PM研究・研修部会
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プロジェクトのライフサイクルを考える

PM研究・研修部会員 坂本 圭司:6月号

◆「樹木と人」
司馬遼太郎の「十六の話」に、1986年5月、大阪府吹田市で開催された「国際グリーンフォーラム-都市と緑の文化戦略」における記念講演に加筆する形で、1986年9月号の『世界』に掲載された「樹木と人」という話が収録されています。冒頭、-ソ連のチェルノブイリ原子炉が壊れまして、死の灰が各地に降って大騒ぎになっておりますが、これは、「地球は一つなんだな」という認識を世界じゅうに植えつけた点で、歴史的な事件だと思います。-という文章で始まり、-地球の緑さえ守ってゆけばわれわれにも未来がある、子孫たちはなんとか生きられるだろうということが、近ごろしきりに思われてならないのです。緑は、全ての基礎です。-と締めくくられています。

司馬遼太郎の「十六の話」 ご興味のある方には是非読んで頂きたい話ですが、ここでは、印象に残ったエピソードをご紹介するにとどめます。
まず、幕末にやってきた無名のフランスの青年が書いたこととして、彼が東南アジアを経て長崎に上陸して、その間の感想としてただ一言、「アジア人というのは実に怠け者で、天の恩恵のままで生きている」というものだったそうです。太陽さえ少ないところのあるヨーロッパ大陸では、人間が非常に苦労して緑を増やし、保存し、さまざまなことをやって生きてきたのに、東南アジアから日本は、豊富な緑と太陽あることに対して、その自然の恩恵を少しも感じずに暮らしていることを腹立ちとともに書き、最後に「神は不公平である」とその文章が結ばれているとあります。

文明が栄えると人口が増え、樹木を切り倒して畑や牧場にしなくてはならなくなります。二年、三年は作物ができるものの、森を切ればそこが乾いて、やがて人が住めなくなり文明が滅んでしまうという恐怖を味わってきました。また古来、鍬や鋤といった農具、弓の鏃、刀や鎧といった武器、産業革命では機械というように、さまざまな道具となる青銅、鋳物、鉄を作るために、樹木や木炭を燃料にしていた時代、やはり森を切ってしまいました。アジアでも相当な自然破壊の歴史をもっていましたが、ギリシャ文明が、森がなくなって、畑も滅び、人類も滅んだように、中国がならなかったのは、やはり、「神は不公平である」ということだそうです。

日本でも、三世紀ごろからはじまって、五世紀を最盛期に山々を切って木炭にして製鉄をやってきたのですが、モンスーン地帯にあり、雨が降るとスポンジのように山が雨を含み、樹木を切っても、植林をしなくても三十年で自然に復元しつづけたという仮説があったそうです。その仮説を確かめるために、十三世紀か十四世紀ごろから五、六百年、出雲地方で製鉄をしていた中国山脈の大半の山持ちの田部家の長右衛門にお話を聞かれ、わざわざ植林しなくても、三十年くらいするとちゃんと木炭になるだけの木が育って復元します。古代の産業で製鉄ほど自然破壊をするものはなかったけれども、幸いにして日本はモンスーン地帯だからよかったということをおっしゃったそうです。

更に、革命は自然を荒らすものなのですという話があります。明治六年ぐらいに大久保利通が、革命後六年しかたっていないのに、京都の嵐山の山は荒れほうだいで、倒れたままの木もあれば、葉が茂って醜くなっているものもあり、護岸工事もいたんでおる、とびっくりしたそうです。大久保が土地の人を呼んで、なぜこんなに荒れたのだと聞くと、「昔の幕府はえらいものでした、この嵐山の景色が悪くならないようにお金を出して保存してきたのです。この山には景色をきれいにするための手が入っていたのです。絶えずそのために人が雇われて働いておったのです。それが新政府になって、そういう人は金がもらえないものですから、山に入らなくなり、このように荒れたのです」といわれたそうです。これは本当かと思い、後に東京に帰ってきたとき勝海舟に聞いたら、「そうなんだ、幕府は目に見えないところにお金を出してきた、政府というのはそうあるべきものなのだ。新政府はそういうことをやっていない。それはよくない」と説教をされたそうです。

◆「伊勢神宮の森に学ぶ」
2018年3月7日の建設通信新聞に、「隆」というペンネームで「伊勢神宮の森に学ぶ」という建設論評が掲載されていました。ご存知の方も多いと思いますが、持統天皇時代の690年からはじまり、戦国時代の中断があったものの1300年もの長きにわたって現在まで受け継がれてきている20年ごとの式年遷宮の伝統儀式に触れ、我々建築に携わる者一人ひとりが、人にとっても自然にとっても価値ある建築を生み出すことが、「神宮の森」から学ぶべきことではなかろうかと結ぶ内容です。一回の遷宮で使うヒノキの数は、一万本必要となるそうです。直径80センチ以上のものも必要なようで、そこまで大きくするには、二百年もかかるそうです。このヒノキを伐り出す山を御杣山(みそまやま)と呼ばれ、もともと御杣山は、神路山、島路山、高倉山という伊勢神宮の内宮と外宮の背後の山だったようです。ヒノキの枯渇などの問題から御杣山は三河国、美濃国、伊勢国に移されたようですが、この三百年以上にわたり、尾張徳川家の領地である尾張藩の木曽谷とされているようです。なお伊勢神宮は、再びもともとの神路山、島路山、高倉山を御杣山とするべく森林経営計画を立て、大正十四年(1925年)よりヒノキの植林を続けています。しかしながら十分な大きさのヒノキに育てるまでには概ね二百年以上ですから、まだ随分と先のお話です。なお、大きくて立派なヒノキを育てるためには、広葉樹と針葉樹を混ぜた針広混合林でないとならないそうです。針広混合林とすることで、山の栄養と保水能力を高め、倒木を含め木を守ることになるそうです。

この20年ごとの式年遷宮は、職人の伝統技術を後世に伝える役割を果たしていると言われるそうです。実際に伊勢神宮の外宮敷地内に、式年遷宮で使われる大量の材料の加工・保存を行う神宮司庁山田工作場があります。神宮司庁山田工作場2013年に第62回が行われたところでですが、既に昨年の2017年11月15日、木曽より伐り出された材木が届き、次の式年遷宮の準備が始まっています。この木材は神職のお払いの後、検査、原木番号が付けられ、山田工作場にある貯水池に3~4年漬けられ、樹脂などを抜いてそりや亀裂が起こりにくくするように水中乾燥され、その後、切断、墨掛け、製材の工程を経て、長いもので十年間自然乾燥されるそうです。

◆「プロジェクトのライフサイクルを考える」?
今日、よく耳にするようになっています「安心で安全な社会」の実現のために人は、古代より脈々と、有形無形の取組みをしてきたと言えると思います。しかしながらその取組みは、その全てが、人の意識や意図に必ずしも係らずに、自然への良い影響と、残念ながら悪い影響の両方を歴史に刻みこんできています。ここでご紹介をしました「樹木と人」と「伊勢神宮の森に学ぶ」の2つのお話はともに、数百年単位の歴史観によるものです。まずは、緑を全ての基礎とすることとはどういうことか、人にとっても自然にとっても価値あるものとはどういうことか、古代からの歴史を振り返ってまず学び、そして考えることを伝えようとしています。この記事のタイトルを「プロジェクトのライフサイクルを考える」としましたが、今皆さんが関わられているプロジェクトのライフサイクルを、こうした視点で考えなおしてみましょうということではありません。こうした視点からの思考や議論がどんどんと一般化していくことが、大切なのだと考えております。その一般化の過程は、相当の時間が必要でしょうし、時間をかける必要があると感じています。ある世界的な建設のエンジニアリング会社では、対応を求められているプロジェクトが世界環境に影響を与えることが懸念される場合には、その会社のトップの意思決定機関 -この会社のベースであるヨーロッパとなります- にお伺いを立てるようになっているという話を、日本の事務所の代表をされている方から直接、伺ったことがあります。もちろんその評価のための細かなクライテリアやプロセスといった細々したお話はありませんでしたが、その会社がカバーしているところは全世界共通でこの手続きが求められるということに、「地球は一つ」という思想が醸成されているという驚きを覚えました。こうした思想の醸成と共に、プロジェクトのライフサイクルについても、それに大きく影響を与える事象についての判断や取組みといったものが、少しずつ積みあがっていくというのが良いのではないでしょうか。

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