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「エンタテイメント論」(155)

川勝 良昭 Yoshiaki Kawakatsu [プロフィール] :2月号

エンタテイメント論


第 2 部 エンタテイメント論の本質

7 本質
●「Fantasy」と「Reality」 の共存に挑戦した人物
 アカデミー賞受賞のリチャード・エドランドは、「Fantasy(空想、奇想、狂想、夢想など感性機能発揮)」と「Reality(現実、実物、実態など理性機能発揮)」の共存(同時・同質実現)が映画の成否を決めると主張した。これは筆者が30数年前に構築した「夢工学」の「パトス論」と「ロゴス論」とも符合する。また「デック思考」の根底に流れる本質とも共通する。

 しかし「Fantasy」と「Reality」の共存と云う表現や理論などを主張せず、昔から黙々と、その共存を完璧なまでに追求し、実践して来た人物が日本にいた。本稿で以前何度か紹介した事がある人物である。そして世界中の多くの映画人が今も尊敬し、特にリチャード・エドランドも尊敬する「黒澤 明・映画監督」、その人である。

 彼は、時代劇の映画で人を切った瞬間、本物の肉体を本当に切って出た「本物の音」をその場面に活用した。それは映画史上初の試みであった。

出典;黒澤 明・映画監督
search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-1149 dbdd 出典;黒澤 明・映画監督
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●映画「椿三十郎」
 本稿の若い読者、特に女性の読者は、黒澤監督も、椿三十郎も、座頭市も、知らないかもしれない。そのためわざわざ映画「椿三十郎」、下記に映画「座頭市」と書いた。

 この映画で椿三十郎と仮の偽名を名乗り、身分を明かさない聡明な浪人役を「三船敏郎」は、見事に演じた。この映画では、上記の「本物の音」が活用されただけでなく、深刻な殺陣場面が多い物語の中に、風采の上がらぬ間抜け面の殿様、賢い奥方、間抜けな部下などがユーモラスに描かれ、人間味のある映画に仕上げられている。暗い映画が多い黒澤作品の中で「明るく痛快な映画」である。なお上記の本物の肉体の「主」とは、「豚」である。

 黒澤監督は、この映画の最終のクライマックス・シーンに、浪人の三船敏郎と侍の仲代達矢が命を懸けて決闘する場面を選んだ。「血しぶき」が空中に吹き出る壮絶なシーンは、世界中の映画フアンを驚かせた。

出典:椿三十郎・ポスター
bing.com/images/search?view=detailV2&ccid=IRPRST&ajaxhist=0 出典:椿三十郎・決闘場面
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出典:椿三十郎・ポスター
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出典:椿三十郎・決闘場面
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 黒澤監督は、この場面の撮影の為に、両俳優に居合抜きの決闘の動きと演技を何度も、何度も練習させた。殺陣のプロが納得し、黒澤監督も「これなら良いだろう(★注:現実性の確証)」と判断するまで練習させたと聞く。この様な「Reality」への徹底的追求があったからこそ、生死を掛けた「地獄のFantasy(楽しい事と真逆)」が我々に迫って来るのである。

●椿三十郎 その2
 ハリーポッターの「大阪MCAユニバーサル・スタジオ・ツアー」が開園する約10年前、筆者は、新日鐵勤務時代、日本初の「ユニバーサル・スタジオ・ツアー・プロジェクト」の総責任者としてその開発に取り組んでいた。

 筆者が取り組んでいた本プロジェクトは、そもそも黒澤 明監督がMCA社の社長から要請されて日本に、そして新日鉄に持ち込まれたものである。この事が「縁」となり、筆者は黒澤監督とそのグループと大変親しくなった。

 筆者は、この「縁」を基に、黒澤監督に会う度に「監督、“椿三十郎 2”を作って下さい」といつも懇願した。しかし黒澤監督は、なかなか首を縦に振らない。仕方がないため「黒パン」のニックネームを持つ息子の「黒沢久雄」にも頼んだ。

 筆者が黒澤監督に会う度に懇願する事に、黒澤監督の身の周りの世話もしていたバリバリの助監督で「野上」と名乗る女性からその都度、「川勝さん、監督に懇願するのを止めて頂けませんか」と強く苦情を言われた。彼女の度重なる苦情に、遂に頭に来て、「うるさい!」と一喝、怒鳴り付けた。彼女を黙らせて、その後も懇願し続けた。

 遂に、ある会食の場で、黒澤監督は「川勝さん、分かりました。作れない理由をお話します」と神妙な表情で答えた。「実は椿三十郎を演ずる役者がいないのです。三船敏郎さんは年をとり過ぎました。時代劇は今の時代にマッチするか?良い脚本も無いのです」としみじみと「寂しそう」な表情で本音を語った。その一瞬を今も鮮明に覚えている。

 しかし筆者はズバリ反論した。「監督らしくないです。良い脚本を探し、良い役者を探し、時代にマッチした良い映画を考え抜いて作るべきです」と主張した。その瞬間、周囲の「野上助監督」を含む、黒澤一族は凍り付いた。筆者が次に何を言い出すか、ハラハラした表情と態度を見せた。 

 黒澤監督は、「川勝さん、仰る通りです」と「寂しさ」から一転して「明るい表情」で答えた。周囲の黒澤一族は、「その笑顔」で胸を撫で下ろしたと後日聞いた。

出典:若き日の黒澤 明監督(1910年~1998年 88歳没)
wikipedia/commons/4/48/Akira kurosawaonthesetof7samurai-1953-page88.jpg 出典:若き日の黒澤 明監督
(1910年~1998年 88歳没)
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 筆者は優れた黒澤作品の「椿三十郎 その2」を作って欲しい一心で懇願し続け、他に一切の「他意」を持っていなかった。この事を黒澤監督は理解した様であった。その為か、それ以降、天下の「黒澤天皇」が支配する「場」で、黒澤監督に何を言っても、何を提案しても、いつも「笑顔」で対応し、丁寧に答えた相手は、筆者だけだったと後日聞いた。
 
 しかし「椿三十郎 その2」は制作されぬまま、黒澤監督はこの世を去った。彼の葬儀に招かれた筆者は、棺の前で「ご冥福をお祈り申し上げます。残念です。天国で“椿三十郎”を作って下さい」と呟いた事を今も覚えている。

 本稿の読者諸兄よ、一人でも多く、映画「椿三十朗」を観て欲しい。その映画を観れば、筆者が何故、黒澤監督に何度も何度も懇願したか分かるはず。黒澤監督の映画で「羅生門」「七人の侍」などが高く評価されている。しかし「Reality」と「Fantasy」の共存の観点から最もバランスの取れた最も優れた映画は「椿三十郎」であると断定する。

●初期の映画「座頭市」
 黒澤監督が「本物の音」を映画に活用した事を直ぐに真似する一方、徹底した「Reality」を追求する姿勢を映画に取り入れ、大ヒットさせた映画があった。それは「勝 新太郎」が主演する「座頭市」である。

初期の映画「座頭市」

 俳優・勝 新太郎の生涯の「当たり役」となった「座頭市」とは、「盲目の按摩」の事である。悪と戦う「根」は優しい人物として描かれている。

 初期の映画「座頭市」では、盲目の按摩が杖の中に仕込んだ剣を使い、攻撃して来る相手を本当に切り倒せるのか? と云う観客が抱く大いなる疑問が存在した。その為、その不自然さを解消すべく、様々な工夫を映画の中に詰め込み、「その戦い方なら盲目でも敵を倒せる」と観客に思わせた。この徹底した「Reality」の追求によって観客は、納得し、悪人達が次々と倒される「勧善懲悪の爽快さと云うFantasy」を味わう事が出来た。その続編もヒットした理由は此処に在った。

●後期の映画「座頭市」
 しかし後期の映画「座頭市」では、「盲目の按摩」が人を切り殺せるのか?と云う常に付きまとう「不自然さ」に観客が慣れた事を良い事に、「不自然さ」への対応を怠った。一方「面白さ」、「痛快さ」などの「Fantasy」ばかりを追求した。

 現実性、納得性の「Reality」の追求の努力を怠り、その実現を軽視する様になると、勝 新太郎が幾ら迫真の殺陣を演じても、観客に与える「迫力」が一挙に薄れた。「Reality」と「Fantasy」の共存がない座頭市の映画は、自然に、音もなく、「二流映画」、「B級映画」と見做される様になり、椿三十郎と座頭市の夫々の映画の「質」の「差」は益々広がった。「勝新のフアン」であった筆者は、残念な思いをした。

 以上の事で連想される事がある。それは日本のTV番組の事である。日本のTV番組は、相当以前からその「質」を落し、その悪さは目を覆うばかり。最近、TV番組でヒットしている作品は幾つかある。しかしどのTV番組も、一瞬の面白さ、楽しさばかりを追求する「Fantasy」一辺倒。その現実性、納得性を叶える「Realiy」が無視され、極端に事実からデフォルメされた番組ばかりを観客に押し付ける。しかもヒットさせる手段にヒット歌手やヒット役者を起用している。

 この低俗振りは、度を越し、もはや最低レベルになった様である。日本のTV番組は、Non Fiction番組ですら、「Realiy」が不足している。英語も話せず、教養のカケラもないくだらないお笑いタレントを海外取材に活用し、表層的な番組制作に終始している。Non FictionとFictionを含め、日本のTV番組は、恐らく世界最低レベルになった様だ。これ等のTV番組を「後期の座頭市の映画」と比べてみても、勝 新太郎の「座頭市」の映画と演技が輝いて見える。

 日本のNHKを含む民放のTV番組のクソ脚本家、クソ・プロデューサー、クソ・ディレクター達に告げる。黒澤監督の「椿三十郎」を「バイブル」として仰いで学ぶことである。そして後期の映画「座頭市」から視聴を始め、前期のそれに進む。これ等を何度も、何度も視聴する事でTV番組の制作の「在り方」と演出の「やり方」を根本から学び直す事を薦める。

 もし彼らが「TV番組の制作費が少ないのでRalitytの追求やFantasyの発揮ができない」と主張したら、その人物は、即刻「首」にしてTV番組制作の場から追放することである。

 筆者は、本稿で映画制作やTV制作の「エンターテインメント論」だけを論じている訳ではない。生き馬の目を抜く厳しいビジネスの世界に於ける「経営改革(ビジネス・イノベーションを含む)」を背後で意識しながら本論を展開している。この事を読者に強く注記したい。

 もしPM従事者、SE従事者などが「当該プロジェクトや当該システムの開発予算(人、物、金など)が少ないのでReality(PMやSEの機能追求、納期貫徹、コスト削減)やFantasy(プロジェクトやシステム成功による顧客満足)を発揮ができない」と主張したら、その人物は即刻「首」にする事である。それが出来ないなら当該プロジェクトやシステムの開発の場から外すことである。

Dream+Idea(power)+Action(power)

●筆者に「成功の方程式」
 予算が制約された下で、如何に当該プロジェクト、当該システム、そして経営の改革を成功させるのか? その答えは、上記の絵に潜んでいる。

 それは「夢(志、目的、好きな事、やりたい事などの広義)」を持って、「優れた発想(アイデア思考)」を生み出し、「優れた発汗(行動)」を行うことである。「Dream+Idea+Action」が筆者の主張する成功の方程式である。

 黒澤明監督も、勝新太郎も、誰も彼も、楽しい、痛快な、素晴らしい映画を創りたいと云う「夢」を持ち続け、「優れた発想」を必死で生み出し、工夫を積み重ねる「優れた発汗」したからこそ「成功」したのである。人の数より、金の多寡より、物の多寡よりも、上記の3つの事である。

 本号では映画制作の「成功の方程式」である「Reality」と「Fantasy」の共存(同時・同質実現)を論じた。次号では更に突っ込んだ「成功の方程式」を紹介する。
つづく

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