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「きぼう」日本実験棟開発を振り返って (14)
―30トンの船内実験室を米国へ輸送と射場作業―

宇宙航空研究開発機構客員/PMマイスター 長谷川 義幸 [プロフィール] :1月号

・ISS計画は政治的な面が強い
2003年2月1日に、スペースシャトル「コロンビア号」が宇宙からの帰還時にテキサス州上空で空中分解する事故が発生しました。「きぼう」日本実験棟の船内実験室は、2003年8月にISS本体側モジュールの「ノード2」と実機結合確認試験が決まっており、ケネディー宇宙センターに輸送する予定でいました。予定通り輸送するのか、打ち上げ時期はどうなるのか、沢山の不安が頭を駆け巡りました。レーガン大統領は、「宇宙ステーションを予定通リ構築する。」との強い意志表明を直ちに発表したので、ISS参加各国政府のトップもISS継続を表明、輸送は予定通リ行うことになりました。通常国務省はあまり前面にはでませんが、政策的な活動では、国務省が参加国の不安を払拭するため動きます。最近では、ニュースにでているポストISSの月上空宇宙ステーションという新しい政策で活動をしています。この計画を始めるとき、当時のレーガン大統領が主導して、反共産として西側の結束を世界に示そうと、日本、西欧州、カナダに対して参加を呼び掛けた極めて政治的な意味合いの強い国際協力計画でしたが、上記の出来事を経験して、技術的な要素以上に政治的な側面が強いことを感じました。
いわばレゴのような宇宙構造物 ISS計画が開始されたときに、膨大な経費と先端技術を組み合わせたいわばレゴのような宇宙構造物(右図)が、宇宙空間に建設できるのか、漠然とした不安や不確実性を当時の関係者はもっていました。しかし、ISS開発の四半世紀の歳月は、多くの変更を余儀なくされてきたにも拘わらず、レゴのような構造物を順次宇宙にあげてISS建設をしています。その状況下で、「きぼう」日本実験棟はついに打ち上げに向かってNASAのスペースシャトルの打ち上げ場所に運ばれることになったのは、考え深いものがありました。

・船内実験室を米国へ船便で輸送
「きぼう」船内実験室は、2003年5月には、フロリダ州にあるケネディー宇宙センターで開梱、輸送後点検、8月には、「きぼう」と接続するノード2モジュールと実機結合確認試験のための準備があるので、計画通り輸送することになりました。「きぼう」船内実験室は、コンテナ込みで30トンもあり航空貨物機で運べなかったので、民間の貨物船を調達して貨物混載便として運ぶことになりました。筑波宇宙センターを深夜出発し、道路を閉鎖して土浦港へ、はしけに積み替えて、銚子港へ、中型船に積み替えて、横浜大黒ふ頭へ、そして、パナマ運河にむけ出航しました。幸い海が荒れることはなく全行程凪の状況で、荷物への影響もなく無事、パナマ運河を経由してフロリダのポートカナベラルへ到着。荷物を下ろす港は、諸般の事情から
港での記録写真の撮影は、先方から基地の施設が写らない方向だけ許可になりましたケネディー宇宙センターに近い海軍の潜水艦基地となりました。NASAが提案してくれました。港での記録写真の撮影は、先方から基地の施設が写らない方向だけ許可になりました(右写真)が、親切丁寧に対応してくれました。港から宇宙センターまでは、NASAがトラックを用意してくれて厳重な警戒のもとでISS用の各国のモジュールが集まっている巨大なクリーンルームにゆっくり輸送してくれました。
ケネディ宇宙センターへ 手元にある昔のものを徐々に片付けしているのですが、その中に名刺がありました。NAVAL Ordnance Test Unitとあり、輸送後に理事と関係者で表敬したときに交換したものでした。初夏の亜熱帯の暑い日差しの中で白い制服も、エンブレムも格好良かったのを覚えています。

・想定外のハリケーンによる避難
 「きぼう」船内実験室は、2003年5月には、フロリダ州にあるケネディー宇宙センターで開梱、輸送後点検、8月には、ノード2と実機結合確認試験と分刻みのスケジュールで進みました。試験後は、打ち上げにむけ各種の射場点検作業を続けていました。フロリダは大西洋に面しておりハリケーン銀座です。ケネディー宇宙センターで「きぼう」の射場作業をしているメンバーは、近くのココビーチという町のホテルから毎日作業に通っていました。
 ハリケーンが来るたびにNASAから避難命令がだされるため、毎年6月から11月のハリケーンシーズンは、アメリカの各種天気予報のホームページでハリケーンの状況と進路予測をすることが日課になっていました。特に、2004年9月には3つの大型ハリケーンが発生、その1つ、9月11日に来襲したIVANというハリケーンは、宇宙センターを直撃する恐れがありメンバーを日本に一時避難させる事態がありました。予報通り、過去10番目に大きいハリケーンになり宇宙センターのそばのオーランドという町は死者ができるほど甚大な被害をもたらしました。
 その後、宇宙センターに戻ったのですが、再びハリケーンが発生し4日間現地から避難、2004年年10月には3日間避難、2005年8月にも3日間避難するなど、プロジェクトのWBSには入れていなかったハリケーンに振り回されたアメリカでの射場作業でした。
 「コロンビア号」事故の影響で、スペースシャトルの打ち上げはしばらくありませんでした。
 2005年7月に、ようやくスペースシャトル打ち上げ再開となり、野口宇宙飛行士がこのフライトに搭乗しました。無事ミッションは成功したのですが、再開フライトに日本人が乗ったので、無事着陸するまで心配の日々でした。
以上

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