投稿コーナー
先号  次号

「きぼう」日本実験棟開発を振り返って (4)
―マルチの国際会議に弱い日本人―

宇宙航空研究開発機構客員/PMマイスター 長谷川 義幸 [プロフィール] :3月号

 わが国は、国際宇宙ステーション(ISS)の「きぼう」日本実験棟開発から宇宙先進国の仲間入りをしました。参加当初、人工衛星の技術はありましたが、有人宇宙開発は全く新しい世界でした。当時は、H-2ロケットを自主開発し、アメリカから自立したロケットを持とうとしていた時期であり、ISS計画への参加は、結局アメリカにお金を払うだけの事業になるのではないか、とう意見もありました。明治維新の頃、西欧列強の先端技術を手に入れるため政府が多くの若者を欧米に留学させた頃の状況に似ていました。ISSの日本は、有人宇宙の新参者だったのです。私は1989年から「きぼう」プロジェクトに配属され、NASAを中心とする多国間技術調整の国際会議に参加しましたが、どこの道をゆけば出口にいくのかただ迷うばかりの不安に満ちた経験をしました。今思い返しても冷汗三斗の思いに捉われます。

 400以上もあるワーキンググループとかパネルと称する会議が、頻繁にアメリカのヒューストンやワシントンDCで行われていました。日本も欧米並みの先進国になり、国際的な地位を獲得するのだ、とのプライドだけは胸に秘めて会議に臨みましたが、多数のアメリカ人が参加している会議で日本人が数人、意見をいうのは1人か2人で、議長から意見を求められてはじめて短い言葉で答える程度、NASAからはシャイで寡黙な日本人と言われていました。NASAやボーイング/ロッキード社の連中は、説明の途中であろうと質問をどんどんします。それが的外れであっても気にせずに、自分の存在をアピールしているようでした。しかし、有人宇宙の独特の略語や言い回し、弾丸のような早口での英会話、どこで意見を言えばいいのか全く分らない状況で、さらに大勢の前で手をあげて発言するのは得意ではなかったこともあり、こいつは大変なことになった、これからどうなることかと不安と希望の入り混じった気持ちでじっとしていました。その時の私の心境を表現した絵が下図です。

その時の私の心境を表現した絵

 この事態をなんとかするため、JAXAのヒューストン駐在員と相談して、NASAの関係者に直接会って話をする場を設けることにし、あちこちのオフィースを歩きまわることにしました。ほとんどの方は、丁寧に応対してくれ、手元にある資料をコピーしてくれたばかりか、「何回もきてほしい。こちらもJAXAの意見を聞きたいと思っていた。」という方もいて、それ以降、会議の度、関係者と話す機会を設定するとともに、当時整備され始めたインタネット環境を利用して頻繁にメールでやり取りし二国間調整を行うようにしました。これがいい効果を生み、さらに慣れてくるにつれてこれまで蓄えてきた衛星運用の知識や米国企業との業務経験が、この仕事でも生かせることが分かってきました。

 会議は、参加国のうちの力のある一国がリードし、他の国がリードされることに納得する形があると、他国の同意も取り付けることができます。ISSのリーダーは、NASAですので、日本に有利な状況を作り出すように二国間での協議に力をいれ、「きぼう」開発も実運用もNASAと共同歩調をとりました。今振りかえってみると、大勢で一同に会して議論するより、NASAと一対一で向いあって調整する方が日本人の性に合っていたと思います。おかげで大規模なプロジェクトのPhased Project Planning、国際会議の意思決定の方法、議論を自分に有利にするやり方などの国際プロジェクトマネジメントの基本動作を実践で身に着けることができました。「きぼう」打上げから10年経過した今日まで、NASAとは、ISS参加当初とは全く異なり、非常にいい関係が育ちつつあります。

以上

ページトップに戻る