グローバルフォーラム
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「グローバルPMへの窓」(第122回)
思えば遠くに来たものだ

グローバルPMアナリスト  田中 弘 [プロフィール] :4月号

 多くの人が引退する65歳を超えて約10年間ほぼ(75%)現役でやってこられたのは、多くの人に支えられ、周辺環境の良い方への変化、あるいは年々進化する道具のお蔭である。家族、月一回お世話になる主治医の先生、常に筆者のポジティブな面を引き出してくれる(つまり数々のチャレンジを向けてくる)ヨーロッパと日本の友人達、空港ラウンジやプレミアム・エコノミークラス使用等何かとお世話になるANA SuperFlyers クラブ、坂の多い居住地にあって駅へのアクセスを容易にしてくれた家から2分で停留所があるコミュニティバス、リラックスには茶褐色した炭酸泉の郊外温泉、凝り固まった身体をほぐす技術がすばらしく、価格が安い(他店の約半額)マッサージの「リラクル」・・、そして今感心しているのが最新のメガネと顔回りのウィルス除去器である。
 3年前の白内障の手術以来、視力は出たものの、遠方と手元を見るには二つのメガネを使い変えていたが、頻繁に行う授業や研修の時にスライドのスクリーンを見る際は裸眼と、ややしこしかったが、今年1月に京都でメガネを忘れてきたのを潮時に新たなメガネに変えたら、非常に小さい字以外は、すべてが見えるメガネを作ってくれた。
 ウィルス除去器には1月にウイーンに行った際に往路のANAの機内販売で出会った。1.5万円で、イオン発生で顔回り30cm平方のウィルスを98%除去する(日本のベンチャー企業であるメーカーのデータ)。これは、スケジュール変更不可の仕事ばかり実施しており、インフルエンザはもとより、風邪も引けない筆者には強烈な優れものとなっている。また。アジア以外では、町でマスクをかけていると異常と取られるので、大変助かる。
 3月14日に、日本プロジェクトマネジメント協会が一財海外産業人材育成協会(AOTS)から受託した、2週間の海外経営者・管理者向けインフラストラクチャ―・プロジェクト向けプロジェクト & プログラムマネジメント研修を無事終了した。8か国から22名の研修者が全員優秀な成績で修了した。この1年間で、2週間研修を3回も実施した。今回の研修は、2週間で、① インフラプロジェクトの基本要件定義と計画プロセス、② プロジェクトマネジメント、③ プログラムマネジメント、および、④ 気候変動と対応策(Climate change mitigation and arbitration)の仕組み作り、のすべてを学び、研修成果を2回のワークショップと修了テストで確認する、というモジュールでできているが、社長3名を含む各国のエリート達は、素晴らしいチームワークを発揮してすべてのセッションで落ちこぼれなく乗り切った。的確な成果が2週間で出てコースディレクター冥利に尽きる。
 グループ編成はマルチナショナル編成を徹底しており、バングラデッシュとエジプト+2~3か国の研修者たちで一チームであり、このマルチナショナルチーム編成から多国籍環境でプロジェクトに取り組むコツを学ぶことを、この研修の⑤番目の特徴としている。
 全体の5分の2を占めるグループワークを活性化するには、グループ編成の工夫が必要である、研修参加申請書から読み取って、参加者のPM経験度、業種、職位(リーダーには役員クラスと若手を避けて部長クラス、課長クラスを)、年齢、参加者の国の実務英語レベルを判断して、リーダーになりそうな研修者を1名ずつ、予備をもう1名ずつ割り振る。
 研修のデザインと統括もそうであるが、このグループ編成も当てが外れたことがない、筆者のみが有するノウハウである。

ワークショップ成果発表後の4か国グループ 唯一の女性にして若きリーダー(バングラデッシュ)
ワークショップ成果発表後の4か国グループ 唯一の女性にして若きリーダー(バングラデッシュ)

 毎年3月のAOTS研修を終えると2週間以内に海外にでることにしているが、いま、この原稿を書きだしたのは、パリからダカールへのエールフランス便の機内である。通いなれた道であるが、座席のモニターに映るフライトルート図には、パリ→ダカール ルートをそのまま下っていくとダカールから約6時間でブラジルのレシフェ(Recife)に着く。
 南米は筆者の世界巡行の原点であるが、1982年にロンドンから大西洋を斜め横断し、カリブ海に浮かぶトリニダード・トバゴに仕事で行って以来、まして南米大陸には1966年に学生としてチリから帰国して以来、まったく行ったことがない。
 ふと、2月に久しぶりにテレビで観た1970公開のイタリア映画「ひまわり」を思い出した。マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンが演じる熱愛する夫婦が、第二次世界大戦で新婚にして夫がソ連戦線に出征したことで運命が狂い、生きながらにして、二つの国で新たな伴侶との生活を選択するという哀愁ただよう物語である。舞台となったウクライナの地が今の自分にとり心理的に近くにあり(二つの主たるロケ地も通過したことがある)、今改めて観ると50年とは遠い昔の物語であると感じざるをえない。今であると、ウクライナの首都キエフから二人の新婚の舞台ミラノまでは毎日の直行便でたった1時間半であり、多くのウクライナ人がイタリアに出稼ぎに行っている。しかし、「ひまわり」が描いた元夫婦の間にできてしまった心理的な距離は、筆者と南米の間に生れてしまった心の距離に通じるものがある。

新ダカール国際空港(AIDB) 政府広報資料  セネガルの首都、ダカールでは、昨年12月に運用開始された新国際空港Aéroport Nbiass(空港コードDSS)に降り立った。旧空港はほぼ町中にあり、その点は便利であったが、国際空港としてはあまりに貧弱であったのが、小ぶりながら首都にふさわしいピカピカの空港となった。
 それと同時に、諸手続きが大幅に簡略化した(以前イミグレーション終了まで30分かかったがたった5分となった)。新空港はダカールから55kmの距離だが、空港からのアクセスロードは、以前からあるハイウェイに直結しており、ダカール市街には45分で着く。
 公的国際ファイナンスが付くアフリカのプロジェクトで納期・コスト・パフォーマンスが計画通りであったのはたった2割であるが(世界銀行)、DSS空港も完工が6年遅れ、コストは1.6倍となったと報道されている。セネガルにも財政難とか官僚制の壁とか事情があるが、周辺になにもないところに空港を建設していて6年も遅れるのはアジアの国の常識ではなかなか想像出来ない。が、ともかく、放り出さないで運用に漕ぎつけたところが素晴らしい。どの途上国でも、首都の新空港ができると国の開発に弾みがつく。セネガルに来るのはフランス人だけでなく、米国在住のセネガル人で戻ってくる人が増えた。ダカールに向かう途中に国際工業都市もかなりできており、ようやく開発に向けて動き出したか、という気になった。
 セネガルが発展するには、ナレッジ経済で生きていくことが適切だと思う。市場規模に合った軽工業の発展とともに、汎西アフリカ農業バリューチェーンに加わることも加え“グリーンエコノミー”を構築すること。今回の訪問ではこのような議論を学生や関係者としたいと思う。
 ダカールの4月は日中の気温が35度くらいと記憶していたが、今回は25度止まりである。AOTSの研修で、いくつかの国の代表が気候変動の影響で季節のパターンが狂っていると言っていたが、セネガルにも気候変動の波は押し寄せているか、これから確かめたい。
 4年前初めてダカールに来た時からセネガルでのプロジェクト研究大学院教育の基盤つくりは筆者に残されたフロンティアであったが、いまもってフロンティアである。
 到着した3月27日は仮泊で、大学院の自分の研究室に泊まったが、もともと邸宅であった建物なので、住む環境は整っており、床にマットレスを敷いて寝た。博士課程生1名と使用人2名が住み込んでおり、不安はない。明け方コーランの読経の声で目が覚めたが、これは40年前のインドネシア時代と同じだ。  ♥♥♥

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