PMプロの知恵コーナー
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ゼネラルなプロ (119) (事例PFI 事業)

向後 忠明 [プロフィール] :9月号

 暴動がきっかけでスハルト体制が崩壊し、同時にインドネシア通貨(Rp)の下落もさらにひどくなり、本事業の将来にも暗い影が投げかけられた。
 この事業の性格上、収入はRpであり、支出の大半は$ベースであり、銀行への借入返済、工事業者やベンダーそして配当への支払い等がその対象です。
 このように、この事業は為替の変動が最大のリスクでした。
 海外における事業は為替ヘッジをするのが常識であるが、今回はIMFによる銀行救済を名目にした為替ヘッジの無効といった予測外の勧告がありました。この結果、すべて為替に対する防御もチャラになってしまいました。
 このように、この事業はタイから始まった金融危機とそれに伴うインドネシアの暴動や経済危機に会い、四苦八苦の中で事業運営のかじ取りを余儀なくされることになりました。

 日本での休暇も終わり帰国すると待っていたように早速スポンサー(投資家)と我々の事業会社側の役員との会議(コミッショナー会議)が開催され、今後の事業の在り方について話し合いがなされました。
 この会議の中で、財務役員が急に建設資金の減額やそれに伴う事業の縮小をスポンサーに提言しました。この時、PDのKさんは帰国後の最初の話であり、建設部門として「そのような話は聞いていない。撤回してほしい。建設本部のコンセンサスもなく役員会も開かずにこのような話は建設担当役員として聞いていない」と反論しました。

 しかし、会社を取り巻く環境や建設予算の減額も決まってしまったことを考えるとKさんとしても何らかの対策の必要を感じ、それなりの手を打たなければならなくなりました。

 いろいろと建設部門の主だったものと話し合いをした結果、打つ手として考えたのが下記の4点でした。

まずは売れる回線への集中工事
工事業者との支払い条件交渉
銀行との交渉
設計部門及び不要不急の部門の外国人の帰国

 ①の売れる回線の工事についてはすでに前月号にて説明した通りであるが、さらにその速度を上げることが必要となりました。これはスポンサー(投資家)にとっては収益の基になるものであり、コミッショナー会議(事業会社とスポンサーとの合同会議)においても強く要求されたものでした。
 そのため、基本的に交換局の近くまで敷設された回線を選んでそれとつながる加入者回線の工事を優先的に進めることにしました。
 一方、対象とならないものは工事の途中でも中断し、将来いつでも工事を継続できるように養生し、始まって間もない回線の工事は後回しにするといった工事のメリハリをつけた方法を取りました。

 ②は特に工事量が多い回線ケーブルの工事業者との交渉であるが、この時点ではドル決済にかかわる資機材の購入はすでに済んでいたのでほとんどがRp決済に関する工事にかかわるものが対象となりました。
 しかし、工事業者との契約は弗ベースでの支払いであったため、$とRpの変動により、現地工事業者はかなり為替差益を得ていました。
 一方、事業会社としても為替が落ち着くまでということで支払いを遅らせるといった後払いの形をとっていました。
 しかし、数か月の支払い延期は工事にも影響が出ることや業者よりの強い抵抗もあり、何とかその打開策を講じてきました。そして、交渉の結果、我々の方からWind Fall Gain (風吹けば桶屋が儲かる)といった提案を行い、支払い遅延の金利や支払いコストを工事業者の予期せぬ為替変動による儲けとの相殺ということで交渉を行いました。
 業者としてはRpベースで考えれば損にはならないので、彼らも理解してくれました。そして、その後の支払いはRpベースとし、工事代金の支出も抑えることができるようになりました。
 その結果、7~8か月間、現在の$の手持ち資金にて、追加予算手当なしで工事が進められるようになりました。

 ③は約30行に及ぶ銀行に対しての交渉であり、現状のインドネシアの状況を鑑みると、当然良い印象を各銀行はもっていませんでした。特にヨーロッパやアメリカの銀行はすぐにでも撤退したいような雰囲気であった。
 もしこれがうまくいかなければ如何に①及び②の対策を打ったところで意味をなさなくなります。
 この交渉はシンガポールで行われたが、何はともあれインドネシア政府の推進した各コンソーシアムのPFI 事業が金融危機やプロジェクトマネジメントのまずさなどから惨憺たるものがあり、当然この事業に参加した銀行としては本気で撤退する気でいました。
 しかし、我々の中部ジャワのコンソーシアムはこの時点での目標に対する進捗率は下記に示すような現状であり、自信をもって銀行団と話し合いができました。

コンソーシアム群 交換機(%) ALU(%)
スマトラ 111.7 41
西ジャワ 111.3 34.3
中部ジャワ 109.9 107
カリマンタン 41.8 28.3
東部諸島 59.6 3.4
ALU(電話を使用できる回線数)

 交換機の設置とは建屋及び交換機とその付帯設備の設置そしてALU とは 上記の通りであるが、この両者の数値がそれぞれの事業者の実際の収益にかかわる設備であり、これらが満足な数値になっていれば問題無いということになります。
 話し合いの結果は$ベース収入源やセールス量の減少はやむを得ないものの、中部ジャワのケースは他のコンソーシアムグループに比較し圧倒的に健全なものであり、銀行側も一度上げた拳をこの結果を見て安心し、この会議を無事切り抜けることができました。
 しかし、銀行団との交渉を無事終えることができましたが、銀行側としても、確実に貸した金を返してもらえるかどうかの懸念もあることから元利返済を優先的に支払ってもらえるような第三者信託勘定(ESCROW Account )の設置を要求してきました。

 ④については主に建設部門内の設計にかかわる日本人技術者への帰国要請です。設計業務をほとんど終えたことで外貨の節約の意味も含めお願いすることになりました。
 その後も、急を要しない建設部門のオーストラリア人も順次帰国してもらいました。

 以上が当面重要な事項で集中的に手を打った課題の解決策でした。

 本当にこのプロジェクトは次から次へと問題が発生することの多いものであり、これまで多くの問題をよく処理できたものだと、PDのKさんは「運がよかったから!」とこれ以上の問題発生はないことを祈るばかりでした。
 このように問題の解決を行ったことにより、この事業を取り巻くステークホルダーの態度、銀行団や顧客のインドネシア電話公社の態度も高圧的なものから迎合的になりました。

 因みに、このような問題はプロジェクトを遂行する上ではいつも起こりえる問題です。PDのKさんは問題が発生したら夜も寝ないで頭に浮かぶ考えを思いつくままノートに書き連ね、その結果を自分なりに分析し、対策案を作っていたようです。

 先人達は、良く枕元にノートと鉛筆を置いて寝ることが重要と言っています。
 そうすることによって、いろいろと考えたものを忘れることなく、思いついたことが、後での気づきや発想のもとになるとい言います。
 いろいろと良いアイデアを思いついた時は、その具体的提案を相手側が納得のいくように論理的に分析して説明することが必要となります。
 まさに、これがよく言われる課題解決法やロジカル思考であり、実践にてPDのKさんは最初から最後までこの手法を使って、困ったときの問題解決の方法として利用していたとのことでした。
 このような発想法や考え方は、いろいろな人の助言や知識そして経験の積み重ねをうまく利用し、感性といった個人が持つ特性を最大限活用することによってなせるものと考えます。

 例えば「風吹けば桶屋が儲かる」などがその事例で、「オーストラリア人にこの日本語の意味を説明したらWind Fall Gainという意味」になるということでした。
 すなわち、工事業者から見れば彼らの受け取る金額はRpベースでみると弗の価値が上昇した分受け取り金額は所定よりかなり多くなるので、「弗価値上昇といった風が吹き、工事業者はそれだけ儲かる」ということになります。
 この発想は日本人的であり、外国の人でも理解可能なものであることを知りました。
 このように毎回降りかかり問題を解決しながら事業の継続を行ってきました。
 一方、インドネシア政府の方は、大統領の不在が長引きインドネシアの政局にも大きく影響してきていました。しかし、その後、政府内でのごたごたもあったがハビビという人が大統領になりました。これにより、政治状況は少しずつ良くなっていくだろうと関係者の話が伝えられてきました。
 しかし、一時落ち着いていたRpも大統領が決まっても11,000~12,000Rp/$となり、さらに14,000~15,000台となり、為替ヘッジ(3,000Rp/$)もIMFから撤廃され、我々の事業会社にとって頭の痛い日が相変わらず続きました。

 この頃、デノミネーションのうわさもあり、その上、中国人華僑に対する暴動(略奪、レイプ、殺害)なども収まらず、それが原因でインドネシア人華僑の国外脱出が始まりました。この華僑の脱出も為替レートに大きな影響を及ぼし、新聞報道では直近の3日間の間に220億ドルが海外にもちだされたとの報道もありました。この結果さらに為替の行方にも暗い影を落とすことになりました。
 これを心配した日本を含む各国は世銀やアジア開発銀行、そして日本の輸出入銀行を通じて、援助や融資を行いました。
 しかし、それでもドルの海外逃避が続き、さらに為替にも大きな影響が生じることになりました。

 このような状況の中、いろいろと会社としても手を打ってきたが、ドル資金のひっ迫のためさらに外国人の帰国(これまで建設部門の日本人が主であったがそれ以外の部門のオーストラリア人も対象)などを断行し、組織のスリム化を図ることになりました。

 このような状況の中、会社とスポンサーとの責任のなすりあいが始まりましたが、建設部門としてはステークホルダーから指をさされたくないため、このようなゴタゴタを外目で見ながら、目標の電話回線数を達成させるため、全員で休みもなく働いていました。

 一方、インドネシア自体の状況は、インドネシアの独立記念日に合わせて首都ジャカルタだけではなく、我々の本部のあるスマランにも影響が出てきました。この結果、これまで苦労して行ってきた工事もまた中断するのではないかと危惧していました。
 特に、ここスマランにはスハルト大統領及びそのファミリーが隠密裏にきていて、スハルト大統領の娘婿(ブラボウ)派と現軍司令官のウイラント派がスマランで衝突するという噂もささやかれていました。
 この時、我々日本人は中国人と顔も同じだったので買い物や通勤では車に日本の旗を立てて行動していました。衝突は、結果的に10,000人以上の政府軍がスマランに投入され両派の衝突は回避されました。

 このような時期にまたまたプロジェクト続行に影響を与える資金繰りの問題が大きくクローズアップされ、建設資金にも足かせがかかるようになってきました。

今月はここまで

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