PMプロの知恵コーナー
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ゼネラルなプロ (78) (実践編 - 35)

向後 忠明 [プロフィール] :4月号

 本格的な道場もでき、部員も集まり雰囲気も日本の空手道場らしいものになってきました。
 Aさん(指導員)は会社の上下の身分関係なしに練習中でも厳しく指導をしていました。
 筆者も年甲斐もなく一緒になって練習を行い、Aさんの相方となって組手の型を部員に見せたりしていました。
 30分もやると息も上がってどうしようもなくなり途中で見学に回り、部員に対して「腰が入っていない、」とか「蹴りが不十分」等と叱咤激励する側に回り楽をしました。
 一方のAさんはバイタリティーもあり、練習時間約60分ぐらいだったと思いますが厳しく指導をしていました。
 練習前及び後は必ず空手特有の挨拶である「オッス」(武道の精神である「自我を抑え我慢する」の挨拶)をすることにしました。意味は「押して忍ぶ」であり、漢字では「押忍」と表記されます。「オッス」は腹の底から力を込めてオッスと言い必ず道場に向かってやるように指導しました。
 もちろん、この挨拶の趣旨については部員に説明したり、空手の在り方などの精神論等について話をしたりして、少しでも日本の文化や日本人の仕事上での行動特性などの話をしました。
 このように、空手の訓練のみならず、訓話的な話をして、少しでも日本人の思考や姿勢を理解してもらうようにしました。
 彼らは「何か珍しいもの」に遭遇したように、すぐには理解できない感じでしたが、それも時間がたつにつれて、話をしたことを少しずつわかってもらえるようになりました。
 やがて「押忍」の精神がわかってきたようでお互いに部員同士、そして筆者に対しても「オッス」と挨拶をするようになりました。
 筆者としてはこの空手部と空手をスリランカテレコム(SLT)社内にさらに普及、認知させるため催事があるたびに演武会をSLT 社内で開催し、啓蒙しました。

 さて、一方の組合との関係ですが、空手部創設からは何となく一部の過激な組合は別として雰囲気的に良い方向に流れが進んでいるように感じていました。
 そこで、この空手部を作った目的である「組合との良い関係作り」がある程度満足のいくような状況が見えてきたところで、今度はCAO としての目標を以下のように設定しました。
 すなわち、
次回の労使交渉時での会社側の要求に対しての抵抗をこれまでより少なくする。
この会議でのお互いの話し合いがこれまでのような厳しい議論とならない。
これまでのような古い公社時代の権利の主張はさせない。
管理職組合を経営側の立場で発言するような雰囲気作りにする。一種の御用組合的位置づけにする。
 その目標達成のためには部員特に管理職出身組合員とのコミュニケーションを通じて機会あるごとにCAO としての考えを説明するように努めました。また、部員達からも関係組合員にCAOの考えを伝えてもらうように心がけました。
 このような活動を通して組合員間の横つながりを利用した情報活動でCAO の考えを彼らの口を通して話をしてもらうようにしました。
 これは以前、何かの本で読んだ「メンバー同士の横のコミュニケーションが活性化されるとチームの自立性がより高まる」といったプロジェクトリーダの心得というものの応用によるもので、いくらリーダが自分の考えを声高に言ってもなかなかうまく浸透しないことからの教訓と思います。

 筆者も良く各組合の会合でCAO の立場で高い場所から演説をしますが、まさにこれは上から目線の話となり、誰も話の内容に心から理解や同意をする人はいません。
 この横同士のコミュニケーションの手法はかなり効果を奏したようです。
 少なくとも空手部員は社内や外で筆者に会うとオッスの挨拶をするようになりました。このことはSLTの従業員としての在り方に関する筆者の考えを少しわかってきた証左と思えました。

 そして、次の労使交渉の時期がやってきました。
 CEO はじめ関係役員が席に着き、各31組合の長が入ってくるのを待っていました。
 何時も最初に管理職組合の組合長が入ってくるのは通例のことで分かっていました。
 そして、思った通り組合長が先頭に入ってきました。そして、空手部員となっている管理職組合長はじめ他の皆組合長たちも空手の挨拶である「オッス」と言って筆者の顔を見ながら入ってきました。
 他のSLT役員及び関係者はこれを見て「キョトン」としていましたが、筆者は「やった」と思いました。このまま交渉が進んでも以前のような激しいやり取りにはならないなと直感しました。交渉は案の定、何事もなく終わり、いつも4~5時間かかる交渉事も2時間程度で終わってしまいました。
 その後も組合との大きないざこざもなく、会社運営上、問題となることはほとんど発生しなくなりました。

 話が変わりますが、人事統括部長がシンガポールに出されたことにより、その欠員分の補充が必要となり、これを機会に人事部の組織編成を行い、人事統括部を人事部と人事研修部に分けて新しい人選を行いました。
 人事研修部はこれまであった研修センターを格上げし、社員の教育を充実することをCAO の重点項目としました。
 これまで筆者も研修センターにはあまりタッチせず、センター長の運営に任せていましたが、今回の空手部創設による空手を通しての社員教育によって、SLT 労働組合員の日本人への偏見がなくなったことに端を発して、社員研修に力を入れることにしました。
 これまではどこでどのような研修をやっていたかも知りませんでした。改めてその研修内容を見るとかなり立派な教科内容となっていることや研修センターの充実度合いも素晴らしいものであることがわかりました。
 CAO としてこの研修内容を精査しましたが、会社に必要な専門的な内容のものが多く、マネジメントに係る教科が少ないように感じました。
 前回でも話をしましたがISO 認証取得には社員全員が同じ気持ちと知識で業務を進められるようにすることが必要とわかっていました。そのためこれを機会にISO9001に関する講義を追加し、この認証取得の研修にも力を入れることにしました。
 この研修を行っている内にISO9001は日常業務での業務品質向上には最適な手法であるが、課題発生型の処理を必要とするプロジェクト業務にはそぐわないような気がしてきました。
 会社経営を行っていると業務分野の種類にかかわらずプロジェクト的業務も発生し、どうしてもそれに見合ったマネジメントの手法が必要であることを感じていました。
 そこで、一念発起でプロジェクトマネジメントに関する教材を自分自身で作ることにし、毎日自宅に帰ると執筆活動に精を出すことになりました。
 すでに日本語の原稿はインドネシアにいる頃から書き上げていたのでその修正と英訳が主なものでした。
 その英訳に関してはイギリス留学したオペレーション関係の部長にお願いして、筆者が英文で起こした原稿をチェックしてもらいました。
 約3カ月間程度かかり英文翻訳を終え、その原稿を研修センターにお願いして印刷から製本まで行ってもらいました。
 この本のタイトルはProject Management Guide (副題Lesson From Experience) で約320頁に及ぶ大作になりました。
 その後、このプロジェクトマネジメントの教科を研修スケジュールに入れて筆者自身が講師となり研修センターで講義をすることになりました。
 もちろん、英語での講義でした。
 つたない英語力での講義でしたが、講師がCAOでもありほとんど強制的なものとなってしまいSLT 社員は眠らずに(真剣に?)聞いていました。
 このようなことを毎週やりました。効果のほどは不明でしたが、ISO 9001の認証を取得できることになったのも、このプロジェクトマネジメントの講義が少しは役に立ったのではと自画自賛していました。

 一方、人事統括部長は相変わらずシンガポールに避難しているので、筆者もその様子を見に何度かシンガポールに出かけました。元気で現地のN社社員とも仲良くやっているのを確認し安心しました。
 しかし、その余波は消えておらず、CAOのコンサルである警察及び軍のOBを使って犯人捜しは続けていました。しかし、その犯人は軍の脱走兵ということ以外は具体的なものは見つからない状態でした。
 筆者の方は相変わらず防弾チョッキをつけて毎日ルートを変えて会社への出勤・帰宅をやっていました。筆者が自宅にいないときなども女房に無言電話が何度もかかってきたりしていました。このように人事統括部長の事件以来、緊張の毎日が続いていました。しかし、このような緊張の中でもCAOとしては一番気にしていた労働組合との関係改善をはじめ人事制度の改革、社内環境の整備(空調、机・機材の再配置)、業務改善、セキュリティーの強化、社内規律の改善等々をやってきました。
 それでも、最後まで付きまとって頭から離れない「コントラクトキラーは契約を果たすまで手を休めない」の言葉が気になり、この事件の後遺症は残っています。

 そのような時に、またCEO が変わるという連絡が入りました。
 考えてみると新しく来たCEO は 2年たっての本国帰還という時期だということに気づかされました。
 何故か知らないがこのことはSLT 社員もすでに知っていて、筆者の所に「今度来るCEO はどのような人?」と毎日のようにいろいろな人が聞きに来ました。
 筆者自身もまだ誰かは知らないので何も答えようがなかったが、このようにCEO がコロコロ変わるのでCAO としては非常にやりにくい部分もありました。
 これで3人目のCEOと仕事をすることになります。
 いずれにしてもCEOに直接聞いてはっきりさせねばと彼の部屋に行きました。

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