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「きぼう」日本実験棟開発を振り返って (18)
―「きぼう」開発は手探りから始まった―

宇宙航空研究開発機構客員/PMマイスター 長谷川 義幸 [プロフィール] :5月号

 現在、日本人宇宙飛行士が定期的にソユーズでISSに行き半年間の宇宙滞在をしている様子が、TVや新聞で報道されて世間の注目を浴びるようになりましたが、その活動を支えている「きぼう」日本実験棟の開発は、苦闘の連続でした。ISS計画参加当初、日本のロケットも人工衛星技術も開発途上にあって技術者たちは少しでもアメリカをはじめとする先進国においつけ追い越せと焦りを抱いていました。日本の有人宇宙活動をリードしていた樋口清司氏(当時マネジャー、後に副理事長)は、ISS参加当初を振り返って述懐していました。
 「日本も欧米並みの先進国になるんだ。これを機会に有人宇宙技術をしっかり習得し、国際パートナーとして一人前の地位を得るんだとの思いがあった。欧米に対する劣等感は否めず、有人宇宙技術に対する知見の差は明らかであり、アメリカに対する気後れはあったが、プライドだけはしっかり胸に秘めて決死の覚悟で国際会議に出かけた。」 (1)

 実際、1985年から始まった構想検討段階で日本の技術者らは途方に暮れました。当時の様子を、姫野裕信氏(当時三菱重工の設計チームリーダー)は文集にこういう一文を書いています。 (2)
 「NASAは当時ジョンソン宇宙センターでサブシステム毎に技術調整会議を開き、全体システムとりまとめ担当企業のマクドナルド・ダグラス社が作成したICD(インタフェース管理文書)案をもとにモジュールの構成、機能、性能などの国際調整を行っていた。当時軌道上組み立てやモジュールの起動について日本は全く未知の領域であった。アポロの宇宙飛行士を議長とする組み立てシーケンス会議に出席し議論に加わることは、未知のベールを一枚一枚はがしていくような貴重な経験であった。しかし、スペースシャトルの飛行パターンを含む技術情報は極秘扱いであった。」

米国の新聞より  筆者が「きぼう」開発に参加したのは、1989年の基本設計段階からでした。NASAと参加国とのISS分担がほぼ決まり本格的な開発に入るころで、JAXAはロケット、衛星、運用、実験などいろいろな分野の技術者を沢山集めていましたので、筆者もその中に入ったようです。急遽集められた技術者たちは有人宇宙活動についてはほぼ白紙の状態で、新参者でした。我々は、商社や航空宇宙企業を通じて海外情報調査をしましたが、有人技術についての教科書や技術資料は入手できませんでした。現在では、「きぼう」開発や運用の技術者、ISS貨物輸送機「こうのとり」の技術者がいるので、ロボットアームの操作やランデブー・ドッキングの方法を含めてNASAやロシアとのインタフェース設計へのアドバイスも受けられますが、当時は全く白紙の状態で何から手をつけてよいのか分からない状態でした。そもそも無重量環境はどういうものか?隕石があたる外壁はどう対処すればいいのか?安全はどこまですれば大丈夫なのか?疑問だらけでした。はじめは異空間に入ったような思いがしてこいつは大変なことになった。一体どうなることか、不安と希望の入り混じった気持ちで壮大な事業に参加していました。
 NASAでの400以上の分野に分かれた技術調整会議は、ワシントンDC郊外で頻繁に開かれ日本も欧州、カナダも常に参加を要請されていました。(右図:米国の新聞より)

 しかし、全部参加するのは無理ですので、いくつか掛け持ちをしてあちこちに顔をだすことで対応していました。どの会議もアメリカ人が数十人いて熱気を帯びた議論しているのですが、スピードが速く、かつこれまで聞いたこともない単語が沢山でてきて何を議論しているのか、しばらく分かりませんでした。OHPで投影された資料をみると議論の目的、背景と問題点、解決したい課題などが理解できるようになっていましたが、それでも基礎知識がないため背景を正確には理解できませんでした。しかし、これまでニュースで見聞きしていたNASAの活動を実践で習得できるので、見るもの聞くものすべてが珍しく、自分の引き出しに取り込んでいきました。会議を何回か経験してNASAの組織がどうなっているのか役割と責任など立体的に構造がみえるようになってきて、これまで蓄積してきた自分の知識や経験が生かせることが次第に分かってきました。

 しかし、「きぼう」を設計をするのに必要な情報を入手できるようになったのは、ISSの大幅な再設計が行われた1995年からでした。NASAの開発拠点が有人宇宙開発メッカであるジョンソン宇宙センターに移り、「きぼう」とISS本体のインタフェース調整をNASAの専門家がぎりぎり詰めていくことになったのです。そのおかげで、NASAの技術資料やハンドブックを入手でき、どのように安全思想が形成され、具現化していったのか知ることができるようになりました。
意図しない時に動くとハザードになる場合と、常に動作しないとハザードになる場合  例えば、2故障許容の設計でも、ロボットアームの暴走のように意図しない時に動くとハザードになる場合と、空気の供給のように常に動作しないとハザードになる場合では右図 (3) のように安全設計のやり方が異なることです。井原西鶴の「日本永代蔵」には、「仕掛けいろいろ詮索すれどもついに成りがたく 律儀なる他国にもよきことは深く秘すと見えたり」とあり、南蛮から来た特徴的な形状の金平糖つくりに苦労した当時(17世紀)の職人が描かれていますが、その心境をよく理解できました。ちなみに、イボイボの突起をつくれるようになったのは、渡来から100年以上たってからだそうです。
 アメリカと日本は友好国であっても、国と国との関係にはさまざまな利害があります。国際協力が成立する条件としては、技術水準が拮抗しギブアンドテイクが成立することですが、参加当時は日本は技術の決め手をもたない状態でした、ISSの外交協定では、ISSに関する便宜供与はあるのですが、シャトルに関する事項はISSのインタフェースに係るものに限定されています。
 今や、日本は「きぼう」とISS無人貨物船「こうのとり」で開発も運用も実績を積んでいるので日米間の関係が変わってきました。例えば、米国政府高官は、「なによりも日本の実験棟と「こうのとり」は、ISSの大きな貢献である。さらに、日本はこのISSへの参加経験を土台として、月惑星探査に関する国際会議において積極的な役割を果たしている。」と言われるようになったのはISS参加当初のアメリカからの扱いを思うと、待遇がずいぶん変わったことを感じます。

参考資料 :
(1) 樋口清司、「国賊か屯田兵か・・計画立ち上げ時の苦労話」、「きぼう」日本実験棟組み立て完了記念文集、JAXA資料、2010年
(2) 姫野裕信、「四半世紀を振り返って思うこと」、「きぼう」日本実験棟組み立て完了記念文集、JAXA資料、2010年
(3) 深津敦ほか、「安全工学最前線―システム安全の考え方―」、pp105-148、共立出版、2011年

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