのです。

<参考文献>
(1) 加藤武彦、「Space Station Freedom Liaison Office (フェーズC/D)」、「きぼう」日本実験棟組み立て完了記念文集より、2010年、JAXA社内資料
(2) 松原彰士、「1994-1998のヒューストン駐在員事務所事情」、「きぼう」日本実験棟組み立て完了記念文集より、2010年、JAXA社内資料
(3) 長谷川、PMAJオンラインジャーナル『「きぼう」開発を振り返って(21)』

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