PMプロの知恵コーナー
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ゼネラルなプロ (121) (事例PFI 事業)

向後 忠明 [プロフィール] :11月号

 前月号では、スポンサー(株主)の一部(オーストラリアの大手電気通信会社(T社)とローカルの企業(W社))がファイナンシャルプランナー(Chase)の
シナリオ 1: No Equity No Loan、No Budget For Construction
(実質的工事ストップ、回線販売ストップ)
シナリオ 2: No Equity No Loan
(実質的工事ストップ)
といった最悪のシナリオを主張したことを説明しました。
 これが原因で、建設部門としては資金不足となり、業者も動かなくなる心配が出てきました。
 これを心配して、これまでマネジメントしていた特別目的会社(SPC)のマネジメント能力を危惧したスポンサーメンバー(SPCの株主)が直接スマランに乗り込み、代わりにこの会社を直接マネジメントするという話になりました。
 これにより、SPCの全役員がその役務をSuspendされることになりました。
その理由はこのままではSPCの経営がうまく機能しなくなるということを心配してのことのようでした。
 しかし、そうは言ってもこのSPCの経営に直接スマランに来て、これまでのようなマネジメントができるわけはありません。
 当面2~3か月の間のマネジメントということであったが、現在抱えているSPCの業務上の問題点を考えるとその是正に対しては多くの難題があります。この重要な時期にこのようなことをすることはかえって危険な橋を渡ることになるとPDのKさんは考えていました。

 事実、新しく来たマネジメントが着任してからすぐに業者から
SPC側が持っている資金から少額でも良いから支払ってほしい
もし総額でも払ってくれれば工事は最後まで止めずにやる
そして、今から2か月間はDeferment(支払い猶予)も受け入れる
 といった意見が出され、そしてこれまでの建設部門のマネジメントのコントロールの下でやっていきたいとの話がありました。
 それでも新しいマネジメントは強引に建設関係にも介入してきたが、スポンサーによるマネジメントは自分たちで決めたNo Guarantee ベースのDefermentではいつになっても解除することができず、かなりの抵抗にあいました。

 その結果、工事が止まってしまう危険が予想されました。もともとこのマネジメントの変更は言い出しっぺのローカルスポンサー企業のW社自身が金繰りに窮したことと、もう一方のオーストラリア企業のT社の要求から出てきたことでした。

 PDのKさんは、この緊急の事態にプロジェクトマネジメントの素人が工事関係のマネジメントをスムーズに行うことはできるはずはないと思っていました。

 一方の日本側のスポンサーであるN社はどうしていたかというと、T社及びW社とは考え方も異なり、あくまでも「工事面はPDのKさんにと!」指示を出し、そして、ファイナンス面は本社から人材を一定期間送りこむことで、この難局を乗り越えようと考えていました。

 Kさんがこのプロジェクトの立て直しのためにPDとして赴任してから約2年近くなりますが、今は建設にかかわる問題より会社の経営といったことが問題となってきていました。
 その原因はすでに株式を多く持つオーストラリアのT社とローカルのW社がかなり強烈な意見をもって上記のような決断をしたこと、そして自社の責任をもって組織改編をやるとのことから始まったものです。
 この時点では、私の出身のN社とインドネシアのP社(大手国際電気通信会社)はできるならやってみたらといった傍観者のような態度をとっていました。

 この組織の見直しはコンサルタント(Price Water Cooper)により行われていましたが、彼らの考え方や行動を見ても、全く無理なものとなっていました。
その理由は
中期展望に立った組織と言っているが、設備増強部隊(建設部隊)の人材が、設備の運用オペレーションに移動している。
回線販売が重要な時期になっているにも関わらずその気配が全くない。
急ごしらえのマネジメントなので人材配置に適材適所になっていない。
このプロジェクトの構成は設備運用に関するオペレーションはSPCと顧客(公営電気通信会社)との共同事業でありコストカットはこの両者についても行わなければ意味がないのでそれも難しい。
最後には言い出しっぺのW社(人事、マーケット担当)とT社(ファイナンスとオペレーション担当)の陣取り合戦のにおいがして、純粋に今後の事業を考えたものとは考えにくい。

 特に①が契約時のN社の所掌である建設部門に影響が出ることであり、かつ現在建設目標に向かって順調に進んでいることにブレーキがかかることになり、N社としてはW社とT社の動きを注意深く見ていくことに徹することにしました。

 この頃になると何もSPCのマネジメントをスポンサー会社のマネジメントに変えなくても良かったのではとほとんどの人が思うようになりました。

 しかし、ここにきて、これまで資金調達なしの前提でのNo Equity No Loanで新マネジメントが活動していたT社とW社は、業者との交渉もうまくいかないことを悟り、これまで工事ストップの要請をやめて、急に業者への支払いについて検討をし始めました。
 このことは強く新マネジメントにてSPCを立て直すといったW社とT社の完全な失敗であり、ここにきて新たに資金を注入するといった要請が再度検討され始めました。
 それはすでに提案されていた
シナリオ 3: Equity注入
シナリオ 4: Equity注入及びLoan
の2案でした。

 このようなことから、W社及びT社は手持ちの株を早く売りたいがための彼らの勝手な思考から来たものでこの事業を成功させることより自分たちの利益しか頭にない連中であることがわかりました。
 このように、このコンセッションビジネスはこの2社によりかき回され、工事の進捗もこの結果、また遅れることになりました。

 PDのKさんは新マネジメントが来ても建設部門に関する所掌はN社にあったので建設目標の達成は自社の責任と思い、その目標を完遂させるべく、新マネジメントのごたごたに関係なくマイペースで仕事を進めていました。
 この頃の建設工事の進捗は無線システムを除けば90%近くになっていて、交換局までの完全な接続状況(売れる回線)を見ると90%といった数値であり、途中の中断した回線を除けば実質100%に近いものになっています。
 よって、後1か月もすれば事業計画上の目標数値は達成すると確信をもっていました。
 経営権が株主に移管されてからは、T社はFinancial Planの前提条件作り、W社は組織再編成の案等の作業にかかりきりで、彼らの役割と豪語していた業者との交渉は全くと言ってよいほど動いていませんでした。
 このように株主マネジメント(特にW社とT社)の稚拙なマネジメントによりさらにこの事業の先行きが困難な状態となり、Vision なくして目標あらず、単に仕事をこなすだけ”となり、これはT社及びW社によるマネジメント欠落の何ものでない状況になっていました。
 しかし、このようにファイナンス計画や組織改編をやるよりもこの新マネジメントのやるべき仕事は工事業者や銀行との交渉であり、Defaultになることを防ぐことのはずでした。

 このT社及びW社によるSPCのマネジメントの交代はあったものの建設部門はN社の確固たる所掌であり、PDのKさんは “何はともあれ建設目標を達成することをMust”と考えて行動していました。
 そのため、業者もN社を信用してくれて工事の続行をしてくれました。
 途中、W社とT社マネジメントによる邪魔も入りましたが業者の協力もあり、100%未満ではあったが、彼らの抵抗に抗して、何とか満足のいく進捗となりました。
 この時点でKさんはPDの役割を降りて完全に建設部門から手を引くことにしました。

 その後もしばらくの間、新しいマネジメントの様子を見ていましたが、この頃になるとKさん担当の建設部門の仕事はほとんど残務整理であり、一番の問題は業者に対する支払い遅延の解決でした。
 この件はすでにNo Equity No Loanを強調していたT社及びW社のマネジメントが責任として引き継ぐことになっていました。
 ところが、業者が建設の目標をある程度達成したことを知り、遅延分の支払いに対して強い要求が入り、どうしようもなくなり、この2社はファイナンスについてはChaseと検討中でしたが、急に支払うことになり、その結果、会社の財務はさらに厳しくなり、資金ショートが目の前に来ていました。
 ここでW社は「建設部門が建設し続けたことだとかランプサムにしたこと」が原因であるなど、これをPDの責任であるというようなことを言い出しました。
 このW社の発言は資金的な面でかなり苦しい立場であったため、建設部門の所掌に責任をもつN社にその追加資金の肩代わりを求める布石でもあっようです。
 その理由はすでに話をしたように本事業受注での弱みもあり、N社はこの事業へ持ち株比率はあまり大きなものになっていなかった。そのため、W社が株式の肩代わりを求めてきたようです。

 このように、W社は自分の所掌をうまく処理できないことを問題にしないで建設部門が多くの金を使ったことにいつまでも批判を繰り返していました。
 しかし、N社は「あの時、建設を続行したことがかくかくしかじかの理由で長期的に見て共通の目的にかなうものになり、そしてインドネシア経済の持ち直しで、これからのW社の所掌である回線販売の努力により貴社にもそしてSPCにもメリットがでる」旨を説明し、なだめたりしていました。

 Kさんも日揮時代にインドネシア国パレンバン(スマトラ島)にて製油所建設のプロジェクトにおいて、同じくインドネシアの経済状況に異変が生じ、影響を受けた経験を持っていました。
 プロジェクト開始当初はインドネシア経済も順調であったが、契約交渉が進むにつれてインドネシア政局が何となくおかしくなり、それに従い経済も不調となり、プロジェクトも縮小になりました。しかし、数年後インドネシア経済も持ち直し、出来た製油所からの石油製品も足りないくらいになりました。
 このようなことを思い出して、Kさんは建設された今回の設備はインドネシア経済の持ち直しにより、むしろ足りないくらいになると思っていました。
(その後、3年程してこの事業の話を担当者から聞いたところ、回線がすべて売れ、中断していたケーブル回線の工事も終わり追加工事も今やっているところであるという話を聞いて、安心しました。)

来月はこの事業の顛末と最終結果はどうなったかの話をします。

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