PMプロの知恵コーナー
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ゼネラルなプロ (70) (実践編 - 27)

向後 忠明 [プロフィール] :8月号

 インドネシアの経済状況の悪化もさることながら今度は、全国各地にて発生する学生による政治改革やデモの集会が毎日のように新聞で報道されるようになりました。

 本プロジェクトは工事業者や協力業者そして金融機関との交渉もうまくいき、そのまま続行することでステークホルダーとの話は終わっています。
 そのようなプロジェクトの状況であったが、気になることはインドネシア政府の動きでした。
 1998年になる頃になるとIMFがインドネシア経済の危急状態を回復するため、介入に入りインドネシア政府に対し、各種の勧告を通達しました。しかし、スファルト大統領がその勧告を無視して国家予算の発表を行いました。そのため、ルピア/ドルの下落が一時20,000ルピア/ドルになると予測された時もありました。
 その後のIMFや各国の指導及びインドネシア政府の各種政策で10,500ルピア/ドル近辺で推移していました。(当初の本事業の為替レートは2000ルピア/ドルにて投資を考えていた)
 しかし、その後もIMFと大統領の確執は続くことになり、IMF勧告での約束事も反故にされて何も解決に至っていない状況のままでした。
 一方、その後もルピアの相場は変わらず、米、油、ミルク、粉と言った生活必需品が市場から姿を消し、あったとしても通常の2~3倍の価格になっている。これはインドネシア経済を握るインドネシア系華僑による買占め、売り惜しみが原因と言うことで華僑をターゲットにした暴動も発生するようになりました。
 1998年の最初の3カ月間、このような状態が続いているのにも関わらず、インドネシア政府は国民評議会を開き政治空白の状態を続けていました。
 国民評議会が終了して、スファルト大統領は再選されるが、IMFとの関係は相変わらずでした。このような中、日本の橋本首相がスファルト大統領に表敬訪問を行い、インドネシアの諸々の課題について話し合いを行ったとの新聞報道がありました。
 その効果によりインドネシア政府とIMFとの確執は無くなり、各種の懸案事項も解決され始めました。その結果、一時的にではあるがルピア/ドルが7500となりそれなりに安定した状態で推移するようになりました。
 しかし、政府補助金のカットなどがその後行われ、電気代やガソリン代の値上げにより、さらに学生運動も過激になってきていた。

 このような状況の中、筆者のいる事業会社以外の他のエリア4社の事業会社はこの金融危機のため、遅れている工事がさらに遅れることを懸念してインドネシア政府に対して何らかの救済を求める要求を出しました。その結果、全エリアの事業者がジャカルタに集められることになりました。
 この時、筆者も事業者代表の一人としてスマランからジャカルタにきて、インドネシア政府と「今後の事業の在り方」について会議をしていました。
 この会議は朝の10時ごろから始まり、各事業者からの事業運営に関する条件の見直しなどの議論をし、延々と午後の4時ごろまで行われました。
 夕方に近くなり、会議もまとまりつつあるその頃になって、会議室のある建物の外がだいぶ騒がしくなってきました。
 会議場から外を見るとトラックに学生らしき若者たちが鈴なりに乗っていて、その上から旗をひらめかし、何やらわめきながら会議場の前の道路を走り回っているのが見えました。そして、ジャカルタ事務所の方を見るといくつもの黒い煙が立ち昇っていました。
 見る見るうちにその暴動も激しさを増し、暴徒があちらこちらで騒ぎ出し、そのため道路が封鎖され、ジャカルタ市内は混とんとした状態となりました。
 この会議も途中であったが、このような状態であったので急きょ中止となり、全員この会議場から遠ざかるように指示されたので、筆者は車でジャカルタ事務所に帰ろうとして外に出ました。
 この時、ほとんどの道が閉鎖されていることを事務所の運転手から聞かされ、事務所には帰れないのではと右往左往していました。
 この時でも、周りには多くの若者がトラックに乗って走り回っているし、道路では廃物やタイヤを置き燃やしたりして、険悪な空気になっていました。
 しかし、それでも何とか運転手の機転で通常15分程度のところを3時間ほどかけて無事に事務所につくことができました。

 この暴動がきっかけでスファルト体制は崩壊することになり、同時にインドネシア通貨の下落もさらにひどくなりました。
 その後もインドネシア支援国会議やIMFからの支援による140億ドルに達する支援を得て為替のルピア安を解消する動きに出ました。しかし、14,000ルピア/ドルが12,000そして11,000ルピア/ドルとルピア安は相変わらず不安定な動きをしていました。
 しかし、事業の採算においては為替だけではなくインフレ率も我々お事業には大きな影響があります。そのインフレ率が今年中には100%になるといった新聞報道もあるような状態でした。
 このように先の見えない状況の中でも筆者の事業会社は荒波に向かいながら沈没せずに何とか健全な経営状態を保ってきていました。
 しかし、ビジネスプランの見直しにより、今年後半にはいよいよ本事業のキャッシュフローも底が付き、Money Short が発生することが確実であることがわかりました。
 この頃の工事の進捗は伝送設備:99%、電話の回線:90% 交換局:80% 無線通信:48%と無線を除いてはほとんど完成に近い状態であり、今年いっぱいですべて完了となる目途もついていました。
 しかし、8月の独立記念日前後に筆者の事業会社のある中部ジャワのスマランやスラバヤを中心に大きな暴動が起きるとの噂が流れ、5月ごろに暴動で被害を受けた中華系インドネシア人の大移動が我々日本人が多く住んでいるところから始まりました。
 その理由は5月のジャカルタ暴動で主に華僑系インドネシア人が数千人も殺されたとの新聞報道もあったことからの恐れと思います。
 日本人も中国人と似ているので、この新聞報道で日本人スタッフとその家族も非常に危険を感じ、日本への帰国を要求してきました。しかし、この時はすでにスマラン空港までの道も閉ざされ移動もできない状態でした。
 (因みに、スファルト元大統領とそのファミリーが隠密裏にスマランに来ていて、大統領の娘婿の中将と現軍司令官の一派との衝突もここで起きるとの噂もあった)

 このような状況の中では建設工事は不可能な状態でしたので、筆者はこの状況が鎮静化するまでスマラン事業所から近いところでかつ目立たないローカルのホテルに日本人スタッフと家族を一時避難させることにしました。
 ホテルに避難してからもみんなは緊張の日々を過ごし、「もし軍同士の衝突が起きたらどうしようか」などの話をしていました。しかし、数日もしたら暴動も起きることも軍同士の衝突もないことがわかり、何事もなく、みんなホッとしてそれぞれの家に帰ることができました。
 その後、ビジネスプランに影響する為替レートも平静を保ち、為替レートも今後大きな暴動がない限り10,000ルピア/ドルになると新聞などで報道されていました。

 このように、政府関係の問題、為替レートや暴動そしてインフレ等、PFI事業にとっては影響のある想定外事象が次々に起きて、筆者のいる事業会社も役員及び株主もこの荒波に翻弄されながら沈没しないで頑張っていました。

 しかし、プロジェクトもこのころになると計画段階でのミスやごまかしがあぶりだされてきました。全く空いた口がふさがらないようなおかしなことが、JV相手のオーストラリア側のファイナンス及びオペレーションの各役員の中で行われていました。
 すなわち、オーストラリア側の本社の影響下にある工事業者に不可解な費用が支払われるようになっていたり、保険会社との契約でも建設本部の意見も聞かず、保険対象となる事案も全く現状から離れたもので勝手に契約していたため、クレームを出しても保証されなかったり、多くの無駄な資金が失われていました。
 このように、本事業はオーストラリアがファイナンスを握っていて、それもインドネシア人のCEOに巧みに取り入り自分に有利な方向に話を持ちかけていたようです。
 このようなことは全役員のいる役員会で決める事であるが、筆者はすでに済んだ過去のことでもあり、またオーストラリア側との確執を作りたくないこともあり静かにしていました。
 また、本事業のプロジェクト管理に関するコンサルタントも高額な報酬をとって、ほとんど役に立つ助言もなく、これもオーストラリア人がプロジェクト開始の初期に契約をしたものでした。
 このようにオーストラリア人を含む欧米人の業務への介在や役に立たない助言は筆者にとっては迷惑な話ばかりでした。

 このように多国籍で仕事をすると彼らの文化や彼らが育ってきた国の習慣などによる考え方の違い等によりいろいろ問題が発生するということは多くの人も知っていることです。
 しかし、当初の本プロジェクトの立ち上げ時での活動の中心はオーストラリア人であり。また日本側スタッフはこの種の仕事に慣れていないことなどもあり、何となく当然の帰結のように感じました。
 多様性の受容や尊重と言う言葉がありますが、「言うは易し、行うは難し」のようでした。

 筆者の場合もファイナンスの役員とはいろいろな面で考え方の食い違いがありました。
 何故なら、ファイナンスの所掌外であるのにも関わらず、建設分門に関係することにも口出し、業務に支障をきたすことも良くありました。
 株主会と役員会の合同会議が開催された時、その会議の中でファイナンス役員と建設本部役員(筆者)との間で工事業者への支払いに関することが発端で、ファイナンス役員と言い争いになりました。
 理由は、すでに前回の役員会で工事業者への支払いについて決定された方法について、建設本部はこの決議に基づき、支払額減少とその支払いの遅れた理由を示した手紙を出してすでに了解されていたにも関わらず、ファイナンス部門が建設本部に通知もせず支払いを止めてしまいました。

 これにより、工事業者からもクレームが発生し、両部門の間で大きなコンフリクトが生じることとなりました。

続きは次月号

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