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「エンタテイメント論」(120)

川勝 良昭 Yoshiaki Kawakatsu [プロフィール] :3月号

エンタテイメント論


第 2 部 エンタテイメント論の本質

6 創造
発想阻害排除法④-1
④優れた発想は、発想を阻害する「環境」を排除し、発想に集中する事に依って生まれる。
●質問、意見、批判への対人感情
 議論の場で主張した事に「質問」されると、本人は「疑われた」と心底で強く感じる人が多い。また「意見」を述べられると「反対」されたと、「批判」されると自分の人格まで批判されたと感じる人がいる。

 この様な対人感情は、極めて親しい友人や知人との関係が存在する場でも生じることがある。ましてや親しくない人、過去に会ったこともない人との関係が存在する「場」に於いては、理性に長けたインテリ層の集まった時でさえも、強い抵抗感のある対人感情が生じる。

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●自由発想を妨げるもの
 この様な「対人感情」が生じる限り、「自由発想」による自由闊達な議論は出来ない。これでは創造的な活動を大きく阻害される。

 創造活動だけでなく、通常の活動に於いて、この様な「対人感情」が生じると、たとえ親しい友人関係に於いても望ましい結果を生まない。そのため、その都度、いちいち「あなたの主張を疑ったり、反対したり、あなたを傷つける意志は全くない」と予め宣言してから発言する様になる。これでは質問、意見、批判を述べ難くなる。日本では役所、企業、大学などの会議であまり質問や意見が行われない理由の1つに、この対人感情がある。しかし相手の感情を不安定化させたり、傷付けたりしない様にする配慮をすると、自由で知的で深い激しい議論をする事が出来なくなる。

 こんな面倒な「対人感情」の処理をいちいち、その都度、事前に行わねばならない国は、筆者の知る限り、欧米諸国、中国、韓国などに存在しない。日本独特のものである。

●Debate(ディベイト)
 「議論」の事で関連する事は、欧米諸国等で行われているDebateである。これは、日本では競技や訓練などの目的で公開の場で行われている。しかし実際の企業間の深刻な問題について公開に近い形でDebateを行う事は難しく、実施されていない。また社会的な深刻な問題について公開の場でDebateを行えば、感情的シコリの発生どころか、つかみ合いの喧嘩か、下手すると殺傷事件まで起こしかねない。従って実際には殆ど実施されていない。

 Debateは、「討論」と辞書で訳されている。しかし正確性を欠いている。誤訳とは言わないが、適訳ではない。最近は、訳さず「ディベイト」と表現され、日本語化している。

 米国の大統領選挙の戦いの一環で行われるTV公開のDebateは、日本で度々放映され、その意味する事はある程度、理解されていると思う。しかしその真意と仕組みまで本当に理解されているだろうか。

出典 2017年大統領選挙戦のDebate トランプVSクリントン Politicsdebate_trump_clinton_jpg&action
出典 2017年大統領選挙戦のDebate トランプVSクリントン
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 Debateでは、殴り合いはご法度だが、口頭で主張する限り、喧嘩腰でも何でも構わない。それは、夫々が勝つために、相手を徹底的に打ち負かすために、総力を挙げて戦う「口喧嘩」である。相手が疑われていると感じ様と、反対されていると感じ様と、人格まで批判されていると感じ様と、一向に構わない。この様な激しい「戦いの議論」に最適な日本語はそもそも存在しない。

 しかしその様なことを公開の場で堂々と行う欧米人などの「精神的逞しさ」は相当なものである。最近の「ひ弱な日本人」は、そんな彼らと国際交渉の場でどうやって戦えるのか、心配でならない。
筆者は、若い頃のNY駐在員時代、種々の国際交渉に関わった。帰国後は、USJ新日鉄プロジェクトなどの国際プロジェクトを推進し、米国ビジネスマンと交渉し、時に戦った。彼らのタフと云うか、無礼と云うか、Debate的な交渉姿勢には徹底的に鍛えられた。その結果、彼らから「川勝はアメリカ人だ」と何度か囁かれた事がある。「男の勲章」を得たと密かに思った。

●DebateとDiscussion(ディスカッション)の違い
 Debateは、特定のテーマで、あらゆる証拠や根拠を基に「本心」、「本音」、「本気」を吐露して戦う又はそれらのある部分を隠して戦う「知的総力戦」である。さてDebateとDiscussion(ディスカッション)は、何が違うのか? これは、夫々を「定義」する事によって初めて分かる筈である。しからば、「定義とはどうする事なのか?」 本稿では定義の意味を何度か説明したので読者は、先刻、承知しているだろう。
出典:定義 comps.canstockphoto.com 出典:定義
comps.canstockphoto.com

 筆者は、以前から頼まれて、某団体主催の「夢工学式発想法」の1日研修を実施してきた。今年も実施する事が決まっている。この研修会には今まで数多くのシステム開発のプロ達が受講した。この研修過程で「定義」の意味が重要になるため、いつも受講者にその意味を尋ねる。しかし今まで正確に答えた受講生はゼロであった。特にコンピューターを扱うシステム開発者が答えられなかた事は、意外を通り越して、ショックを受けた。先刻、承知の読者には気の毒だが、説明の都合上、定義の意味を説明させて貰いたい。

 「定義」するとは「YES」か「NO」で答えられる「問い」を明らかにすることである。これ以外に定義の意味は存在しない。この意味する事は、まさしくコンピューターの働き(計算、分類、記録など)を可能にするYESとNOの回路判断基準そのものである。

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出典 コンピューターYes No回路
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 実業務システムをコンピューター・システムに乗せる(システム開発)ためには、個々の実業務を分析し、実業務全体を把握し、全ての実業務行動(Activity)を正しく「定義」する事から始まる。この「定義は何か?」を回答できなかったシステム開発者は、本当に適時、適切なシステム開発が出来るのか?

 本論に戻す。DebateとDiscussionを定義する「問い」を明らかにしたい。その問いとは、その激論に「結論を判定する人物」が激論当事者の外部にいるのか? 内部にいるのか?である。

●Debateの仕組み
 「外部にいるか?」の問いにYESなら、その激論はDebateである。NOならDebateではない。

 Debateでは、激しい激論の戦を全て見聞する、外部に実存する第三者が勝敗を判定する。この仕組みこそがDebateの真の意味である。2017年大統領選挙戦のDebateのトランプVSクリントンの激論の勝敗を決する、外部に実存する判定者は「選挙権を持つ米国民」である。

 余談であるが、筆者は、太平洋戦争が終わり、家族と共に上海から引き揚げてきた。小学1年生の頃であった。筆者と家族は殺されそうになった経験を持つ。筆者は太平洋戦争の実体験を持つ最後の世代に属する様だ。

出典 太平洋戦争 mostfreebies.com WorldWar2
出典 太平洋戦争 mostfreebies.com WorldWar2

 この世代の筆者は、今は亡き両親から、上海市内の路上で繰り広げられる中国人の夫婦喧嘩の話を度々聞かされた。凄まじい口喧嘩であった様だ。周囲を取り囲んだ近隣の中国人達が喧嘩の経緯を聞く。そして最後に彼らは「亭主のお前が悪い!」と判定する。中国人は、戦前から、もっと以前からDebateを庶民レベルで実践していた様である。

●Discussionの仕組み
 「内部にいるか?」の問いにYESなら、その激論はDiscussionである。NOならDiscussionではない。

 Discussionでは、激しい激論を全て見聞する内部の実在する当事者達自らが勝敗を判定する。この仕組みこそDiscussionの真の意味である。しかし彼ら自身が判定を巡って内部で紛糾し、結論を出せない事が多々ある。その時こそ「多数決の原理」で結論を導くことになる。

●発想を妨げる環境の排除
 筆者は、Debateで自由発想をさせる場合は殆どない。しかしアイデアの採択で激論させたい時はDebateを採用する。

 またDiscussionの場でグループに「自由発想」をさせる時は、日本人の心底に持つ、対人感情を持たない様に注意する。また対人感情によって相手の主張を歪めず、ありのままに受け止めることを全員に事前に周知徹底させ、約束させ、実践している。この事は、グループのコミュニケーションを円滑にさせる「仲良しな雰囲気作り」よりも遥かに「重要なこと」である。

●最後の余談=日本のメディア関係者への苦言
 今月号はやたらに「余談」が多い。それだけ触発される重要テーマであると理解して貰い、読者の許しを得たい。「最後の余談」として、日本の新聞、雑誌、TVなどのメディア関係者に苦言を呈したい。そうする理由は、Debate、Discussionを今月号で論じたためである。

 最初に、メディア関係者を正しく「定義」してから苦言を呈すべきであろう。しかし紙面の制約があるので、苦言の結論のみ述べさせて欲しい。

 それは、①彼らがメディアを通じて国民に情報を発信する場合、当該情報の発信者の名前を例外なく開示すること、②国民に伝える情報に関して「賛成論」と「反対論」の両論を例外なく提示すること、③彼らが当該情報に関して意見を述べたい場合は、賛成、反対、決めかねていることを明確に提示すること、④当該情報に賛成又は反対する第三者の判定者は国民であると認識すること。⑤まかり間違ってもメディア関係者が判定者と思わないこと。⑥彼ら自身は、賛否の情報提供者であること、⑦彼ら自身、以上の事を肝に銘じることである。

 日本のメディア関係者が情報の賛否の判定者は国民であると真に認識しておれば、筆者の苦情内容を正しく理解し、遵守していたはずである。しかし殆どのメディア関係者は遵守しないどころか、日本のメディア情報体制を、民主主義の名を悪用し、すき放題に構築し、運用し、堕落させ、事実上の崩壊一歩手前まで追い込んでいる。しかし彼らにその自覚がない。

 日本のメディアは、裏を返せば、メディア独裁体制に近い状態になった。彼らを正すには、簡単ではない。筆者の苦情など何の効果もないだろうが、DebateとDiscussionの真髄を彼らに体得させる事が第1歩である。

つづく

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