PMプロの知恵コーナー
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サムライPM (031)
武道と士道の系譜 (その27)

シンクリエイト 岩下 幸功 [プロフィール] :12月号

2.武道としての武士道 (024)
⑤ 宮本武蔵 『五輪書』 (1645) (その 19)
⑤ -4. 風之巻 : (その 2)
 今号では、下記の項目について述べる。
04 : 他流批判・短い太刀 《他流にミじかき太刀を用る事》
05 : 他流批判・太刀数多き事 《他流に太刀数多き事》
06 : 他流批判・太刀の搆え 《他流に太刀の搆を用る事》

04 : 他流批判・短い太刀 《他流にミじかき太刀を用る事》
   短い太刀だけで勝とうとするのは正しい道ではない。昔から「太刀と刀」と云って、長いものと短いものということを区別している。一般に力の強いものは、大きな太刀でも軽々と振れるので、無理に太刀の短いのを使う必要はない。長い太刀の利点を活用して、鑓(やり)や長刀を持つからである。短い太刀で相手の振る太刀の隙間を狙って、切ろう、飛び込もう、つかまえよう、などと思う気持は偏っていて《かたつきて》よくない。敵の隙間を狙ってばかりいると、すべてが後手になり、もつれ合うようになる。短い太刀を使うのに習熟した者が、大勢の敵に対して、切り払おう、跳ぼう、廻ろう、としてもすべてが受け太刀となり、敵に振り回され、確実なやり方《道》ではない。我が流派では嫌うところである。我が身を強く真っ直ぐにして、敵を追廻し、飛びのかせ、うろたえさせるように仕懸けて、確実に勝つことが肝要《専》である。合戦《大分の兵法》においても、同じ道理《利》である。兵数《人数かさ》で圧倒して、敵に猛烈な攻撃を仕掛け、即座に攻め滅ぼす気持、それが兵法の肝心である。世間の人が兵法を習うのにいつも、受けたり、かわしたり、すり抜けたり、下に潜ったり、することばかりが習慣になっていると、心がそのやり方《道》に引きずられて、人にふり廻されるようになってしまう。兵法の道とは、真っ直ぐ正しいものであるから、正しい戦い方《正利》をもって、敵を追い廻し、従属させる気持、それが肝要である。よくよく吟味あるべし。
【解説】
 「太刀と刀」といって、太刀は長い方、刀は短い方ということである。短い太刀を得意とする戦法では、間合い近く入身して、相手の振る太刀の隙をとらえて勝とうとする。そうやって相手の隙を捉えて勝とうと思う気持は、すべてが「後手」「受太刀」になり、本質的に消極的で、人にふり廻される戦法である。平生の行動や人間関係においても、かわしたり、すり抜けたり、潜ったりするような受身な行動パターンになっていると、心がそのやり方に引きずられて、人にふり廻されるようになる。正面から対決しない戦法を身につけていると、戦場では人に振り回されてしまう。兵法の道とは、正しい真っ当な戦い方によって、人を追い廻し、人を従えることが肝要である。我が身を強く真っ直ぐにして、「先」を取り、確実に勝つという戦法をとれという教えである。

05 : 他流批判・太刀数多き事 《他流に太刀数多き事》
   太刀数を多くして人に伝える流派は、兵法を売物にして、太刀の使い方を多く知っていることを、初心者に感心させるためである。これは兵法において嫌う心である。その理由は、人を斬る方法がいろいろあると思うところに迷いがある。世の中において、人を切ることには、特別変った方法《道》はない。兵法を知る者も知らない者も、女子供であっても、打ち、叩き、切るということに、多くのやり方があるわけはない。場所により事情によって、上や脇などが窮屈なところでは、太刀の持ち方には「五方」といって、五種類があるだけである。それ以外に、数を増やして、手をねじり、身をひねって、飛んだり、身をかわしたり、さまざまのことをして人を切ることは、正しい兵法の道ではない。そんなことで人を斬れるものではない。まったく役に立たないことである。我が兵法においては、身も心も真っ直ぐにして、敵を歪(ひず)ませ、ゆがませて、敵の心のねじれまがったところをついて勝つこと、それが肝心である。よくよく吟味あるべし。
【解説】
 太刀数を競って、それで有利な剣法だと錯覚させて、剣術を商売にする者がある。兵法の商品化のなかで、多数品種取り揃えるようになってしまったのである。敵を切る方法に数多くあるはずがない。場所により事情にしたがって、「五方の搆」があるのみである。

06 : 他流批判・太刀の搆え 《他流に太刀の搆を用る事》
   太刀の搆えを第一《専》にすることは、間違ったことである《ひがごと也》。搆えるというのは、敵がいない場合のことである。定まった型をつくることは、勝負の道にはありえない。勝負の道とは、相手にとって具合の悪いように仕組むことである。どんなことでも、搆えということは、確固とした態勢をとるということであり、相手の先手を待つということである。城を搆えたり、陣を搆えたりすることは、相手に攻撃を仕懸けられても、少しも動かぬということをあらわしている。これに反して、兵法勝負の道においては、何事も先手と心懸けることが重要である。相手の搆えを動揺させ、敵の予期しないことを仕懸け、敵をうろたえさせ、むかつかせ、おびやかし、敵が混乱して拍子が狂ったところに乗じて勝つことであるから、搆えるという後手の心を嫌うのである。我が兵法の道では、《有搆無搆(うこうむこう)》といって、搆えあって搆えなしという。合戦《大分の兵法》の場合にも、敵の人数の多い少ないを認識し、戦場の場所に応じて、我が人数の態勢《位》を知り、その長所を生かして陣立てをし、戦闘を開始することが合戦の専である。相手に先を仕懸けられたときと、こちらが先を仕懸ける時とでは、その利・不利は倍も違う。太刀をよく搆え、敵の太刀をよく受け、よく張ろうとするのは、本来攻撃の道具である鑓長刀を、防護柵にしてしまうようなものだ。よくよく吟味あるべし。
【解説】
 搆えるとは、城搆えや陣搆えのように、相手に攻撃を仕掛けられても、動かぬということである。それに対し、兵法勝負の道は、相手の構えを動かすことである。敵の搆えを動揺させ、混乱させ、その混乱するところに乗じて勝つことである。相手に先を仕懸けられた時と、こちらが先を仕懸ける時とでは、その利・不利は倍も違う。従って、搆えるという「後手」の心を嫌うのである。

【余話】  『孟子』 (BC3C) と武士道
 孔子に次いで孟子が武士道に大きな影響を与えた。孟子は孔子に次いで重要な人物であり、儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。性善説を主張し、仁義による王道政治を説いた。
 (孟子の思想)
性善説
 人間は生まれながらにして善であるという。「人の性の善なるは、猶(なお)水の下(ひく)きに就くがごとし」「大人(大徳の人)とは、其の赤子の心を失わざる者なり」と述べ、人の性は善であり、聖人も小人もその性は一様であると主張した。
孟子と荀子
 孟子の性善説に対して、荀子は性悪説を唱えた。両者とも学問することを通じて人間がよき徳を身に付けると説く点では同じである。「人間の持つ可能性への信頼」が根底にある。違いは、孟子が個人の主体的な努力によって、社会全体を統治できるという楽観的な「人間中心主義」に対して、荀子は君主が社会に制度を制定して、型を作らなければ人間はよくならないという「社会システム重視」の考えに立ったところにある。
四端
 「四端」とは「四つの端緒」という意味で、「惻隠(そくいん)」(他者を見ていたたまれなく思う心)・「羞悪(しゅうお)」(不正や悪を憎む心)・「辞譲(じじょう)」(譲ってへりくだる心)・「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)と定義される。この四端を学んで努力することで、仁・義・礼・智という人間の4つの徳に到達すると言う。
仁義
 孔子は仁を説いたが、孟子はこれを発展させて仁義を説いた。仁とは「忠恕」(真心と思いやり)であり、義とは「宜(むべ)なり(適切である)」ことをいう。
王覇
 君主を「王者」と「覇者」に、その政道を「王道」と「覇道」とした。覇者とは武力によって仮の仁政を行う者であり、王者とは徳によって真の仁政を行う者である。
民本
 領土や軍事力の拡大ではなく、人民の心を得ることによって天下を取ればよいと説いた。あくまで人民あっての君主であり、君主あっての人民ではないという。人民を重視する姿勢は孟子に一貫している。絶対の権力者である君主の地位を、社会の一機能に位置付けた。彼の理論は支配層にとっては危険とされ排除された。
天命  天下を与えられるのは天だけであり、天命に逆らって天下を治めることはできない。天命は、民の意思を通して示される。民が天子と認め、その治世に満足するかどうかによって天命は判断されるとする。
 (孟子の言葉)
人間は誰でも他人の不幸を見過ごせない素晴らしい心を持っている。
道は近くにかならずある。遠くを探し回る必要はない。
至誠を尽くせばこの世に心が動かない者などいない。
方法を誤っては目的のものを得ることはできない。
自らがねじれている人間が他人をまっすぐにできた事などない。
目標を持てば気力は自然と湧いてくるものである。
人を愛しても親しまれないときは仁愛の心が足りないからである。
真の「士」たるものは簡単に志を捨てるものではない。
やめてはならない時にやめてしまう者は何を行っても中途半端になる。
自分で反省してみて間違っていると思うなら、相手がどんな身分であっても学ばなくてはいけない。
自分で反省してみて正しいと思うなら、相手が何千万人であってもおそれず進んでいくがよい。
 孟子の力のこもった、人民主権的な言葉は、既存の社会秩序にとっては危険とされたが、心ある武士の心の中に脈々と受け継がれていった。

(参考文献)
「五輪書」 宮本武蔵 (著)、鎌田茂雄 (訳)、講談社学術文庫、2006年
(参照サイト)
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