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「きぼう」日本実験棟開発を振り返って (19)
―ISS参加時、日本は新参者―

宇宙航空研究開発機構客員/PMマイスター 長谷川 義幸 [プロフィール] :6月号

・「新顔」日本
 様々な装置が大規模化した現在科学技術研究でも、国際協力の重要性は増し続けています。ISSの場合、有人宇宙開発で実績のあるアメリカとロシアを中心とした計画に日本は「新顔」として参加したので、技術的な困難さ、それに伴う予算超過、米国の財政難など様々な理由が絡んで何度も延期や縮小の憂き目にあいました。「きぼう」で起きる問題はアメリカと共同で対処しなければならなかったのです。(1) 明治時代の日本と同じで、日清、日露戦争に勝って、欧米列強とようやく対等と認められて不平等条約の改正ができたのが、明治40年代でした。技術力、経済力をもっていないと対等とはみなされなかったのです。日本は、1985年から参加しましたが、黎明期の国家間のせめぎ合いの中で、アメリカからどのように見られていたのか、ロシア参加前と参加後に分けて当時の米国政府関係者の印象(『』の部分)を過去のメモと参考文献からピックアップしてみました。(2)
 ちなみに、ISS計画にロシアが参加したのは、冷戦終結後直後の1991年に、米国がロシアに「シャトル・ミール計画」を発展させる計画を提案したことがきっかけでした。これが実現した背景は、①ロシアを国際社会に取り込み民主的な資本主義国家に移行させるため(政治面)、②旧ソ連の核兵器、ミサイル、その科学技術者を海外への流出を防ぐため(安全保障面)、③ロシア経済や産業が崩壊しないように防ぐため(経済面)、及び④ロシアの宇宙技術と輸送手段を利用して米国のISS予算削減と不足している技術を補完できるため(技術面とコスト)でした。(3)

〇1980年代(米国の招請からISS協定の締結まで)
 『ISSは、科学技術的意義と政治外交的意義の両面をもっていた。1970年代、日本が米国からのスペースシャトルへ参加要請に対して技術的にも未熟であり意思決定が遅かったため参加できなかったのに比べ、ISS参加は、中曽根首相とレーガン大統領の良好な関係があり、日本の参加決定は、首相の迅速なトップダウンで決定した。日本は、構想検討段階では発言が少なかったが、二国間協議では違っていた。』

〇1990年代(ロシア参加からISS協定の改正まで)
1990年代初等に米国の新聞に掲載された時事風刺漫画  右図は、1990年代初等に米国の新聞に掲載された時事風刺漫画です。ウサギはアメリカ(NASA)で余裕の状態、ロシア、欧州、その他の国々は携帯用無線電話器(walkie-talkie)がありますが、日本にはありません。国際的計画で技術も経験もない日本を揶揄したものです。しかし、開発調整が進むにつれて、米国の態度が変化していきました。

 『ロシア参加後、欧州、日本、カナダが加わって宇宙ステーション計画の大幅変更が検討されたが、参加各国が国益をいかに守るかの交渉になり各国の宇宙計画が動揺していた。その中で日本は、ISSを断固継続するという意思をもって粘り強く交渉した。参加国は過去何回か考えや予定を変更してきていたが、日本は、「きぼう」計画を縮小することなく継続する不変さが、参加国に計画を継続するか否かではなく、計画の内容をいかによいものにするかに集中させた。日本のぶれない考え方と運用を踏まえた計画全体を繊細に取り組む姿勢が参加国からも高く評価されていった。』

 また、あるNASAの高官は以下のように述懐している。

 『米欧間、米ロ間はしばしば対立する関係にあったが、日本人は交渉ででしゃばらないことが多かった。日本人は大勢の前で元気よく手をあげて発言するのが苦手のようであった。しかし、技術に支えられて静かに粘り強く交渉したことによって強い信頼を獲得していった。当初心配していた実験棟開発の技術には問題なく、米欧日の実験棟の設計において直面した様々な問題をそれぞれ異なった方法で解決していた。日本の方法は米欧と異なっていたが優れたエンジニアリングの技術であった。』

〇最近の状況
 「きぼう」運用開始から12年を過ぎ、日本はISS計画で信頼できるパートナーとして米ロ欧の先進国からも認められるようになりました。ある米国の政府高官は、次のように述べている。

 『日本はISSへの参加によって、長期にわたる高度科学技術計画において大変信頼できる有能なパートナーであることを証明してきたと思う、しかしながら、将来の政治的利益にどうつながっていくのかは分からない。』

「きぼう」完成と無人貨物船「こうのとり」の打ち上げから10年になるのを記念した式典  昨年9月2日に、「きぼう」完成と無人貨物船「こうのとり」の打ち上げから10年になるのを記念した式典が筑波宇宙センターで開催されました。NASA、ロシア、欧州、カナダなどのISSパートナー宇宙機関約50名や宇宙関連企業関係者約100人が参加しました。ISSの開発と運用で苦労を共にした仲間と久し振りに再開し(右写真:左から2人目が筆者)、「きぼう」の開発時の交渉で大した調整事項ではないのにお互い細かなことまで固執したり、クリーンルームなのにゴキブリが見つかった事件などNASAの連中が昔を懐かしんで話を持ち出しました。まるで大学のOB会みたいな雰囲気で昔話ができる時がくるとは思いませんでしたので、なにか良い気分でした。
 筆者のISS国際調整を振り返ってみると、うまくいかない日々がたくさんありましたが、巨大な国際協同プロジェクトに参加して国益につなげてゆくためには、技術力も外国人との対人関係も操る高度な力量と度胸が必要だと痛感しました。今の筆者ではもうできません。

参考資料 :
(1) 「国際協力に難しさ 政権交代で計画変更も」、読売新聞15面、2008年3月12日
(2) 「ISSの人文・社会科学的評価に関する調査報告書」、日本宇宙フォーラム、平成20年
(3) 「宇宙にかける「きぼう」. 国際宇宙ステーション計画参加活動史」.JAXA特別資料. 2011年2月. repository.exst.jaxa.jp/dspace/.../a-is/.../64932000.pdf
(4) 筆者のISS時代のノート

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