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「日本再生“アベノミクス”を成功させるために何が必要か」 (71)
高齢化社会の地域コミュニティを考えよう (47)

東京P2M研究会 渡辺 貢成: 2月号

Z. 先月は契約の話をしてくれた。欧米の契約は法律をバックにした点で厳しい内容となっている。それに比して日本は法治国家ではあるが、欧米に比して柔らかい面がある。この違いを考えてみた。

 我々日本人は欧米と簡単に言うが、欧州と米国は似て非なものだが、日本人は自国民以外の人々を一括して外国人と呼んだ。
 それは島国だからだ。自分以外は非なるものという発想である。常識が一致しないことをよく知っているからである。
 しかし、日本は奈良、平安時代から中国と付き合い、彼らから見ても準先進国であったと思う。阿部仲麻呂の唐皇帝に使えた能力はそれを表している。弘法大使は奈良から平安時代になる変わり目に現れ、中国に渡ってまだ体系化されていない密教を預かり、初めて体系化して真言宗を開いた。

 徳川時代の日本は鎖国政策をとりながら、長崎出島に欧州からの情報を集める機関を設置し、小さい窓から多くの情報を得ていた。そのため『微分・積分』という高級な数学を欧州と同時期に発表していた。そして幕末期の世界情報も詳しく入手し、中国でのアヘン戦争を知っており、幕末の幕府と薩長との争いも、外国からの侵入を警戒しながら内戦を避け、最後は妥協したことで、英国、フランスからの誘惑を阻止できた。更に開国した相手が米国であったことが幸いをもたらした。それは日本が戦争技術において欧州に後れを取っていたが、文化の面では、中国からの文化を吸収し、価値の高い水準にまで到達していたからである。ただ、日本人は鎖国から解放された明治時代に、文明において欧州に対する新しい劣等感を持ってしまった。中国を尊敬してきた日本が欧州の文明に圧倒されたからである。そして中国をバカにする風潮がうまれた。

 そこで日本は第一次世界大戦では英仏側に組して勝利者の側に立っていた。しかし日本は更に富国強兵政策を進めた結果、欧州にとって日本は手ごわい競争相手になってしまい、兵力制限を国際連盟から通達された。当時の日本は国際連盟の常任理事国(イギリス、イタリア、大日本帝国、フランス)であったが、それを脱退した。

 明治憲法下で、天皇の権限は特に規定がないものは国務大臣が行うことになっていたが、特に成文化されていなかった。明治憲法では天皇は陸軍、海軍を統師するとなっていたため、軍が天皇の許可をえると、国務大臣は反対できなかった。第二次大戦は陸軍が統師権を盾に軍の方針を議会に要求すると反対が成立できず、陸軍は独自の要求を突きつけることで、日本を戦争に導く方向を進めていった。

 その後、日本陸軍は天皇の統師権を利用し、満州国建設に踏み切り、最後は日中戦争にまで踏み込んでしまった。

 第2次世界大戦がはじまると、欧州ではドイツ軍が強く、早くにフランスが占領され、イギリスも風前の灯になった。米国民はモンロー宣言で欧州との相互不干渉条約を結んでいた関係から、参戦しない声明を出していた。しかし、米国ルーズベルト大統領は日本への石油輸出制限等の経済制裁で、日本を痛めつけ、日本軍に真珠湾攻撃をさせる機会をつくった。日本はその罠にかかり、真珠湾奇襲で劇的な成果をあげた。この劇的成果は、米国の欧州への派兵を反対していた国民を全員賛成派に変えたことで、米軍は第二次大戦に参戦し、米軍のノルマンディ上陸が成功してドイツが降伏した。

 日本は第二次大戦の敗北で、無条件降伏(本当はポツダム宣言を無条件で認めたもの)を受理し、多少の不安があったものの、戦勝国米軍に敬意を払ったため、厳しい報復を受けることなく、戦後の世界で業績を上げることができた。
 当時日本人は物まね上手と揶揄されていた。そして日本人もそれを信じていたが、自動車王国の米国を抜いて世界第一位の生産国へと上り詰めた。日本人は大昔に遡っても、最大の先進国、中国の文化を学び、取り入れてきただけでなく、中国人以上にその奥義を極めてきた実績がある。これが日本人の本質だと私は理解している。
 それを表しているのが“Cool Japan”である。“Cool Japan”は世界中に放映され、世界中が日本に大きな興味を示している。しかしなぜ、日本が評価されているのか、日本人は理解できないでいるのが現状である。

I. ご説ご尤もと言いたいのですが、なぜ、このようなテーマを持ち出したのかをお伺いしたい。
Z. 私は現在の日本は大きな危機に直面している。残念ながら日本の政治家に危機感がないことを憂いている。しかし、ただ、憂いているだけでは芸がない。官僚は頭がよく、知識は豊富であるが、課題解決が得意でない。グーグル時代に、知識だけではグローバル競争に勝てない現実があるが、理解されていない。
そこでお願いがいしたいことがある。日本人の劣等感をベースにした危機感はやめてもらいたい。“Cool Japan”的な発想、“You は何しに日本へ”的な見方が重要だと思う。そして日本の将来を見つめる勉強をしてもらいたいと思っている。

I. はい、今私たちが憂いているのは大きく2つあると思っています。
 ・ 一つはグローバリゼーションで、日本は何をするべきか?
 ・ 二つ目はAIです。
この2件を経営者は真剣に考えているでしょうか?日本が昭和時代に製造業世界一になった。これは「見えるモノ」をつくる技術です。今は「見えない未来を見つめ、新しい価値をさがし、輪郭を描き出し、それに挑戦することが課題」です。
日本は1990年以降、冷戦がなくなり、本件は最大の課題と思っています。しかしその前に以下のことを整理してみたいと思います。
1 ) 戦後の日本が1990年で製造業世界一になった要因と日本人の知恵は何だったのか?(2月号で示す)
2 ) 1990~2000の間に何が起こったのか?
それが評価できるのか、悪かったら、何をするべきかを調べる。
3 ) 2000~2010 までの成果(3月号掲載)
4 ) 2010~2020 までの評価(4月号掲載)
5 ) それ以降のグローバリゼーションの行方(5月号以降)

Z. この方法はオーソドックスで結構であるが、今回は1)、2) までで2月号を終わらせたい。理由は3) 以降はグローバリゼーションが絡み、簡単に検討するには無理がある。それに日本人的劣等感からの見方は避けなければならない。外国も同じ問題を抱えているはずだ。“Cool Japan”を外国人が評価する理由は何なのか。一つの思いがけない、新しい視点が見いだせたら幸運といえよう。

I. わかりました。しかし、ある意味で、日本人的感覚が受け入れられているともいえます。その日本人的庶民性とは何かを見つけることかもしれませんね。これを乗り切る方法を考えてみたいと思います。

Z. ここで導入部門は終わりとし、Ⅰ.から入って見よう。

Ⅰ. 戦後~1990年(世界一までの出来事とその特徴の洗い出し、2月号をベースに検討を進める。
1 ) 日本は敗戦という屈辱をうけたが、第一次大戦後のドイツに対する厳しい賠償要求はなかった。その上朝鮮戦争が勃発したため、当時の米国占領政策は、敗戦からの復興を支援する方向が打ち出されていた。これは大きな幸運であった。池田勇人総理は所得倍増計画を打ち出した。これに応じ、当時の官僚は率先して働き、次いで工場が生産性向上に取り組み成果を上げた。次に品質改善に取り組んだ。そしてその努力が実を結び、やがて日本は世界第一の製造業大国になったともいわれる。
2 ) 戦後の昭和時代は勤勉努力の時代であった。努力を評価すると下記になる。
米国の占領政策(ドイツでの失敗を反省し、無条件で支援する方針)に便乗し、国民が頭を切り替え、小さなことも大きなことも要求を組み入れ、学習能力を高めていった。(注:日本人の学習能力の素晴らしさを活かす)
時に運よく、朝鮮戦争が勃発し、需要が増え、所得倍増論が実現できた。日本の官僚の素晴らしさが生かされた。この時期の官僚はエリート意識をもって陣頭に立って、努力し(ノブレス、オブリージュの精神、)入手しがたいものを手に入れる努力を官が実施した。(注:官僚が本気を出した。横の連携も図った。)
製品の質に注目し始めた。(注:質に注意を払うことは、日本人の芸術観の発揮)
量産が充実すると公害への取り組みが始まる。(注:人間を大切にする方向を出した)
部品の質の高さが生産性を向上させた(注:メンテナンスレスという発想)トヨタ
部品の共有化による(注:コストダウン、メンテナンスの容易さ、質のランクを上げた生産管理)トヨタ
系列会社との縦型連携による生産性向上(注:生産ラインの複雑化の解消、プロジェクトマネジメントからプログラムマネジメントへの転身)
電子化による運転機能の向上(注:運転の高級化とシンプル化)
生産ラインのナゼナゼナゼによる絶えまざる改善行動
(自動車産業の世界一を目指し、成功を捕まえた)。

Ⅱ. 日本は世界一から停滞時期に入る(1990~2000)
1 ) この時期のアメリカの企業は何をしていたか?
米国の大きな変化はソ連との冷戦からの解放である。それに伴って米国は軍事用に利用していたインターネットを世界中に解放し、ビジネス活動の高速化を狙い始めた。(世界をグローバリゼーション時代想定する提案をした)
インターネットを1995年に世界中に広めた。このためビジネスが国境を越えて活発に動き出した。この流れをみて金融資本家は国境のないビジネス展開に向かって、その矛先を向けていった。これがグローバリゼーションの始まりである。米企業はそのスピード感を企業に取り入れることをすすめ、経営のデジタル化に取り組み始めた。(IT経営という概念が生まれた)。

2 ) 日本は昭和から平成に移った。この10年の前半まで、国民は金持ち気分に浸っていた。
この期間の多くの企業は財テクに走っていた。そのため本業を疎かにして、金儲けに熱中していた。サラリーマンも金持ち的雰囲気におぼれていた。
日本企業はこの期間寛大な気持ちで韓国サムスンに対し、日本が開発してきたCAD/CAMの技術を伝授していた。そして日本の製造業における重要な技術の解放をおこなった。これにサムスンは便乗し、日本企業の製造ノウハウを持つ、リタイアした人材を高給で雇って日本製造業のノウハウを吸収し、すべて文書化してしまった。サムスンはこれらを飛躍のための人材育成期間とし、社員の変革を促し、成功させてしまった。この結果日本の独占であったDRAMは製造機械と検査機械をサムスンは所持したため独自の生産計画ができた。サムスンは韓国の大財閥である。当時国家予算の15%を占める売り上げ規模を持っている。サムスンはこの優れた機械を使って、韓国内で必要とするDRAMの数量、世界中で売り上げられるDRAMの数(世界の1/2を算出し、総計数を計算し、発売に踏み切った。一方我が国の通産省は国内10社にその権限を与えたため、1社の生産量は日本の生産の1/10となり、DRAMの価格競争に敗れた。
1997年に日本のバブルがはじけ、製造業の衰退がはじまった。技術を誇る日本の家電機器は国内での生産量が低落した。そして海外でも売れなくなった。

  来月号はサムスンの改革の紹介とアジア地区からの受注拡大

以上

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