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「琵琶湖疎水プロジェクトを辿る」

プラネット株式会社 中 憲治 [プロフィール] :1月号

パーソナルプロジェクトとして現在「シニアプロジェクト」を遂行中である。その一つのタスクフォースである「西国三十三観音巡礼」の一環として第16番札所清水寺~第14番三井寺までは「琵琶湖疎水プロジェクト」を辿ることにした。「琵琶湖疎水プロジェクト」は琵琶湖から京都まで水路を築き、水運だけでなく水力発電、上水道、田畑の灌漑などに利用するという多くのスコープを含んだプロジェクトであった。飯吉厚夫、村岡克紀両氏著「ビッグプロジェクト」新潮新書によると、明治維新以降の本格的な一大近代プロジェクトであったといわれている。「琵琶湖疎水」は第一疎水と第二疎水からなり、第一疎水は1885年(明治18年)に着工、1890年(明治23年)完工、5年の歳月を要して完成した。これには、当時の世界最長(前書ビッグプロジェクトによる)の2,400mのトンネルを含む3つのトンネル、水力発電所、インクラインなどを、当時の最先端技術を駆使して遂行されたプロジェクトであったといわれる。
また、2,400mトンネル工事には、世界初の竪坑方式を開発し、工期短縮を図ったなど、プロジェクトマネジメントに関するトピックスにあふれたプロジェクトであった。

蹴上第三トンネル出口 蹴上第三トンネル出口
インクライン インクライン

このプロジェクトのプロジェクトマネジャーは、大学卒業後京都府に職員としてプロジェクトの計画に参加し、22歳で実行責任者となった田辺朔郎氏であり、竪坑方式を考案するなど、その後トンネル工法の権威として活躍します。
プロジェクトのスポンサーは第三代京都府知事の北垣国道氏であり、このプロジェクトの実施、成功に導くため国家プロジェクトとしての位置づけをめざし、明治の元勲といわれる伊藤博文、山県有朋、松方正義、井上馨、西郷従道など当時の中央政府の要人を説得し、支持を取り付けるなどのスポンサーとしての理想的な活躍をしています。
第一疎水の3つのトンネルの出入り口には、上記5名に北垣国道氏を含めた6名の揮毫による扁額が掲げられている。
琵琶疎水に関して驚くべきことは、第一疎水完成の18年後の1908年(明治41年)には第2疎水に着工、1912年(明治45年)に完成しているが、この第2疎水は、全域トンネルか暗渠で覆われていることである。第2疎水は、水力発電に必要な水量の確保に加え水道水に利用されるため、できるだけ地下を通ることを意図して建設されたとのことだが、すべてをトンネルや暗渠とするためには、18年間でトンネル工事などの土木工事の驚異的な発展が背後にあることが想定される。プロジェクトに携わる人には、時間があれば是非訪れていた頂きたい処であると思う。

プロジェクトマネジャー 田邊朔郎氏銅像 プロジェクトマネジャー
田邊朔郎氏銅像
第二トンネル西口 第二トンネル西口
第二トンネル西口扁額 第二トンネル西口扁額
第一疏水竪抗 第一疏水竪抗
琵琶湖疏水ルート図 琵琶湖疏水ルート図

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