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身近にあるプロジェクト

プラネット株式会社 シニアコンサルタント 中 憲治 [プロフィール] :7月号

私の住んでいる守谷市は茨城県の南端に位置し、南端は利根川、西端は鬼怒川、そして北側小貝川と3つの1級河川に囲まれている。小貝川は自宅から北に2kmのところを流れているが、栃木県茂木近辺を源流にし、茨城県の西部を鬼怒川とほぼ並行に流れ共に利根川に合流する。鬼怒川はその名の通り、昔からよく氾濫を繰り返した河川として知られるが、小貝川も幾度も氾濫を繰り返している。この小貝川の周辺では江戸時代初期の頃のプロジェクトの成果物を目にすることが出来る。江戸時代初期のプロジェクトと言えば、新田開発と河川治水事業がその代表であるが、関東地方の新田開発と治水事業で著名な人物は、伊奈代官の名で知られる伊奈忠次である。伊奈忠次は徳川家康の重臣として、家康が豊臣秀吉により、江戸を中心とした関東地方に領地替えをされた後、関東代官頭として関東地方の新田開発、河川治水事業そして検地を統率した人物(いわゆるプロジェクトマネジャーである)として知られている。埼玉県の伊奈町はこの伊奈忠次の管轄地であったことから、現在でもその名を地名に残している。小貝川流域にも伊奈村(現つくばみらい市伊奈)が存在する。小貝川流域の田畑は、江戸時代初期に農地として開発されたいわゆる「新田開発」であり、この新田開発を担ったのは伊奈半十郎忠治、伊奈代官・伊奈忠次の次男であり、江戸幕府から指名され小貝川周域の新田開発と小貝川の河川治水事業をプロジェクトマネジャーとして指揮した。茨城県の伊奈村(現つくばみらい市伊奈)は、伊奈半次郎忠治からその名前がついている。伊奈半十郎忠治が小貝川流域の新田開発と小貝川河川治水事業の2大プロジェクトを手掛けたのは1630年頃とされており、新田が幾つも作られ、現在でも、この地域には「長渡呂新田」、山王新田」など○○新田といった地名が幾つも残っている。新田開発が進めば、田畑を維持する為に農業用水の供給が必須となり、河川治水事業の主なる目的は、河川の氾濫を抑制することと、田植え時期の農業用水の確保となる。小貝川には農業用水確保の為、関東三大堰と呼ばれる、福岡堰、岡堰、そして豊田堰が築かれている。

<小貝川の岡堰跡が残る中之島> <明治時代以降の岡堰の遺跡>
<小貝川の岡堰跡が残る中之島> <明治時代以降の岡堰の遺跡>

岡堰は伊奈村にあり、現在は岡堰と呼ばれている堰も、1800年頃は田植えの時期に農業用水確保の為、一時的に小貝川を堰き止めて小さなダムを作ったものをそう呼んでいたようであり、毎年繰り返される「岡堰プロジェクト」だったようである。現在では、小貝川の中州に、当初に堰のあった地点を「中之島」と呼ばれる小島として保存している。この「中之島」には、この地域の偉人である「間宮林蔵」の銅像が立っている。間宮林蔵は樺太探検と、間宮海峡を発見した人物として知られているが、彼の生家は岡堰から西方2kmの伊奈村にある。間宮林蔵は1780年にこの地に生まれたが、15歳の時に難工事とされた岡堰プロジェクトに貢献し、江戸幕府の役人に見いだされた。その後、江戸に出て測量・土木技術を学び、江戸幕府の役人となる。後に派遣された北海道の地で伊能忠敬に出会い弟子入り、測量技術を高め北海道北部、国後島、択捉島そして樺太半島の測量を手掛けることとなったとされている。

<中之島にある間宮林蔵像>  
<中之島にある間宮林蔵像>  

間宮林蔵の樺太探検(樺太半島の測量プロジェクト)のきっかけは、岡堰プロジェクトであり、岡堰プロジェクトが行われた理由は、伊奈地域の新田開発プロジェクトであったといえる。プロジェクトが次のプロジェクトを生み、プロジェクトが人を育て、その人が新たなプロジェクトを生み出す、江戸時代のドラマである。余談であるが、間宮林蔵の生家の近くのお寺には、間宮林蔵とその両親のお墓がある。林蔵は樺太探検に赴く前に、帰って来られないリスクを考え、自分と両親のお墓を作って樺太に出立したと伝えられている。当時のプロジェクトの必死さも窺える逸話である。

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