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シニア・プロジェクト(パーソナル・プロジェクト)
その3.シルクロード(西の方、陽関を出れば・・・・・)

プラネット株式会社 シニアコンサルタント 中 憲治 [プロフィール] :1月号

シニア・プロジェクトのテーマは『端を極める』である。前回(2017.10)の投稿では、ユーラシア大陸の西端・ポルトガルを訪ね、日本に西洋文明をもたらしたポルトガルの代表的な人物であるフランシスコ・ザビエルと大航海時代の礎を築いたエンリケ航海王子のことについて書いた。エンリケ航海王子は「東方見聞録」をよみ東洋への強い関心を持ったことも知った。「東方見聞録」はマルコ・ポールがシルクロードを通って“元”のクビライハーンに会いに行った時の旅行記である。マルコ・ポーロの通ったシルクロードに行ってみたいと思いつく。中国の幾つも時代の西端がシルクロードには存在する。そこを訪れてみたいと次の目標が決まった。
世界遺産としてのシルクロードは次のように定義されている「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」。シルクロードは中国の主要産物である絹と西洋の産物との交易を行う為に開かれた交易路であるが、前漢(紀元前2世紀)の張騫による西域の冒険に始まり、唐の時代から明の時代にかけて整備されていったとされる。

シルクロード

シルクロードは、大きく3つに分かれている。①タクラマカン砂漠の南を通る・西域南路、②タクラマカン砂漠の北側、天山山脈の南側を通る・天山南路、③同じく天山山脈の北側を通る・天山北路の3路である。
マルコ・ポーロは、当時の“元”の領土の西端にあるオアシスの街カシュガル(喀什)から西域南路を通り蘭州、カラコルム(現在のモンゴル国内の都市)を経て元の首都大都(現在の北京)に至り、クビライハーンに謁見したと伝えられている。
シルクロードで忘れてならない人物は、唐時代の三蔵法師(玄奘三蔵)である。
三蔵法師は長安から河西回廊をへて高昌国(現在のトルファン[吐鲁番]近郊にあった都市)に至る高昌国王は仏教への信仰が厚く、三蔵法師を厚遇し、1年に渡る布教の末、インドからの帰国時にも再訪することを約束し、当初の目的の地インドに向かう。(帰国時に再訪するも、既に高昌国は滅亡していた。)高昌国の付近には火焔山がある。鉄分を含んだ土は赤く、炎が上がるように見えることからこの名がついたとのことであるが、「西遊記」に出てくる“炎の上がる山”のモデルだそうだ。
三蔵法師は、高昌国からは天山南路を進み、途中から天山北路に入り、中央アジアを経てインドに入ったと伝えられている。

<高昌古城にある三蔵法師が説法を行った寺院>
<高昌古城にある三蔵法師が説法を行った寺院>
今回のテーマは、シルクロードにある中国の幾かの時代の領土の西端である。
最初の西端は、前漢時代の武帝が匈奴からの攻撃を防御する為に構築し、現在も一部残存する漢時代の長城である。玉門関の西方から約150㎞に渡って構築されており、玉門関以東の河西回廊を防御するため作られたと伝えられている。後世の万里の長城とは異なり、土と藁を幾層にも重ね固めたものであるが高さは5~6mあったといわれる。この長城には、5㎞毎に狼煙台が設けられており、匈奴の襲来などいざという時の“Jアラーム”の役目をはたしていた。この地に建てば、西は土漠が延々と続き、本当に果てに来たとの感慨が湧き起こる

<玉門関の近辺にある漢代の万里の長城>
<玉門関の近辺にある漢代の万里の長城>
唐の時代は、シルクロードが一番活躍した時代であるが、8世紀初頭の玄宗皇帝の時世では実質的な統治の領域は河西回廊以東だったと考えられる。
当時の有名な王維の漢詩「元二の安西に使するを送る」は“渭城の朝雨 軽塵を潤し客舎青青柳色新たなり 君に勧む更に盡くせ一杯の酒  西のかた陽關を出ずれば故人無からん“と歌っている。
安西とは、現在のトルファン[吐鲁番]の近郊にあった唐の役所の出先機関が置かれた地名である。陽関とは、玉門関の南にあった関所であり、玉門関とならび当時の実質的な唐の支配の及ぶ西端とされている。当時は、陽関の西の西域に旅する人を唐の首都長安(現在の西安)の郊外にある渭城の宿で別れの盃を交わしたといわれている。

<玉門関の遺跡>
<玉門関の遺跡>
最後に訪れた西端は、明時代の西端である。明はモンゴル民族に征服された後に出来た中華国家であることから、北への備えを強固にすべく、東は渤海湾に面した河北省山海関から西は甘粛省の嘉峪関までを再整備する。私たちが観光地として通常眼にするのはこの明代の万里の長城で、その西端である嘉峪関を訪ねた。

<明代万里の長城最西端・嘉峪関>
<明代万里の長城最西端・嘉峪関>
嘉峪関は、南北に山脈が走り、その間20~30kmの狭い狭間に作られている。西に向けては大砲も備えられていたのには驚いたが、異国からの侵略を幾度も経験してきた漢民族としての必要不可欠な侵略予防対策だったのだろう。ただ、現在では、西側はシルクロードも開発が進み、油田開発、風力発電、送電線などが整備されている。
嘉峪関は単なる観光地の一つであり、西端に立ったなどの感慨は湧かない。

<シルクロード天山南路沿いには送電線網、風力発電、油田などのインフラ設備が何百キロも続いている>
<シルクロード天山南路沿いには送電線網、風力発電、油田などのインフラ設備が何百キロも続いている>

かつて、シルクロード天山北路のオアシスであった烏魯木斉(新疆ウイグル自治区ウルムチ)は、2000年以降の中国政府の巨大投資により、現在では400万人の大都市に発展している。現在の中国の西端カシュガルまで新幹線も通っており、高速道路網も整備されている。更なる高速道路の建設も進み、交通インフラの整備だけ見ても、習近平政権の進める「一帯一路プロジェクト」が既に始まっている予感を感じさせる。
以上

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