グローバルフォーラム
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「グローバルPMへの窓」(第110回)
恒例のダカール初詣 時差は9時間+3時間

グローバルPMアナリスト  田中 弘 [プロフィール] :2月号

 毎年、海外初渡航は1月中旬と決めており、自分で初詣と呼んでいる。過去5年の初詣の行先はフランス、ウクライナ、ウクライナ、スエーデン、セネガルであったが、今年もまたセネガルが初詣の国となった。
 セネガルに行くには実に時間がかかる。今回は1月12日羽田空港を午前零時半発のエールフランス機で飛び立ち、パリで10時間乗継時間があり、セネガルの宿に着いたのが22時30分(時差は9時間)であるので、家を出て36時間かかったことになる。これでは、普通は飽きて、疲れて大変なことになるであろうが、エコノミー席で、セネガルでの授業の準備をしたり、フランス語の単語集のCD4枚を持参し、まさに一夜漬けのスピードラーニングをやったりで、時間が足りないくらいであった。
 ダカールに来たのは半年ぶりで、ちょっと間が空いたが、3PM大学院の研究科長(代行)として、順調に博士課程生と修士課程生の指導ができた。 授業に参加の博士課程生 1年前にダカールに来た時は、それまで連続した国際研修の疲れで、体調も良くなく、何事も噛み合わず苦労をしたが(帰りの深夜便のフライトでシャンパンを飲んだら回復した)、今回は着いた翌日から快適に過ごせた。学生は真面目ではあるが、自分で行う研究に迫力が今一で、常にプレッシャーをかけながらの指導となる。




チャド国野党党首の新入学生  当校の学生の出入りは結構多い。セネガルは豊かではないがセネガル人は平均的に頭が良い国民であるので、フランスを中心に海外に仕事場所を求める。知識階級である学生についても、半数近い政府役人や準公務員は別として、民間企業やNGO勤務者は、移動が激しく、いつ研究が進むのか定かではない(本来社会人博士課程生は通学制でないので世界中どこにいても研究はできるはずではあるが)。
 一方、当校はアフリカのフランス語国のプロジェクトマネジメント関係者に知られているので、他の国からも学生が入ってくる。前回訪問時には、中央アフリカの産油国ガボンの財務大臣の子息が入学しPPPインフラプロジェクトの成功要因の研究を始めたが、今回は、同じく中央アフリカ チャド共和国の最大野党党首である国会議員が入学してきた。陸軍大佐でもある。前回大統領選挙には野党連合を組んで出馬したそうだ。1990年代にフランスのエリート官僚養成校である国立行政学院(ENA)に学び、その後カリフォルニア州立大学行政学院と日本の政策大学院大学の専修コースへと学び続けた、まさにアフリカのエリートだ。中央アフリカ諸国は、石油・天然ガスを中心に豊富な天然資源がありながら、発展は大幅に遅れ、独裁政治、国や地域間の抗争、部族間紛争、腐敗が蔓延し、民度が低い。このような状況下で、彼の6年越しの研究テーマである中央アフリカ連盟(CEMAC)における‘政治リーダーシップ’及び‘ガバナンス’と‘持続発展可能性’の関連性につき、当学にて論文の纏めに来た。すでに中央アフリカ5カ国での研究サーベイは終えているので、これから理論モデルの洗練化とプロポジション(仮説)の検証に入る。一週間毎日アドバイスをしたが、知力は高いが政治家兼行政学者の卵であるので、つい理念が先行し、真理との境目が曖昧になるところが、今後の克服課題だ。

”プレジデント”ガディオ(中央)と  今回訪問では大学院のプロモーションのための要人訪問も再開した。
 高等教育・科学省 高等教育局長と、元外務大臣(在任8年)で米国オバマ大統領のアフリカ政策の個人アドバイザーであった、アフリカ戦略研究所を主宰するSガディオ博士を訪問し面談ができた。セネガルの知識人は“プレジデント”ガディオ”と呼んでいるが、2019年の大統領選の最有力候補と目されている。筆者がお招きを受けたのは2度目で、当学と汎アフリカPM協会(2PMA)が2018年にダカールで開催を希望しているアフリカで初めての国際PM大会につき、スポンサーとしての協力のお願いに上がった。筆者の次のダカール訪問を予定する4月に、ガディオ総裁が主宰するアフリカ戦略研究所(IPS)のフォーラムで筆者が講演を行う招待も受けた。

ここはアフリカであるが  「セネガルは西アフリカの国なので暑い」と思われている。そのとおりでもあり、それほどでもない、ともいえる。月によっては日中の40度近い灼熱が夜も続き、室内も35度くらいで寝苦しいことがあるが、大体の月は、夜には急に気温が下がる。今回は涼しいと思っていたら、途中から日中の気温は37度から39度に上がったものの、夕方6時になると22度くらいまで下降して、午前4時頃は一番寒く、18度くらいになる。当地での授業や指導は夜が多いので、日中の気温に合わせた服装で大学院に行くとひどい目に遭う。厳冬の日本からの旅でこれまた厳冬のパリを経由するので、ダウンコートにスノーブーツの服装でセネガルに来たが、未舗装で5センチ近いサラサラの土の路地が多いダカールではスノーブーツが予想通り役に立ち、また、夜、あまり寒くなるのでダウンジャケットも着てみたら疲れ予防になった。これは決して冗談ではない。

 セネガル自体にも、当地での教員活動もかなり慣れたが、一つだけ儘ならないのがフランス語である。2002年からフランスで(英語で)教えるようになって、サバイバル程度のフランス語は分かるようになったが、一向にそれ以上にならない。20代の頃スペイン語やインドネシア語は、現地国に住んだら2か月くらいで生活に困らないレベルになったが、フランス語は、学習カーブが緩くて、一進一退でなかなかモノにならない。セネガルの筆頭教授を2013年初めから引き受けてからは、かなりその気になって覚えようとはしてきたが、結局セネガルに居る10日から2週間だけは日々耳が慣れるが、話す方は知っているはずの単語が出てこないし、舌が廻らない。博士課程では公式には英語での指導となっているが、学生が発表をやる時は必ずフランス語である(しかも当方には初見である)。発表のあと教員としてフィードバックを行わなければならないので高度の集中が必要となる。セネガルの知識人の伝統で、フランス植民地時代に、フランス人から、植民地統治の代理人として失敗をしないように厳しく教えられた経緯があり、セネガル人は、英語が分かっていても、決して英語で発表をしない。その事が半分で、あと半分は、田中はフランス語を聞くほうは大丈夫と信じているフシがある。それは、学生へのメール・メッセージを英語・フランス語併記で書き、また、修士課程生向けにフランス語の講義スライドを持っていることから、らしい。しかし、英語からフランス語へのGoogle翻訳を使うと90%の精度のフランス語が即座に出てくるだけで、本人が良く分かっているわけではないのに、彼らには分かってない。しかし、フランス語との闘いは70歳代になって良い楽しみになっている。往路の羽田・パリ間のCAさんに、フランス語を話せるのですか、と感心されたことが弾みとなり、今回はいつもより少しだけ舌が廻った。と思ったらパリに着いたら、やはり早口の言葉はわからない。

 セネガルではウィークリーマンションを利用することが多いが、今回は副学長の奥さんのお父さんで元大学教授のラザク氏の家にお世話になった。いわば民宿である。セネガルの家庭では家族や使用人が多いので、昼食と夕食は大皿料理を皆で囲んで食べるが、大奥さんが料理上手で、種々の料理をいただいた。フランスの影響でソースにはこだわりがある。
 2階のベランダから街を見ていると実に面白い。車に混じってロバの荷車が闊歩している。学校が近所にあるので、学童が色とりどりの服を着て大騒ぎしながら行き来する。すらっとした女性が頭に買った物を乗せながらバランスよく歩いている。毎日部屋を掃除してくれる家事アシスタントの若い女性は、アフリカ人には殆どないが、よく笑い愛想がよいが早口で言っていることを理解するのが難しい。大学進学のための準備校(バカロレア校)の学生だそうだ。セネガル人の生活は、起床が9時頃で、始業が実質10時半、昼食が午後3時、夕食が9時で、路上では人が午前1時頃まで話をしている。つまり生活サイクルが他の大陸と3時間遅れということで、それが今回タイトルの+3時間の所以である。

民宿先 6LDK ラザック夫妻・副学長奥様(右)
民宿先 6LDK ラザック夫妻・副学長奥様(右)

 23日朝6時にパリシャルル・ドゴール空港に戻ってきたが、気温はマイナス1度であり、ダカールの午後3時の気温との落差は39度である。  ♥♥♥


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