PMプロの知恵コーナー
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ゼネラルなプロ (118) (事例PFI 事業)

向後 忠明 [プロフィール] :8月号

 前月号では新たな問題として、「売れる回線」がどのくらいあるか?そしてその供給実数は?等を営業から指摘されました。
 本件は全くこれまで気が付かなかったことで、重要な点での問題を指摘されました。

 この要請は、Kさんにとっては全く予想外のことで、さらにこの問題解決のため新たな動きをする必要が出てきました。
 何故ならこれまではそれぞれのシステム(ケーブル回線、交換機を含む交換局、交換局を結ぶ光伝送回線、無線局そして制御関係等々)をそれぞれ単独でその進捗具合を見ていて、それぞれのシステムのつながりを考えていませんでした。
 その理由はシステム担当が担当システムの進捗状況だけを優先的にチェックしていて、システム同士のつながりをトータルで見ていなかったことに原因がありました。
 これは全体を包括的に見ていなければならないPDとしてのKさんのミスでした。
 そこで各システムの責任者を呼んで、各人の進捗具合をまずは各システムのどこのエリアのどの部分が交換局とつながりやすいか、そして各家庭への電話への回線引き込み状況は?等々を確認したところ、幸いにも、かなりの部分を短期間で回線を開通できるところがあることがわかりました。しかし、それでも各交換局を結ぶ光伝送回線の工事に遅れがあり、部分開通しかできないエリアもありました。
 また、電話利用者に対しては具体的にいつまでこのエリアは開通するとかを説明し、何とか営業の求める回線開通には部分的ではあるが目途が立ち、大きな問題もなく済みました。

 何はともあれ、このケーブル敷設は道路に沿って交通を遮断したり、住民の門前を掘り返したり、場合によっては既設の電気ケーブルや水道管のとの調整もあったりとそれらの古い図面もないため苦難の連続でした。なぜなら、日本と違ってすべての回線ケーブルは地中に敷設するので、大変な作業となっていました。
 しかし、営業からの要請が無かったら、各システムの進捗ばかりに目が行っていて、大きな問題となったと思います。

 このことは日本のマイナンバーカードシステムが、今回のコロナ騒ぎ給付金配布において送金システムとのインターフェース接続もなく、途中での手作業となり、人手による確認作業となったことを連想させます。
 まさにシステムは一通で末端までつながっていないとせっかく大きな予算を費やして作成したシステムでも使われないことになります。もっともこのケースは官庁の縦割り業務が壁となって生まれたものと思われます。
 全体を調整する内閣府当たりにCIOを置き見ていくことが今後は必要と思われます。
 PMAJも今度内閣府に出かけプロジェクトマネジメント研修でもされたら良いと思います。

 今回の「売れる回線」騒動は全くマイナンバーカードと同じ事例になります。

 このようなインターフェスマネジメントは全体を統括するプロジェクト統括者の役割です。
 この事前の策としてはプロジェクト初期におけるスケジュール作成で、各システムのつながりを考慮したネットワークスケジュールにしておくことによって防止されるでしょう。

 このことは問題発生時のトラブルシューティングにおいてスケジュール見直し作業を行う際に十分注意しておかなかった問題であり、PDのKさんはここで大いに反省する必要があります。

 さて、このようなことで当面の問題は解決され、工事も順調に、そして回線も徐々に利用者につながり、順調な状況が続き、PDのKさんはほっと一息ついていました。
 そして目標の回線工事も就任後1年すこし立った頃にはトラブルシューターとして各種の手を打ち、目標の回線工事数を達成することができる目安もつくようになってきました。このままでいけば順調に工事も進み、回線販売もうまくいくと安心していました。
 しかし、この間には、建設部門のスタッフには過酷な要求をしたため、中には病に倒れるものもいました。
 環境の異なる地で、しかもマルチカルチャーの中で考え方や仕事のやり方も異なるメンバーとこの1年の間、一糸乱れず目標達成に向けて、邁進してきました。この結果、他のエリアのPFI 事業者のコンソーシアムと比較してもその進捗度は一番進んでいるとの情報がインドネシア通信公社より報告がありました。

 この時期すなわち1月になると、インドネシアはイスラム宗教の最大人口を抱える民族であり、ラマダン(断食月)の時期になってきました。また、月末になると中国の旧正月とレバラン(ラマダン明け大祭)が重なり、工事の進捗に影響を与えるインドネシア特有の宗教や各種行事が重なります。
 しかし、工事の目標値は就任当初より、リスクとして考慮していたので、それほど影響を受けることはありませんでした。
 プロジェクト計画においてはその国のプロジェクトに影響を与えるようなリスクは盛り込んでおくことが重要です。
 就任前の計画特にスケジュールではプロジェクトに影響を及ぼす、それぞれの国の習慣や文化等からくる行事への影響は考慮されていなかったと思う。そのことがプロジェクトに大きな影響を与えることになっていた。今回はインドネシアの事情を考慮した計画となっていたので大きな影響を受けることはありませんでした。

 このようにプロジェクトは大きな問題もなく順調に実施されていたが、それからしばらくたってから急激にインドネシアRpが下落しはじめ、工事そのものにはあまり関係なかったが、事業としての採算に影響が出始めていることが役員会などで話題になり始めました。
 このRpの変動がそれからあまりにも急激だったため、IMFがインドネシア政府にその対応を迫ってきました。しかし、それにもかかわらず、特に大統領のIMF勧告を無視した国家予算案の発表がRpの下落に拍車をかけ、一時は1$=20,000Rpになるとの予測もされました。
 その後、IMF及び各国からの指導及びインドネシア政府の各種政策により 1$=10,500 Rp.まで戻しました。
 その後8500Rpまで戻し、元のレートにもどるのではないかといった、期待感が持てるようになってきました。
 この事業はすでに説明したように事業採算性を重視したものであり、内部収益率(IRR)を重視したもので、入札当初では、その計算のベースは確か1$=2,000Rp~3,000 Rpで計算されていて、為替のヘッジも1$=3,000 Rp で考えていました。
 何故、このように為替の変動を気にするかはグローバル的事業をするものにとっては常識ですが、今回のRp下落は余りにも極端であり、その対応が危急のこととなってきました。
 特に今回の事業の収入は電気通信ということもありその収入対価はRpであり、投資対象通貨は$であることから、この為替変動はSPC(特別目的会社)としては大きな問題となりました。
 この難局を乗り切るためには我々の会社だけでの話ではなくほかの同じような形態でPFI 事業を行っているPFI 事業者5社を含めて、政府およびインドネシア通信公社との交渉が必要となってきました。しかし、為替の問題はインドネシア政府の問題でありどうしようもありませんでした。

 一方、このことは当面建設部隊の仕事には直接関係ないものであったので、工事は予定通りどんどん進めていき、その進捗状況も落ちることなく進んでいきました。

 ところが4月ごろになると今度は政情の不安定といった問題が発生し、ジャカルタ市民が騒ぎ出したとの情報が入り、何となく嫌な雰囲気が我々のいる中部ジャワにも伝わってきました。
 このような状態が続くと我々の会社も何となく雰囲気も悪くなり、役員会議においても工事にかかわる予算の減額や工事業者に対して、為替の変動による金融的な危機も発生し始めていました。そして、事業規模の変更やそれに伴う工事業者との交渉も必要になってきました。
 工事業者との交渉については、工事の代表として工事業者全体を見ていたオーストラリア人のPMとファイナンス部門にまかせることにし、PDのKさんは戦略企画担当と、為替変動にかかわる問題の解決に回りました。
 すなわち、他のPFI 事業者と共にインドネシア電話公社と契約や建設目標の変更などの交渉を行うことにしました。

 全く持って、本事業は本当に一難去ってまた一難ですが、今回の問題はPDのKさんにとっては初めてのことであり、これまでとは異なって一つのプロジェクトとしてのトラブル対応ではなく、会社存続の企業経営者としての対応となってきました。

 そして、ジャカルタにおいて各国のPFI 事業に投資している投資家5社と 我々の会社がインドネシア政府および通信公社と「今後の事業の在り方」について会議を行うことになりました。
 そのため、会社の代表として事業部長のKさんはジャカルタに行くことになりました。そして、この日はそのまま、PDのKさんは日本に本社への報告もあることから、会議が終わったら帰国することになっていました。

 ところが、会議は朝から延々と各事業者からの事業運営に関する条件の見直し等が出て、激しい議論となり昼飯もなく夕刻近くまでなりました。
 その頃になり、会議場所の公社ビルの外が大分騒がしくなり会議場から見るとトラックに乗った学生らしき若者たちが鈴なりになり、旗をひらめかし、何やらわめきながら何台も通り過ぎていきました。そしてN社のジャカルタ事務所の方向を見るといくつもの黒い煙が上がっていました。

 この頃はスハルト大統領の再選も決まり、IMFとの確執に雪解けも始まり、懸案事項も解決され始め為替も7,500~7,900Rp/US$(これでもわが社の事業には危機的数字であった)で安定していました。しかし、国民生活が苦しくなり、学生運動が活発になってきて、上記に示すような活動になったようです。
 このような時期での会議であり、「いよいよ何かが始まったな!」との感もあり、会議を早めに切り上げ、荷物のあるジャカルタ事務所に車を走らせました。
 ところが、すでに、暴徒があちらこちらで騒ぎだし、そのため、道路が封鎖され、事務所への道がほとんど封鎖されている状況でした。幸いにも10分程度の道のりだったが2時間もかけて事務所につくことができました。
 事務所についてからも、一苦労で、事務所から空港まで行くのに事務所近くの高速の入り口がほとんど封鎖されていたが、やっとのことで入り口を見つけ空港に着くことができました。
 この時、空港へ通じる高速道路の端には多くのトラックが止まっていました。
 運転手に聞いたところ、これらのトラックは地方から暴徒を運んできたトラックであり、暴徒はそれぞれジャカルタの中心地に向かって、今は空の状態であると説明してくれました。
 また、日本についてから新聞やテレビの報道でジャカルタを中心としたインドネシアの各都市で暴動が発生し、1000人以上の人命が奪われたことを知りました。
 特にPDのKさんが帰国時に通った入り口のすぐ近く、ここは特に中国人の多いところで、Kさんが通った後、暴徒がやって来て、デパートへの放火、略奪、そして殺人があったそうで、全く危機一髪であったことも後で知りました。
 この暴動がきっかけでスハルト体制が崩壊することになるのですが、同時にインドネシア通貨(Rp)の下落もさらにひどくなり、本事業の将来に暗い影を投げかけることになりました。

 今月はここまで。

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