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シニア・プロジェクト(パーソナル・プロジェクト)
その2.フランシスコ・ザビエルとエンリケ航海王子

プラネット株式会社 シニアコンサルタント 中 憲治 [プロフィール] :10月号

シニア・プロジェクトは『端を極める』をテーマにして始めた。しかし、予め具体的な目標は設定していないため、何を目標とするかで悩むことが多い。一方で、ユーラシア大陸の最西端ポルトガルを目標とした時のように色々な思いのつながりから決まっていくこともある。情報の連鎖というか、思考の連鎖ともいえるが、ポルトガル決定のプロセスは次のようなものだった。
シニア・プロジェクトに先立つ「アラ還暦プロジェクト」の一つ「四国お遍路」で、お遍路の途中で知り合ったお遍路さんから聞いた「カミーノ巡礼」に強い興味を持ち、漠然とシニア・プロジェクトの一つの候補として「カミーノ巡礼」を考えた。早速調べてみると、「カミーノ巡礼」とはキリスト教の聖地のひとつであるスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへ詣でる巡礼で、ヨーロッパ各地からの巡礼の道がある。そのうち、多くの人が歩くのがフランス人の道であることがわかる。フランス人の道はピレネー山脈の麓のサン=ジャン=ピエ=ド=ポー村を起点としサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かう。この村のことを調べてみると、ピレネー山脈の南側フランスのバスク地方にある小さな村でありカミーノ巡礼の起点として、そしてバスク文化を色濃く残す村として知られていることが分かった。私の興味はこの時点で、バスク地方のことになる。バスク地方について考察を進めると、司馬遼太郎の「街道をゆくシリーズ・南蛮のみち」がバスク地方を知るうえで面白い本であることが分かった。この本はイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルのアジア宣教の旅に出立するまでの痕跡を辿ったもので、「南蛮のみち・1」と「南蛮のみち・2」からなる。「南蛮のみち・1」は、パリからザビエルの生誕の地であるバスク地方を訪ねるもの、「南蛮のみち・2」はスペインからアジアへの宣教の旅の出立地であるポルトガルまでを取り上げている。読んでみると、フランシスコ・ザビエルはバスク地方のナバーラ王国の王子として生まれたこと。ナバーラ王国はバスク地方の一国家として栄えたが、その後スペインに滅ぼされ、現在ではスペイン・ナバーラ州として存在し、ザビエルの生まれたお城は、今もザビエル城として残されている。フランシスコ・ザビエルは何人か?といった質問には、スペイン人、あるいはポルトガル人と答える人も多いが、正確にはザビエルはバスク人と答えるのが正しいのではと思える。
イエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の支援を受け、アジアへのキリスト教の布教団を派遣する。1541年4月、フランシスコ・ザビエルは宣教師団のリーダーとして、サンチアゴ号(約700トンのカンベラ船)に乗船、インドのゴアに向けて出港する。この時の港が、リスボンを流れるテージョ川の河口で、大航海時代の世界への母港として発展したところである。
ポルトガルは、日本に西洋文明をもたらした国であり、それを支えた大航海の母港となったテージョ川を見てみたい、日本にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルの出立の地に立ってみたい。これがポルトガルを訪れた大きな動機である。
大航海時代の礎を作ったのが、エンリケ航海王子である。

ポルト市内に建つエンリケ航海王子の像 ポルト市内に建つエンリケ航海王子の像

恥ずかしながら、この時までエンリケ航海王子のことを知らなかった。高校時代の世界史の教科書にはその名前が出ていたとは思うが、全く記憶はなかった。ポルトガルを訪れるにあたり調べると、エンリケ航海王子は、1394年に当時の国王ジョアン1世の3男として、当時の首都であるポルトで誕生した。(余談であるがポルトはポートワインの生産地である)前回でも述べたが、エンリケ王子の兄はベネチアの留学から帰国し、マルコ・ポーロの「東方見聞録」をポルトガル語に翻訳した人物である。エンリケ王子は「東方見聞録」を読み、東方の地アジアへ強く関心を持ったが、当時のヨーロッパ-の東地域は、イスラム教の国であり、陸地を行くことはキリスト教と敵対する国を通っていくことになり、叶わない。そこで、船でアジアを目指す。その為に必要な船の建造術と航海術を学ぶ学校を作り、航海士の育成に努めるなど大航海時代の初期を牽引した人物である。
テージョ川の河口(大航海時代の港)には、「発見のモニュメント」と呼ばれる記念碑が建っている。ヨーロッパにとっての世界発見に貢献し、偉業を成し遂げたバスコダ・ガマなどの航海士(冒険家)、天文学者、地図製作者、宣教師など33名の人物が刻まれている。その先頭は、エンリケ航海王子であり、フランシスコ・ザビエルももちろんいる。
エンリケ航海王子の手には、大航海に使われたカラベル船の模型が載っており、カラベル船はエンリケ航海王子が作らせた船であるといわれている。
このモニュメントに刻まれた人々が日本への西洋文化伝播に貢献した人々であるとも言えるが、モニュメントを見ると、先頭に立つエンリケ航海王子と、フランシスコ・ザビエルの像が、私の眼には一際強く焼き付けられた。

カラベル船:大航海時代に活躍した帆船、初期は100トン~200トン程度

カラベル船:大航海時代に活躍した帆船、初期は100トン~200トン程度
ザビエルの乗ったサンチアゴ号は、700トンまで大型化したようである。

「発見のモニュメント」先頭に立つのがエンリケ航海王子

「発見のモニュメント」先頭に立つのがエンリケ航海王子

発見のモニュメントの足元に世界地図があり、ポルトガルが発見(?)した国と年度が書かれている。

蛇足、発見のモニュメントの足元に世界地図があり、ポルトガルが発見(?)した国と年度が書かれている。日本は1541年と記されている。学校で学んだ日本とポルトガルの最初の接点は、1543年の種子島への鉄砲の伝来である。ポルトガルではその2年前に日本を発見したようであるが、誰が、何処へ、どのようにして、はよくわかっていないようである。
次回は、マルコポーロに刺激され訪れたシルクロードについて記したい。

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