PMプロの知恵コーナー
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ゼネラルなプロ (69) (実践編 - 26)

向後 忠明 [プロフィール] :7月号

 前号では、新本部長がプロジェクトスケジュールの遅れを取り戻すための対策を打つことになった。しかし、その部下である建設担当の部長と他のオーストラリア側の役員達により、その対策案の実行もままならない状況となっていた。
 そのため、今後の事業運営にも問題が起こると感じ、オーストラリア側の投資家の代表に談判することになった。

 その後、投資家達が臨時会議を開くということで、役員全員が集められることになりました。その会議の冒頭で、投資家の代表(インドネシア国際通信会社の社長)から以下のようなことが告げられました。

本事業の代表であるCEOは社内の混乱を調整できないことから、更迭とし新たなCEOを選出した。本日その人を紹介する。
建設・企画本部の建設担当部長も人選により新たな人材をオーストラリアから呼ぶこととし、オーストラリア側からの了解も受けている。

 新しいCEO は その場で紹介されたが筆者は「どこかで見た顔!!」と思い、よくよく考えてみると、筆者がジャカルタで国際通信会社のオフィスで株主達の面接を受けた時、筆者の前に面接を受けていたインドネシア人がいましたが「その人」でした。
 筆者はてっきり、更迭予定の建設・企画本部長の候補者と思っていましたが、この時すでに株主達はCEO の更迭は決めていたのだと気が付きました。
 また、筆者の部下であったオーストラリア人の建設担当部長の変更も報告され筆者としても一安心となりました。
 PFI事業は設備完成が遅れれば遅れるほど事業全体への影響が大きくなり、かつ銀行との関係でも問題が大きくなります。
 このことから、問題の先送りは傷をさらに大きくするので、早い時期の決断が必要だったのだと思います。しかし、この即決即断は日本企業にはあまりないことだったので筆者は正直言ってビックリしました。
 このようなことがあり、新体制での出直しがこの時から始まりました。

 その後、各本部はそれぞれの業務に専念できるようになり、以前のような本部間の確執もなく、新CEO のもとで、それぞれの役割に準じた業務もスムーズになりました。
 しかし、この会社はそれぞれ異なった国の人達から構成される組織であるのでコミュニケーション、特に業務のやり方で食い違いが多く発生していました。
 そのため、新たに品質保証部を作り、ここを中心にISO 9001に従った、ルール作りを行うことにし、そのルールに従って業務を進めるようにしました。
 一方、これまで遅れていた現場作業も現場と設計部そして調達との関係も以前より緊密な連携になりお互いに齟齬がないようになりました。
 それだけではなく、プログレスの見える化のため、プログレスチャートを大きな紙に示し、それを各部、各現場のみんなが常に見られる場所に張り出しました。
 この効果はてきめんであり、本部員は競ってこのチャートに示す予定線図に遅れのないかを毎日みて、「どこの部署が遅れているとか、我々の場所は大丈夫」とかを話し合うようになりました。その結果、遅れていた現場のプログレスは見る見るうちに予定を上回るものとなってきました。
 筆者もまた少しでも現場を鼓舞するために赴き、現場のマネジャや協力会社とも接触し、問題の即断即決を心がけるようにしました。
 このように建設企画本部の仕事も順調な滑り出しで、NTT本社側もこれまで筆者の能力に疑心暗鬼でその動きを見ていましたが、なんとなく褒め言葉が聞こえるようになってきました。
 このように筆者の関係する業務も順調となったことから、株主との定例会議や役員会議でもこれまでの苦虫をかんだようなものではなくなりました。
 その大きな理由は、プロジェクトの立ち上げ期に大きな作業進捗遅れが発生し、政府から与えられた建設目標が危ぶまれたが、何とか8カ月以上の遅れを取り戻し目標値の達成を果たしたことだと思います。
 何故なら、必要建設数に未達成の場合、電話公社(PTT)及び政府との契約でデフォルト条項の適用となるからでした。
 我々の事業の対象エリアは中部ジャワ全域に電気通信システムを導入するものであったが、他のPFI事業者のエリア(スマトラ、西ジャワ、東インドネシア、カリマンタンの5エリア)でも同じような業務形態で建設工事を行っています。建設工事の進捗はこれらとの競争でもあり、我々のエリアは他のエリアと比較し建設進捗では見劣りしていました。
 しかし、組織の構造改革により、何とか急場をしのぐことができ、建設企画本部の面々も以前と違った雰囲気のある職場となってきました。
 そしてその後建設工事も順調に推移し、建設の最盛期を迎えることになりました。

 そして、我々の会社の建設進捗も大幅に回復し、上記に示す他のエリアのPFI事業会社の中でも一番の進捗となったことを現地の新聞でも伝えられるようになりました。
 我々の会社のマネジメントの優秀さが新聞などで報道されるようになり、そして政府の関係局次官もこのことを認めるようになりました。もちろん、関係スタッフも喜び、更に自信を深めることになりました。

 このように我々の会社は順風満帆の状態が続いていましたが、そのような中、1997年夏頃にタイを起点として金融通貨危機がアジア、ロシア、中南米と広がり世界的経済危機に発展してきました。
 当初はインドネシアへの影響は比較的小さいものでした。1997年末ごろになるとインドネシアルピアは3000ルピア/ドル(当初の事業での投資対効果計算時でのルピアは約2000ルピア/ドル)に突入したが、我々の会社は為替ヘッジを3000ルピア/ドルまでの余裕を持っていたので採算上はあまり問題ありませんでした。
 しかし、この事業の収入は電話料金からのものであり、収入通貨はルピアであり、投資した通貨はドルです。当然、インドネシアの通貨政策によりこの事業の採算は大きく影響されることになります。
 この事業の焦点はタイ発の通貨危機がどこまでインドネシア経済に影響してくるのか、そしてその影響によりどこまでルピア価値が下落するのかに移ってきました。

 “一難去ってまた一難とはこのことを言います。”

 1998年に入ると急激にルピアが下落し、特に大統領によるIMF勧告を無視した国家予算の発表がその傾向に拍車をかけ、一時は20,000ルピア/ドルまで下落すると予測されたりしました。
 その後、IMF及び各国からの指導及びインドネシアの各種政策により10,500ルピア/ドルと落ち着きました。
 いずれにしてもルピアの低止まりは変わりなく、現状では企業努力だけではいかんともし難い状況となってしまいました。
 そのため、コンセッション契約の相手であるインドネシア電話公社(PTT)に他のPFI事業者と一緒になって、契約書上の義務やPTTとの利益配分についての見直しをかなり強い姿勢で要望を行ったりしました。
 一方、工事業者や協力会社に対する考慮も必要になってきました。
 この時の、各エリアの他のPFI事業者は以下のような状況でした。
資金ショートが生じている。
工事は全面的にストップ(ただし、筆者のいる会社だけは工事続行)
支出削減に努めていて、外国人を帰国させている。
銀行団も懸念しだした。(プロジェクトファイナンスのため、銀行団も無視できない)

 タイの金融危機から始まったアジア全域の経済的混乱はインドネシアをも直撃し、日本では想像もつかないようなショックに国中が震えるような状況でした。
 我々日本人はドルまたは円ベースで給料が支払われていたので、物価が与える影響はさほどでもなかったが、インドネシア人には大きな衝撃になっていました。
 例えば、ちょっと価格が張るようなものを買うとなるとルピアの束をもって行くようなことになります。
 このような状況の中では我々の会社は嵐の中の小舟の如く翻弄された状態であり、かつ航路を決めるかじ取りもシェアホルダーの利害が絡んで思うに任せず、結論を出せないまま時間が経過するばかりでした。

 インドネシアの経済の悪化を少しでも助けようとするIMFもインドネシア政府との確執が続き、ルピア安、それに伴う物価の上昇も続き、失業者も増加し、この先この国はどうなるかと、毎日心配するばかりでした。
 この時点でも、我々の会社の工事進捗は一時ほどの大きな進捗はなくなってきていたが、一応電話公社がデフォルトの条件としていた数値はクリアーしていたので問題はありませんでした。
 しかし、このままルピア安が続くとたとえ為替ヘッジを3000ルピア/ドルとしても企業採算が悪化することも十分考えられます。
 一方、プロジェクトの現状は為替の変化により、金融的な危機が発生し始めているので、我々は各社の株主代表と役員とでMonetary Crisis Teamを結成し、①事業規模の変更及びそれに伴う工事業者や協力会社との交渉②電話公社との交渉③ビジネスプランの変更の策定等を共同で行うことになった。
 その結果、このチームの努力により工事業者や協力業者との支払いに関する交渉の結果現在の手持ち資金で本事業を追加投資なしに進められることの目途が付きました。
 一方、金融機関に対してはシンガポールに関係する30行の銀行に集まってもらい、我々の会社の現状について説明をしました。
 各銀行はインドネシアの各社のPFI事業の状況があまりにもひどい状況(下記)なので我々の事業も同じものと考えていたようでした。

 電話公社が決定した時期での目標値
 我々の事業の進捗率:107%
 他のPFI事業  :3.36%~41%
 しかし、銀行も我々の事業の進捗率の圧倒的な健全さがわかり、最初は険悪な状況であったがそれも理解され、最後は我々の説明に納得をしてもらうことができました。

 こんな時、全国各地にて学生による政治改革やデモの集会が毎日のように新聞で報道されるようになりました。

続きは次月号

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