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エッセンシャル・セミナー : イノベーション

清水 基夫 [プロフィール] :12月号

第 8 回 : イノベーション
 
依田研究室
「あら、いらっしゃい。」橘が王と一緒に研究室に入っていくと、村上さんが読んでいた本を閉じて二人を見た。本の題名は「眼の誕生」。表紙の猫の大きな目の写真が少し異様だ。
「今日はイノベーションのお話でしょ。面白いですよ、この本。現代のイノベーションを考えるヒントになりますよ。」怪訝顔の二人に、村上さんがこんなことを説明してくれた。

地質時代でいうカンブリア紀の初期、およそ5億4200万年前から約500万年間という地質学的に言えば極めて短い期間に、それまではごく少数しかなかった生物化石の種類が爆発的に増え、現在の殆ど全ての生物の祖先が現れた。これが「カンブリア爆発」だ。この特異現象は、三葉虫など「眼」を持った効率のよい捕食生物の発生によるものだ。こうした捕食者に対抗するには、固い組織を獲得すれば生き残りやすい。甲羅など硬い外皮は防御に適しているし、硬い骨格があれば素早い移動が可能で、攻撃にも防御にも有効だ。[1]  防御手段が高度化すれば、捕食者側も生き残るために、より強力に変身する。
かくして、高性能の眼の出現で、のんびりのどかな環境が、突然食うか食われるかの環境に変わった。生き残りをかけた様々な進化の加速スパイラルの結果が、カンブリア爆発だ。
さて、21世紀に入って、事業経営における「イノベーション」のもつ意味が極めて重要になった。それまで、多くの製造業やサービス産業では、イノベーションとは商品やプロセスの一部を革新あるいは強化することで、同業者との競争に打ち勝つことが事業戦略の中心にあった。そこでは、イノベーションとは「技術革新」の性格が強いものであった。
しかし、新自由主義経済、グローバル化、交通・輸送や通信・ネットワーク技術の発達などで、それまであった国ごとの文化・法規制・商習慣などの障壁が消え去り、テクノロジーで武装した世界的な競争者つまり捕食者が現れた。その変化の根源は、「デジタル化」という「眼や骨格の獲得」に相当する新たな能力と言っていいだろう。自らもそうした能力を持つ組織に変身して市場を守るのか、あるいは自分自身が強力な捕食者に変身するのかという時代だ。
もちろん、これは一つのアナロジーだが、現代のイノベーションとは、単なる技術革新ではなく、事業体が自らをどのように変身させるのかという次元の戦略にかかわっている。
カンブリア爆発の類推から想像を広げれば、「デジタル化」が「眼の誕生」に相当するなら、市場競争の激化は構造的で不可避なものであり、ますます加速するだろう。個々の企業にとっては、非常に厳しい生存競争の時代だが、その結果として爆発的な種の多様化つまり想像もつかない程の豊かな産業のエコシステムが発達する可能性もある。新時代のイノベーションはそのような意味を持つものだ。もちろん、当面する市場での競争優位を目的としたイノベーションも重要性は変わらないが。


ライフサイクル・イノベーション
依田准教授がやってきて、資料を村上さんに手渡すと、「はい。」といって、村上さんは自分の机に戻って仕事を始めた。依田さんは、本をチラッと見ると笑いながら言った。
依田 幅広い勉強というのは大事だね。古生物学がマネジメントのヒントになるのだから。
今日はイノベーションの話だったね。まずは基本的なところからだが、宿題のジェフェリー・ムーアの本[2]で、重要なことは何か議論してきたかな?
最初に出てくるのがイノベーションの効果の図(6頁)ですね。目的、つまり差別化、中立化、生産性向上という成果に対応して、イノベーションの内容を変える必要があること、次に、イノベーションによる成果獲得は確実ではない、つまり浪費に終ることも多いことです。
去年の部の特別開発プロジェクトも、想定した収益性は見込めないらしいですね。競争があるからイノベーションの活動では、結果として「浪費」が多くなることは確かで、その浪費の割合をどう減らすか、しっかり考えないといけないですね。
依田 そもそも厳密にいえば、プロジェクト自体が失敗が多い。イノベーションの活動はほとんどが未知の領域を目指すプロジェクトだから、もっと大変だ。
この本の中心テーマは、市場あるいは商品にはライフサイクルがあり、そのライフサイクルに応じたイノベーションが重要という主張です。そのライフサイクルとは、大きく分けてテクノロジー導入、成長市場、成熟市場、衰退市場という4段階で、テクノロジー導入段階はさらに細かく分かれています。(18頁)
このような考え方をすると、IT系の産業は市場変化が激しいですね。自動車であれば、成熟市場の期間が100年近く続いているのに、携帯電話は成熟したと思ったら、すぐにスマートフォンになってしまった。スマホは、携帯電話の機能だけでなく、ネット端末、PC、ゲーム機の機能も含んでいて、アプリを入れればカーナビ、お財布、定期券にも使える。明らかに違う次元の商品やサービスです。
我々にとって大事なのは、ジェフェリー・ムーアの言う「キャズム」の問題ですね。テクノロジー導入段階の初期に新技術が市場に受け入れられるためには、越えなければならない大きなキャズムつまり溝があるということです。
依田 「死の谷」とか「ダーウィンの海」に似た概念だ。ただ、これらはどちらかというと供給側の視点だが、キャズムは購入側の視点を重視した概念といえるだろう。
世の中には、新技術をそれが新らしいからというだけで買ってくれる人がいる。しかし、多くの現実派は話題性や評判だけでは買わない。新技術が安心して使え投資に見合う価値があるという実績が必要だ。一部の新技術信奉者だけではなく、圧倒的多数の現実主義者が買ってくれて初めて新技術は市場で主流となるが、そこ達するには越えなければならない大きなキャズム(溝)がある。キャズム越えの主要な方法は、新技術が有効で使ってくれる特定のニッチ市場を探し出して、そこでの信頼性やコストパーフォーマンスなどの実績をもとに、適応市場を拡大していくことだ。
依田 電気自動車(EV)の場合を考えてみよう。将来性はあるのだが、航続距離が短い、充電設備が普及していない、値段が高いという理由でなかなか普及が進まない典型的キャズムにあった。これをどうするか?
日産自動車などのアプローチは、EVを小型で安価にして、市内の通勤や配達業務などの短距離に特化したニッチ市場の確立を目指すものでした。まあ、正攻法だが、ゴーンさんの狙いほどに成功したとは言えないですね。これに対して、テスラモーターは、電池を沢山積み、高性能で航続距離は長いが値段も10万ドル以上の高価なスポーツカーから始めて実績を積み、最近は3.5万ドルのセダンの量産を始めています。ニッチ市場をどうとらえるかで、イノベーションのアプローチも成果も大きく変わってしまう例だと思います。
依田 トヨタやGMは出遅れたのかな?
トヨタはハイブリッド車という中間的な商品で強い事情もありますが、最大手はしっかり技術的な蓄積をしておいて、いざ拡大という時点で大量投入でマーケットを抑えることを狙う戦略ではないでしょうか。

イノベーションのジレンマ [3]
この本は副題に「技術革新が巨大企業を滅ぼすとき」とあるように、技術的進歩が急速に進む市場では、技術的に優れた製品で市場を支配している大企業が、安価だが性能などでとるに足らないと思われた技術を持つ弱小企業に圧倒されてしまうことがある。先行企業が技術力が不足だったのでも製品開発を怠ったのでもない。合理的な経営判断に基づく必然的な帰結として起こる矛盾で、これがイノベーションのジレンマだ。
クリステンセンの本では、ハードディスク・ドライブや小型コンピュータの例が詳しく議論されている。歴史的に見れば、米国の大企業ではなく日本のベンチャー企業であった東京通信工業(現在のSony)がトランジスタラジオで成功したのも、巨大なIBMがミニコンやPCで出遅れメインフレーム主体のハード事業からソリューション事業へと事業概念の大転換を図った背景にも、こうした事情があったと考えられる。日本でもハードディスク・ドライブでは火傷をした会社もあるし、成功したNECのPC事業の場合も、内情を見れば、専門でない半導体事業部門が安いPC8000で事業化に成功したのを見て、コンピュータ部門が急遽追随して成功したのが実態だが、その成功もPCのコモディティ化とグローバル化の波の中に消え去った。
デジタル写真技術の開発を先導しながら、フィルム事業にこだわって倒産したKodakの悲劇はイノベーションのジレンマの典型だ。これに対し、富士フィルムは割り切ってデジタルカメラの開発に先行して成功をおさめたが、スマートフォンと画像処理ソフトの普及で、デジタルカメラ事業自体の将来性は厳しい。どんな事業も絶え間ない技術イノベーションの脅威にさらされている。
技術的進歩には、それまでの技術に連続的なものも全く異質な非連続的なものもあるが、いずれであっても通常は業界の主流製品の性能の向上を目的としている。これを持続的イノベーションという。これに対し、性能は逆に低下しても低価格や使い勝手など別の特長を持つイノベーションが現れ、主流製品ではなくニッチな製品への応用を足掛かりに性能を向上させ、結果として主流製品を凌駕する形で業界構造を一変させるケースがある。これが破壊的イノベーションだ。


破壊的イノベーション(Disruptive Innovation)と対応
依田 技術革新の続く業界で、メインプレーヤーが交代する構造的な変化が起きやすい理由は判ったと思う。規模の経済は極めて重要だが、世の中はそればかりではないところが面白い。小さい会社、弱小事業部門にもチャンスがあるということだ。自動車などの大規模産業でも、電動化とか自動運転化など、今のような技術の変革期には、構造的変化の可能性がある。
持続的イノベーションは判りやすいから、今日は破壊的イノベーションについて、戦略として何を考えるのか聞こうか。
一つはイノベーションを自社で行うのか、他人のアイデアに乗るのかという視点ですね。つまり、自社で技術開発を主導するのか、利用・応用に主眼を置くのかです。古典的な例ですが、PCのウィンドウ型のGUIは、元来はゼロックスが開発したけれども事業化には成功しなかった。それをヒントにスティーブ・ジョブズが商品化に成功し、さらにマイクロソフトがそのアイデアを頂いてWindowsで大規模な成功を収めたといわれます。
依田 シーズ主導かニーズ主導かという話だね。
「ライフサイクル・イノベーション」に沿っていえば、自分で開発した新技術を応用する新市場を見つけてキャズムを超えるタイプ、言うなれば”技術プッシュ型”の戦略と、誰かが開発した新技術を、狙った市場に合わせて仕立て直して、誰よりも早くその市場を獲得する”応用志向型あるいは市場プル型”、つまりキャズムの対岸にいる現実主義者の立場からの戦略があります。
アップルの大成功への転換点はiPodですが、ウォークマンで大規模な市場を持っていたSonyは、半導体メモリーによる携帯音楽プレーヤーの市場に積極的ではなかった。これはイノベーションのジレンマですが、半導体メモリーの使い勝手が良くなかったためです。スティーブ・ジョブズがやったことは、ユーザーから見て、欲しい楽曲を選んで買うこと、編集すること、良い音色で再生することのすべてを簡単にやれるというビジネス・システムのイノベーションです。ハードを売ろうとしたSonyに対して、ハードと楽曲を使いやすく組み合わせた顧客視点の市場の立場から半導体メモリー技術を利用したのがアップルです。
Sonyの立場から見れば、結果的に半導体メモリーは破壊的技術です。しかし、技術はすべて出そろっていたし、ムーアの法則[4]を考えれば、半導体メモリーはどんどん安くなるし、ネット環境もどんどん速くなるのは判り切っていたのに、ウォークマンというハードの視点では新しい市場は見えなかったのですね。スティーブ・ジョブズには、iTunesのようなネット市場が見えていたのですが。
イノベーションのジレンマでは、破壊的技術は性能的には劣るが著しく安価なものからスタートする例が多いけれども、iPodのケースではウォークマンはすでにかなり安い商品だったのだから、少し違うのではないですか。
一般化すると、何らかの不足や制約を持つ後発の新技術があって、それが新たなニッチ市場で力をつけて、先行技術に置き換わるということでしょう。さっきのテスラモータースの例も普通とは逆方向だが類似のケースですね。
依田 今日では、破壊的イノベーションとは、「新たな市場とバリューネットワークを創出することで既存の市場やバリューネットワークを破壊するイノベーション」で、技術、製品だけでなくビジネスモデルなどの仕組みなどの多様な分野に関するものという、かなり広い意味で使われている。[5]
最近ではウーバーとかエアB&Bなんかが良く例として言われていますね。
依田 自社の戦略として、技術プッシュと市場プルを言うならどちらが重要なのかな?
うちの様にリソースが限られるときは、技術プッシュ型ではなく市場プル型の視点が重要でしょう。最初の新技術がなければ話にならないが、実際の市場では使えてナンボです。もちろん、知的所有権への対応は非常に重要ですが。
技術プッシュでも、市場のことはある程度は考えるハズですが、市場プルの方は、市場と技術の関係をさらに具体的に把握しているハズで、より確率は高いでしょう。ただ、他社も同じことを考えるから、スピードが特に重要ですね。
市場プルでは、誰かが開発した技術を応用して顧客にとって価値ある商品を作る。技術より商品のイノベーションが主眼です。普通は価値ある商品の開発にはその新技術だけでなく、その他の新技術や既存技術を適切に組み合わせる必要があるから、そちらにもかなりのイノベーション要素があります。
新旧のその他の技術というのを持っていれば強いですよね。
イノベーションのジレンマの本では、商品レベルのイノベーションの話が中心だけど、プロセスの次元も大事です。古くはトヨタの看板方式が有名ですが、今なら数値シミュレーション設計や3Dプリント方式などが代表かな。
システム開発事業では作業自体が売り物だから、例えばアジャイルのようなものも戦略的に重要です。プロセスのイノベーションも古くからある話だけど、それは商品が普及期・成熟期なってからが一般的です。これからはプロセスのイノベーションにより、市場のイノベーションを実現することが重要です。その意味でオープン・イノベーションなどのイノベーションのプロセスは重視が必要です。
ドローンによるサービスとか、ネットやゲーム関係からその手のものが多く出てきそうですね。

飛躍型企業(Exponential Organization)
カンブリア爆発における「眼の獲得」に相当するものが「デジタル化」だという現代の大競争環境のアナロジーでいえば、効果的なデジタル技術を持たないものは、淘汰されるか、光の届かない岩陰で細々と生きるしかない。
ある種の事業は、新たなビジネスモデルで新たな市場を創り出し、驚異的なスピードで成長する。指数関数的な速度で成長するという意味で、飛躍型企業(Exponential Organization)と呼ぶ研究者もいる。[6] Google、YouTube、Facebook、Lineなどが代表例だ。さっき出てきたウーバーとかAir B&Bもそうだね。その成長はリニアではなく指数的なもので、年率数百%という成長率も珍しくない。たとえばFacebookの場合、2006年9月に一般に公開後、6年後の2012年には世界でユーザー数が10億人を超えるという成長を遂げた。
こうしたものは二面市場戦略を活用したものが多い。[7] ただし、これは別に新しい手法ではない。民間放送会社が多数の視聴者という第一の顧客群を無償で集め、それによってCMスポンサーという第二の顧客群を集めることで事業を行うことがわかりやすい例だ。今日では、インタネットなどの普及している外部資源にフリーライドして、多数の顧客を集める。インタネットでは顧客の属性を把握できることもあって、有利な条件で多数の広告主という第二の顧客群を収益対象として引き付けることができる。従って、これらはユーザーをどれだけ集められるかという、ユーザー開拓のイノベーションだ。Amazonに代表されるインタネット通販は二面市場型ではないが、同様にインタネットという外部資源を有効利用している。
これに対して、同じくデジタル技術やインタネットを利用するものでも、クラウド、ビッグデータ、人工知能(AI)、IoTなど、また ハード系の3Dプリンティング、ドローンなどのイノベーションは、技術イノベーションの範疇のもので、これら技術にとっては新たな応用市場を作り上げることが必要だ。


依田 現代のイノベーションは、いうまでもなく以前から言われてきた高度情報化が中核にある。つまり、デジタル化やネットワークなどIT技術が中核ということだ。もちろんエネルギーや自動車・航空宇宙・材料・医療やサービス産業などの産業分野で優れたイノベーションはあるが、それらもデジタル技術・ネットワーク技術などがなければ実現不可能だ。
戦略を考えるとき、こうしたIT技術の特徴はどのようなものだろうか。
現代のイノベーションは、その進行速度が加速度的に速くなっていることが一番重要ではないかな。それにはデジタル化・情報化が、深くかかわっています。
IT技術の進歩の速さの主な駆動力だったムーアの法則も、近い将来さすがに飽和するといわれるが、それでもイノベーションの速さは加速しているようです。
想像もしなかった技術が、実用化されていたり実用化が近いですね。例えば、電気自動車、3Dプリンタ、ドローンなどは珍しくなくなったし、運転手のいないタクシー、レンズのないカメラとか後からピントを合わせられるカメラ、バーチャルリアリティ(VR)技術などが、すぐにも普及しそうです。VRが使えるものになると、今の大型液晶テレビは消える運命かもしれません。
RFIDなどは目につかないところであっという間に普及したし、携帯電話だって、もとはマンガの世界の話が、今は小学生にも当たり前です。iPadなんて3歳の子供まで使っている。ドラエモンは22世紀から来たことになっているが、「タケコプター」はドローンだし、「どこでもドア」は部分的にはVRで実現できる。
依田 AIの発展により、ロボットの能力が人間の能力を超えて爆発的に進化する特異点(Singularity)が2020年代に来るという人もいるね。2045年という言い方が一般的なようだが。[8] まあ、この議論はAIの深層学習技術の影響を少し過大評価している気がするが、いずれにしても、イノベーションによる社会の変化は加速度的だ。
でも、昨今の目覚ましいイノベーションといっても、どれもそれ単独で実現した訳ではない。背後には、半導体技術、ネットワークのハードを構成する光ファイバーやレーザーの技術、デジタル・ネットワークの理論やコンピュータサイエンス、二次電池技術その他、非常に多くの要素技術が複合し、同時に教育研究や経営技術なども含めた産業社会全体が進化した結果ですよね。
一つの便益が発明されると、それに触発されて様々な技術の発展と相互のインタラクションで、さらに別のニーズや技術を誘発し、それらが重なり合って革命的な社会的・産業的な変化に発展する。「世界を創った6つの革命の物語」ですね。[9]
依田 現在は過去の様々なイノベーションの複雑な積み重ねの結果だし、未来は現在の技術や知識と将来の様々な発明やアイデアとの複雑な結合から創造される。話が非常に複雑だ。例えば、今日の自動車に関するイノベーションを考えると、話はEVとかFCVというパワートレインやその制御ソフトウェア、エコやCO2排出量という環境技術、製品開発におけるシミュレーションや3Dプリンタなどの設計・開発手法、電池などの部品や素材、自動運転ならその自動操縦の技術だけではなく、法規、インフラ、ネットセキュリティ、保険制度などの動向まで視野に入れる必要がある。もちろん顧客の嗜好の変化も重要だ。目の前の技術も大事だが、それだけではなく、常に複雑な背景を意識する必要がある。

イノベーションの資源
依田 ここでは、破壊的イノベーションや飛躍事業型のイノベーションに共通する基本的な課題に絞って議論しよう。
一番難しいのは、成功につながるアイデアであり、それを考えだせる人材だが、それは後から議論するとして、共通する課題は大きな不確実性だろう。成功すれば非常に効果が大きいのだが、経験がない新しいことなので、将来についての予測がつかないこと、技術的に複雑だったり、幅広い新技術の組み合わせが必要なこと、そのために巨額の投資や長い開発期間を要することなどがある。
そういう状況だから、社内の意思決定に時間がかかる、また社内の主流部門は、大きな変化や予測が難しい不確実性を嫌う。従って、こうしたイノベーションへの内部的な抵抗が強いことも現実的な問題です。
依田 要するに問題は、未知であることのリスク自体とリスクテイクに対する組織内の抵抗だ。一般的には、リスクをとる企業の方が、利益率は高い傾向がある。[10]こうした問題への対処はどうすればいいのだろうか?
まず、イノベーションは小さい組織でやるのが良いと言われます。小さい組織なら、意思決定が速く、無駄な手続きがなく素早く行動できる。ただし、組織が小さいと、一般的には投資の許容額も人材などの保有資源も小さいという制約があります。
依田 この種のイノベーションは、市場の反応も走りつつ確かめる必要があり、一般に成功確率が低い。そのため、小組織で短期間に一定レベルの開発を行い、投資金額が巨額になる前に、市場の反応を確かめて、進路の修正を適宜行う。いわゆる創発型の戦略だ。巨額投資をした後では、方向転換や撤退は困難になり、失敗の深みにはまってしまう。
ただし、創発型とは行き当たりばったりではない。長期的な方針は必須だが、最初から大規模な投資を行おうとすれば、不確実性に対して組織内での反対も増え、また中核メンバーが管理に忙殺されるという事態も発生する。大企業の場合、何らかの形で組織を切り離した方が良いだろう。もちろん、プログラムに対する組織上層部の積極的な支持が前提だが。
依田 外部資源を効果的に使用することも重要だ。自社の活動は目指す事業のコアの部分に集中し、それ以外はできるだけ外部資源を活用する。資源は保有することではなく、活用することが大事だ。特に情報が競争の中核になる現代では、情報資源は保有することより、アクセスすることに意味がある。
外部資源としては、インタネットやクラウドサービスは当然として、技術導入や技術的製品やサービスの購入、EMSなど受託生産会社の利用、他社や大学等とのオープン・イノベーションやエコシステムの構築による関連技術の開発分担、技術人材・経営人材の採用やM&Aによる技術集団の獲得などがあります。自社の戦略の中で、どの手法をどう組み合わせるかが大事ですね。整備が困難な大型コンピュータや試験設備などは、公的機関の設備を利用する方法もあります。

人的資源については、コンサルタント契約や期限付きのオンデマンド型のプロフェッショナル人材活用がある。特に情報系の分野では、専門知識の幅が広いこと、知識の変化が速いこと、能力によりアウトプットに大きな差が出ることなどから、その重要性が増している。企業にとっては経験ある専門家を何人でも必要な期間だけ雇えるので、短期に強い戦略的行動が可能であるメリットがある。専門家の側も、雇用の不安定はあるにしても、様々な企業で次々と経験を蓄積するで、能力をより高く磨けるメリットがある。米国などでは珍しくない形態だ。日本でも技術派遣社員の形態が普及しているが、社会的認知や処遇に問題もあり、高度専門人材の活用という意味では、必ずしも十分ではないと思われる。

現代のイノベーションではデジタル化の要素が必須だが、競争戦略としてデジタル化のどの分野で強みを伸ばすのについて明確な方針が重要ですね。逆にデジタル化以外の領域で自社の強み伸ばす戦略もあると思います。そうした戦略立案について、コンサルタントは活用しても意思決定を外部人材に頼るわけにはいかない。
依田 そこで一番難しいのは、成功につながるアイデアをどう生み出すのかであり、それを誰が担当するのかだ。これは市場イノベーション、つまりビジネスモデルや商品のイノベーションの場合も、プロセスのイノベーションの場合も同様だ。
一般的には、顧客視点のビジョナリーといわれるようなリーダーが成功するといわれます。
依田 確かに。だが、ビジョナリーだから成功するのか、成功した結果、世間がそう呼ぶのか、どちらなのだろう。いずれにしても大きな目標を指針に持って、ぶれない強い意志を持つリーダーが重要だ。イスマイル等はこの大きな目標を「野心的な変革目標(MTP:Massive transformative Purpose)」と名付けて説明しているね。[11]
創発型のイノベーションで、失敗の中から新たな方向性を見出していくうえでも、リーダーは大きな変革目標を持っている必要があります。
ビッグデータなどデジタル情報化が進むから、具体的に予測できるものは自動化が可能で間違いが少ないだろう。しかし、予測できない分野へは、重点的な人材の投資が重要だ。[12] 中でも最重要な人材が、このぶれないリーダーでしょう。
アメリカなどの場合は、CEOレベルを含めて、優れた才能を外部から取り込むことが普通だけれど、日本ではそれは例外的ですね。
依田 判り易いのは、外国人のトップ経営者の場合だ。日産のゴーンさんのような成功例もあるが、少し前のオリンパスや日本板硝子のケース、最近ではソフトバンクの例など、必ずしもうまくいかないケースもある。これまでの日本の場合、トップ経営者を国内外の外部から招くのは、経営立て直しの場面が多い。今後はますますイノベーションのスピードが求められるから、攻めの場面でも様々なレベルで外部から能力あるタレントの取り込みが必須になるだろうね。
明治維新の頃なら、べらぼうな給料のお雇い外国人に来てもらった歴史の成功例があるのだけれど。
私にも、べらぼうな給料をくれれば、もっと働くかもしれませんがね。<ニヤニヤしながら言った。>
王君は、もはや外部人材ではなく「ウチの人」なの。みんなと平等に安月給の運命だね。
依田 そこが日本的だね。能力に支払うというより、社員という地位に支払うという感じなのかな。雇用の安定で社会も安定するが、これからの革命的変化の時代に、外国企業との競争には不利な要素だろうね。
まあ、人材の流動性は、中小企業では結構多いし、大企業でも海外事業が増えるから否応なく外部人材の取り込みは増えています。まだ遅いのは事実ですが。
一番古くて、しかも海外との競争のない相撲の世界が、日本で一番外国人を活用しているというのは面白い皮肉ですね。
彼らはパスポートは持っているけれど、入り口のところで徹底的に叩き直されて「ウチの人」になっているから問題ないのだろうね。「ムリ偏にゲンコツと書いて兄弟子と読む」っていうだろ。ときどき、強すぎて叩ききれないのがいて、もめるケースが出る。昔の朝青龍とか小錦とか。
そうか。橘さんはムリ偏にゲンコツだったものな。<笑いながら王が言った。>
そんな!人聞きが悪い。優しい先輩だったじゃない。
依田 まあ、冗談はその辺までにして、イノベーションの資源の観点では、オープン・イノベーションでも、自社の不足を補うだけではなく、他社や大学との相互の触発で、より効果的な市場イノベーションを実現する「攻めの意識」が重要だと思うね。
依田 さて、後があるから、今日はこの辺までにしようか。次回は最後かな。戦略の実行プロセスとしてのP2Mプログラムマネジメントだ。P2Mガイドブック改訂3版[13]の第1部と第2部を、もう一度読んできてほしい。

文 献
[1] アンドリュー・パーカー「眼の誕生」(今西康子訳)、草思社、2006
[2] ジェフェリー・ムーア「ライフサイクル・イノベーション」(栗原潔訳)翔泳社、2006
[3] クレイトン・クリステンセン「イノベーションのジレンマ」(伊豆原弓訳)翔泳社、2000
[4] Wikipedia 「ムーアの法則」
[5] Wikipedia 「破壊的イノベーション」
[6] サリム イスマイル他「飛躍する方法」 (小林啓倫訳)日経BP社、2015
[7] トーマス・アイゼンマン他「『市場の二面性』のダイナミズムを生かす」 Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2007年 06月号
[8] レイ・カーツワイル「ポスト・ヒューマン誕生」(井上健監訳)NHK出版、2007、pp150
[9] スティーブ ジョンソン「世界を創った6つの革命の物語」(大田直子訳)、朝日新聞出版、2016
[10] 「リスクテイク」の程度の評価は難しいが、既存企業の場合は、年度ごとのROA(総資産利益率)のばらつきで評価することができる。
内閣府「平成20年度年次経済財政報告」
[11] サリム イスマイル他「飛躍する方法」 (小林啓倫訳)日経BP社、2015、pp62
[12] 同上書、pp173
[13] 日本プロジェクトマネジメント協会「P2Mプログラム & プロジェクト・マネジメント標準ガイドブック[改訂3版]」日本能率強化マネジメントセンター、2014

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