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エッセンシャル・セミナー : 戦略分析の進め方

清水 基夫 [プロフィール] :6月号

第3回:
 
この研究室は、依田教授室の隣にある。壁の書架には一面に経済学や経営学の参考書と雑誌が並んでいる。背表紙の高さが揃っているのは依田さんがやるわけはないから、村上さんだろう。隅の方に釣りや魚類図鑑なども何冊か並んでいる。 お茶で一息いれて、今日の後半は戦略分析をどう進めるのかについての考え方の話だ。

戦略分析
○ 複雑性 vs 論理性
戦略の目的を明確にする必要は分かったけれども、現実はかなり複雑になりますね。
依田 確かに、戦略目的の検討には、自社の状況だけではなく、競争他社、市場や経済のマクロな動向、政府の政策とか、時にはTPPや石油価格の変動のような国際的な政治・経済動向も大きな影響がある。グローバル化によって、どんどん複雑になるね。複雑なものを分析するには、どうすればいいと思う?
複雑なものに対しては、分解とモデル化で単純化した分析をすることが基本でしょう。例えば電子システムなら、要求分析をしてシステムをハードとソフトに分解して、ハード・ソフトそれぞれへの要求を更にブレークダウンして分析していく訳だけど、経営とか戦略の場合も同じですか?
先日(第1回)出てきた階層性の考え方も同じですね。システム開発でも階層分けで複雑性を解消することは一般的です。
依田 なるほど、システム屋さんならそんなアナロジーで理解するのもいいかな。事業戦略でいえば、全体をいくつかの分野に分けて、それぞれの分野に適した分析ツールやフレームワークでもって分析することが多い。ただし経営には、他社や市場その他の環境の変化が大きく影響するし、自社と他社との競争の相互作用などもあって不確実性が大きい。それに何をもって良しとするのか目的が企業ごとに違う。オームの法則とか熱力学なんかの物理法則ではないから、分析のプロセスでも結果の解釈でもかなり主観的な判断が含まれることは大きな違いかな。もちろん、営利企業の場合、金銭的な利益の拡大が必須であることは大前提だ。
戦略立案とは分析と意思と論理で打つべき手を導き出すもの。個別の複雑な事例も分解して単純化・抽象化すれば、その範囲では、前に言ったように一般化された戦略理論を適用できる。戦略理論とその適用プロセスを知っていれば、自社の個別具体的な経営課題についても、論理的で確実性の高い経営判断ができる。逆に言えば、これらを知らなければ、事業経営も場当たり的になってしまうと言えるだろう。

○ 例題:規模の経済
規模の経済というのは、ごく常識的なお話だ。依田さんがこれを宿題で調べろと言ったのは、その常識を例として、戦略の分析とは具体的にはどういうプロセスなのかの説明するためだった。単に常識として知っていても、使えなくては意味がない。ある施策を想定したときに、それが経営に、つまり企業会計上にどのように反映されるのかを推定するプロセスが重要だ。
依田 ところで「規模の経済」とは何かな?<依田さんが話題を変えた。先日(第1回)の宿題だ>
事業の規模、例えば生産量とか販売量が増えると、その割合以上にコストが下がること、逆に言えば余計に利益が増えることですね。製品1個の原価についてみると、材料費などの変動費は生産量が変わっても一定だが、設備費、人件費、管理費などの固定費のコストへの寄与は生産数量に反比例する。だから、生産数量を増やすと、固定費の寄与分が減って、数量増加割合以上に利益が出せるということです。
その他にも、生産量が増えれば、材料の単価の値下げなど変動費の削減も可能だし、生産自動化や大型設備など生産効率化の投資もできます。また、新製品や新技術の開発など研究開発コストも固定費ですから生産規模のメリットが得られます。
依田 それでは「経験曲線」とは何だろう?
ある製品の累積生産量が増えると、単位の生産コストが低減していくことです。規模の経済がある時点での生産量とコストの関係であるのに対し、経験曲線は累積生産量という点で違いがあります。
依田 模範解答だね。ではなぜ、累積生産量でコストが下がるのかな?
作業者の習熟、作業プロセスや治工具の改善の積み重ね、マイナーな設計の改善の積み重ねなどですね。<橘は一瞬詰まったが、すかさず王がフォローした。>
依田 今の説明は製造業を基準とした話のようだが、サービス業とか君たちのようなシステム事業の場合にも当てはまるのかな?
システム事業でも、売り上げが増えれば間接費割合は下がります。また、類似システムであれば、設計やソフトウェアの再利用もできるし、ハード部分は調達単価の低減もあるから、同じに考えていいと思います。
依田 そうだろうね。他にも似たような概念として、範囲の経済とか損益分岐点分析もあるね。どんなものか知らなければ調べておくこと。さて、何故規模の経済とか経験曲線とかについて質問をしたか分かるかな?
<依田さんの質問に、ふたりは首をかしげた。>
依田 戦略を考えるときに、一番よく出てくるのが「売り上げを増やしたい」とか「マーケットシェアを伸したい」というケースだ。なぜ、売り上げが増えればよいのか?シェアが増えればよいのか?理屈もわからずに頑張ってもいいのかなとは思わない?戦略を考えるとは、戦略施策の案を考えてそれを分析・理解して、何をどう増やせば何がどう変わるのか、何によってどれだけの利益が増えるのか、具体的かつ極力定量的に分析して、事業目的に照らして最も効果的な対応案を作ることだ。
「分析して」とは論理的にということだけれど、君が所属する事業分野について、そのレベルで分析したことはあるかね?例えば、こんな形だ。

<依田さんはホワイトボードに計算例の表を書いて説明を始めた。>
ものすごく単純化しているが、これが戦略立案の基礎的な練習問題の一例だ。実際は、状況に応じて、もっと詳しいシミュレーションをするのだがね。量産品事業の場合は生産数量で考えるのだが、君の会社はシステム事業なので、ここでは事業全体の売上高で示している。今の売り上げを10億円と仮定すると、1割とか2割くらい例えば12億円までの売り上げ増なら、何とか現状の体制で対応するだろう。売り上げが2割増えると、規模の経済で利益は5割も増える。だが、3倍の売上規模30億円にどう対応するかは簡単ではない。本格的な戦略の出番だ。このA案の例では、現状の延長なら変動費は3倍の15になるが、専門会社への外注とか効率化投資によって、変動費を大幅に効率化することを考える。一方、そのための投資分などに対応する固定費の増加があるという考え方だ。この結果、利益(粗利)は15になる。規模の経済はすごいね!だけど、現実にはそうは上手く行かない。その時の市場価格の変化や競争会社がどう出るかにより実際の利益がどうなるかはもっと別の判断がいる。市場規模の予測とか自社のシェアとかだ。実際には売上高が3倍になるとすれば、単価が下がって数量ベースでは5倍とか6倍かもしれない。市場の動き、他社の出方の予測の部分、規模の経済や経験曲線の考え方などコスト予測や投資の部分を組み合わせて、見通しを付けることが大事だね。売り上げが急に3倍になるなんてないと思うかもしれないが、新商品や新市場の立ち上がり期で、市場規模が小さいときは珍しいことではない。その時期に思い切った戦略で市場を押さえた企業が、あとあと格段の優位にたつことも多いから、この段階の戦略は非常に大事だ。 また、変動費・固定費は仮にはこう書いたけど、もう少し詳しい内訳にブレークダウンして吟味が必要だ。
実際の戦略作りでは、いくつかの有望なシナリオに基づくB案、C案など戦略案を比較検討するのが基本だ。つまり、戦略案ごとにどれだけ売り上げが増え、コストと利益がどうなるかの見積もりの比較をして、最も優れた案を採用する。実際の検討では、会計上の原価とか費用の計算区分は、細かい点で会社毎に違ったりするから、経理部門などの専門家に協力してもらうといいね。

規模の経済 計算例 (システム事業の場合)
規模の経済 計算例 (システム事業の場合)

依田 ざっとしたイメージは分かったと思うけど、もう少し具体的な戦略として、どの様なケースが考えられるかな?
まず「売り上げが30億円に拡大したときに、どんな設備や組織体制が必要か」を考えるケースですね。そのための投資などの戦略が必要ですし、商品自体ももっと効率的に量産できるようにする必要があります。同時に、競合他社に対してどの様にして優位に立つかの戦略も必要です。
依田 まずそれが基本だね。だけど、「市場が拡大する」ではなく、自ら「市場を拡大させる」とか、大きくシェアを拡大するというもっと積極的な視点では、どう考えればいいだろうか?環境が変わるという受動的な立場ではなく、能動的に環境を変えていく立場だ。
例えば、「量産効果を見込んで、先制的に思い切った値下げをして、急速な市場とシェアの拡大を図る」というのも一つの可能性です。その場合も赤字では困るから、競争力ある原価目標を設定して、それを実現する商品の開発、生産システムの整備などが戦略として重要です。
気の利いた相手だったら同じ様なことを考えるでしょう。顧客や市場そして競争相手が、それぞれの戦略案にどう反応するかも、よく考える必要がありますね。
依田 極端な場合、赤字でもまずマーケットを拡大して押さえてしまって、後から大きく利益を得るという戦略もある。ネットビジネスではマーケットシェアが非常に重要だからよくあるが、Amazon.comなどが典型例だ。製造業では商品の生産コストがあるから難しいけれども、消耗品で稼ぐビジネスモデルの場合は、似たようなケースもある。インクで稼ぐプリンタ事業や、かなり古いけど替え刃で稼ぐカミソリメーカーなんかが例だ。
ここで言いたいのは、戦略案を考えるとき、投資と成果予測について、相応の根拠のある計算が必要だということだ。一方で、少しでも計算すればわかるが、戦略の実行施策は必要なことだけにフォーカスしないと無駄な投資が増えて、利益という目的を達成できないどころか競争力を失うこともある。
分かりました。だけど、本当に新しい何かを始めようとする場合は、期待は持てても確かな根拠のある計算なんて無理ですよね。
依田 確かにそういう時は難しいね。では、そういう時にどんなことを考えたらいいか考えてみてくれるかな。おっと、これは次回までの宿題にしよう。今日はまだ他に話すことがあるから。
それと言うまでもないことだが、これは売り上げ拡大のケースの戦略の考え方の一例だ。戦略の内容によっては別の形で予測やシミュレーションをすることになる。

事業戦略の3つの分野
「『戦略理論を学習すること』と『事業戦略を立案すること』は全く違うプロセスだ。何十冊も立派な本を読めば、知識だけは沢山増えるが、それを使う方法論を知らなければ、知識は宝の持ち腐れだし、読むために使った時間は浪費とも言える。戦略理論はゴルフの教則本みたいなものだ。いくら読んでも、それだけではゴルフがうまくなる訳ではない。コースという現場は地形は一定でないし気象条件も変化する。その場その場で、理論を応用して状況をどう読みどう攻めるのかプランを立て実行していく別の能力が要求される。条件が変化するという意味でゴルフはかなり複雑なスポーツだが、事業経営はさらに何百倍(?)も複雑だ。(もっとも、比べても意味はないがね。)」依田さんの話を要約すると、こんなところだ。
理論的知識は必須だが、それを使って事業戦略案を作っていくプロセスで、最初に必要なのが戦略の目指す成果が何であるかを定めることだ。戦略の対象を決めると言ってもいいが、これが漠然としていては何をやっても中途半端になる。これには実務的にはまずは3つの分野を考える必要がある。
依田 ところで、君たちは事業戦略として、今どんなことを考えているのかな?一番重要なテーマは何?
何といってもT社との競争に勝つことですね。それからブルーオーシャン戦略ではないけど、新製品を開発して競争の少ない新市場に進出することもあります。
戦略の中には、研究開発を進めて生産技術力を高めることも入れたいと思っています。<王の補足を聞いて依田さんはニヤリとした。>
依田 ふーん。でも、なぜそう言うのかしっかりした根拠を説明できる?<依田さんは立ち上がって白板に3つの円を描いた。>競争といってもT社だけ考えればいいの?それに新製品を開発しても、すぐ新市場で沢山売れ始めるのかな?システマティックに考えなければね。
事業戦略で考えなければいけないことは沢山あるし、一方戦略理論にも色んなものがあるのだけれども、多くのケースでは、まずは戦略が目指す成果に関するこの3つの分野について考えるといいだろう。
依田さんは白板の一番上の円に「市場の選択」、右下の円に「競争優位の獲得」そして左下の円に「能力・資源の獲得強化」と書き込んだ。
依田 企業の戦略というと、まず競合他社に対する競争優位の獲得つまり競争戦略を考えるよね。<依田さんは軽く握った拳で、図の「競争優位の獲得」のところをコツコツとたたいた。>それはそれでいいんだけれども、会社にとってもっといい理想的状態は何かな?
市場の独占とかダントツの一位とかでしょう?ゴリゴリ戦うより競争がほとんどない状態がいいですよね。
依田 そうだね。だけど、そういう市場をどう見つけるのかあるいは作り出すかが問題だ。つまり、どんな市場を選んで戦うのか「市場の選択」の方が競争戦略よりもっと有効かもしれない。ブルーオーシャン戦略が有名だが、独占でなくても2~3社くらいの寡占状態も結構有効だ。プリンタや携帯電話の市場を見ればわかるよね。
競争戦略にしても、現に直接的に顧客を争っている同業他社だけではなく、長期的には別の種類の強力な競争相手が出てくる可能性もある。ゲーム機の市場が予想外のスマホのゲームアプリに侵食されているのが一つの例だ。君の会社の戦略では、T社以外の新たな競争相手についても考えておく必要があるね。図に書いてあるファイブフォーシズというのはそういう競争の分析手法の一つだ。
それから、王君が言ったように研究開発で技術力を高めるのは大事だけど、研究開発は手段であって目的ではない。確かに技術力は高いほうがいいが、それが収益性に直結するかといえば必ずしもそうではない。君たちがいま戦略を考えていること自体が技術力よりマネジメント力の問題だし、君の会社は技術力はいいらしいがマネジメント力が高いという評判はあまり聞いたことがない。
厳しいことをいうなあ。でも、本当だからしょうがないか。<橘と王は顔を見合わせた。>
依田 会社や組織はどんな能力や資源が必要かが先ずあって、それらを如何に獲得したり強化するかだ。これが3番目の能力・資源の獲得・強化の意味だ。強みを伸ばすことも必要だが、苦手だといって弱みから目をそらしてはいけないよね。
まあ、分かってはいるんですがね。<橘の声が細くなった。>
依田 戦略は大きな長期の成功のためだ。頭から「T社との競争」とか「技術開発」とか決め打ちではなく、最初はもっと幅広く課題や可能性を考えて、その中から問題の本質を見極めて、どれをやり、どれを外すのかを決めていく。結果的にT社とか技術開発とかが最重要かもしれないけれど、多分それ以外のテーマも必ず必要になるはずだ。そういう時に、漏れなく目配りをした上で効果や優先順位などを体系的かつ論理的に分析するのが、いろいろな手法とかフレームワークと言われるものなんだ。ただし、分析の最終的な目的は総花的でない戦略施策の重点化だ。何にフォーカスするのか絞り込むポイントを見つけること、そのための論理的根拠を明らかにすることだ。それと、分かりやすく3つの分野といったが、現実には例えば市場の選択の戦略が単独で成り立つわけではなく、競争優位や新たな能力や資源を獲得する戦略が同時に必要となるケースが多い。だから、戦略の遂行はいくつかの施策を統合したプログラム的になるのが一般的だね。
おや、何か言いたそうだね。
<王を見て、依田さんが言った。>
あのう、何故3つの分野なのですか?例えば5つでなく。また、3つだとして何でこの3つなのですか?例えば、「顧客の視点」などは入らないのですか?
依田 さっき複雑なものの分析について君たちが言ったのと似ているが、様々な、つまり多様性の高い多数の事象を分析する場合、類似した事象毎にいくつかのグループに分類して、分析することが一般的だ。このグループをクラスターと呼ぶが、あるクラスターに属する事象の間では高い類似性や関連性があり、クラスターの間では互いに異質性が著しい。と言うか、そうなる様にクラスター分けを設定するのだが、クラスターをどういう基準で設定するか、またいくつに分類するかは、任意つまり特別な決まりはない。ただ、区分の仕方が優れているか否かは、当然だがその後の分析の有効性に大きく影響する。
ここで、市場の選択、競争優位、資源の獲得・強化の3つのクラスターは、上位の戦略目的(企業の場合、一般的には利益の獲得)の為に、戦略が獲得を目指す成果を分類したものだ。それは、これらの成果の内容によって、実務としての計画と行動の内容に大きな違いがあるからだ。学術的には、これらの分類に対応する分野別に専門家がおり、重要な理論研究がされている。王君が言った顧客の視点は、これらの達成すべき成果の視点のクラスターに並ぶものとは考えにくいね。顧客の視点については、もっと別のところでよく考えることにしよう。
一方、主要な戦略的成果はおそらくこの3つの分類で8~9割はカバーされるだろうし、いたずらに議論を複雑化させないためには3つで良いだろう。まずこれで考察した上で、当てはまらないテーマがあれば、追加的に考察すればよいだろうね。
それと、さっきも「戦略の方策」」(第2回参照)という3種類の表がありました。あれとこの3つの分野との関係はどうなるのでしょう?
依田 おっ、いい質問だね。しつこく疑問を出すことは重要だ。表面的に納得していても、しっかり議論をしておかないと、肝心なところで失敗するからね。
前回の分類は、方策の視点つまり戦略を実践する場合に具体的に何をするのかという手段の視点でのクラスター分けだ。今回の方は戦略の目的あるいは成果で分けている。実際の戦略立案の実行フローは、まず目的があり、その目的を成果に分けるが、次の段階として誰に何をさせてその成果を達成するのかという流れになる。例えば、競争優位の獲得という成果の為に、新たな仕組みを作るのか、新たな価値を作るのかというような方策レベルの検討が必要だ。
前に階層化の話をしたけれど、戦略の概念を整理すると、まず目的があり、それを3種類のクラスターに分類した成果のレベルがあり、さらにそれぞれの成果を実現する方策のレベルがある。最上位の目的は利益という抽象的なものだが、ここで言う成果は少し具体的で、方策はさらに具体的な活動に近い位置にある。
そうすると3種類の方策は、市場の選択、競争優位の獲得、そして能力資源の獲得強化のそれぞれの中にあるということですか?
依田 そういうことだ。ただ、例えば、「能力・資源の強化の分野」では、「新たな仕組みの整備」は重要だが、「新たな価値の創出」というのは重要性が低いというように、それぞれのケースで重みに濃淡はあるだろうね。

事業戦略の3つの分野 [P2Mガイドブック(改訂3版)406頁]
事業戦略の3つの分野 [P2Mガイドブック(改訂3版)406頁]

宿題
以上で予備知識の整理が一段落して、次回以後は戦略立案のプロセスを考えつつ、戦略理論を速習するという。実際の事業戦略案の検討と並行して、理論を学習して戦略案に織込むのだが、以後は主に理論の学習の部分をお話ししよう。(「何故理論の部分だけか」ですって?戦略案自体は東麻布システム社の企業秘密だからですよ。)
依田 予備知識の整理が長くなったけれど、とりあえずここまでにして、次回から戦略理論の本題に入るけど、効率を上げるために事前学習の宿題を出そう。
<言いつつ、依田さんは書棚から「競争の戦略(マイケル・ポーター著)」[1]という分厚い本を取り出した。>
次回までにこの本を読んできてほしい。特に最初から70頁目まで「本書の概要」、「1.業界の構造分析法」と「2.競争の基本戦略」の部分は、しっかり理解しておくこと。但し、同じポーター先生の「競争戦略論Ⅰ、Ⅱ」という本もあるが、それではない。間違えないように。
随分古くて厚い本ですね。
依田 確かに、原書は1980年に出版された経営学の古典で、この翻訳版も1982年の出版だ。経営学の基本図書だから、その要旨は経営学のどの教科書にも最初の方に数ページで紹介されているし、君たちもその一部を聞きかじったかもしれない。でも君たち実務家にとって、4~5頁に要約された教科書的知識をいくら覚えても、現実の複雑性には歯が立たない。自社の戦略を自分の頭で考えるプロセス、つまり戦略分析として、何を対象として選び、どのように分解し、どのように推論を積み重ねるのかという経験が重要だ。その意味で、この本は戦略分析について、具体的な思考プロセスが細かく書かれているので良いお手本になる。テーマは競争戦略の分野だけだが、論理的とか体系的に考えるとはどういうことかという意味で、その他の分野についても参考になる。だから、いくら古くなっても経営学や戦略論を目指すうえでは必読書と言えるし、実務家こそ読むべき本なんだ。
分かりました。この他にどんな本を勉強したらいいですか。何しろ題名に「戦略」とつく本はものすごい数がありますから。なあ王君。
この間、アマゾンで「戦略」を検索したら、1万9千件以上ありました。さらに、洋書の部で"strategy"を検索したら、こちらは何と10万件もありました。もちろん、戦略と言っても軍事戦略もあるし、戦略的思考とかマーケティング戦略からサッカーの戦略などまで、沢山含まれていますが。
依田 確かに、経営戦略関係だけでも沢山あるから、何を読めばいいか選ぶのが大変だ。経営とか事業戦略はいわば総合芸術みたいなもので、すそ野が広い。本を読むといっても、必読書、重要な参考書、視野を広げるのに役立つ本、もしかしたら役立つかもしれない本、面白いが関係ない本、時間の無駄になる本などいろいろだ。研究者か実務家かなどの立場でも重要か否かが違ってくる。最も基本的な本を順繰りに紹介するけど、それに限らず仕事に関係する本や資料を継続的に勉強してほしい。
うなずく二人を見て、「いいね」と笑顔で依田さんは念を押した。次回は競争戦略の考え方について、ポーター著「競争の戦略」を参考に議論することになった。依田さんは、宿題の本をよく読むこと、そして自分の立場に引き当ててより具体的に理解することが大事だと付け加えた。

朝のエレベータで
「橘君、その後進んでいるかね。」翌朝、会社のエレベータに駆け込んだ橘は山田常務と鉢合わせになった。橘は、事業の現状の分析と並行して、港大学の依田准教授から戦略立案プロセスの基礎についての手ほどきをしてもらっていることを説明した。「うん、依田先生か。それで?」促されるままに橘はエレベータから降りて、役員室の前の廊下で立話になった。彼は、事業戦略の3つの分野に関する戦略分析の話と、競争優位に関する宿題、そしてその先はP2Mの手法で戦略シナリオを検討する予定であることを、手短かに説明した。
山田 なるほど。うまく進めているようだな。だけど、戦略の理論というのは、その3分野だけではないだろう。研究者ではないから、実務的に効率的な所にフォーカスすることは賛成だけど。
戦略理論には色々なアプローチがあり、このほかにもゲーム論的な戦略理論とか、個別企業の戦略の成功や失敗などのケーススタディも重要ですし、戦略シナリオの研究などもあります。戦略理論のアプローチを分類すると10とか15にもなるようですが、戦略理論の研究ではなく、戦略立案という視点では、さっきの3つで主な対象はほぼカバーすると思います。第一、全部を勉強していては1年かけても戦略案がまとまりません。これで進めて、途中で必要となる知識は、その都度仕入れます。その方が何を調べればよいかが分かっているので、はるかに効率的と思います。
山田 確かに、大学の学生なら様々なケースを勉強すればいいが、時間がない実務者の場合、問題の所在をある程度はっきりさせた上で、類似のケースを勉強した方がいいのだろうな。理想を求めて時間切れギブアップでは、時間と労力の全くの浪費だからな。ま、よく考えながらやってほしいね。勉強は今回で終わりではなく、一生ついて回るのだから。
分かりました。今回のやり方は、経営学の学生ではなくMOTつまり技術経営の実務家の大学院学生を対象にして、港大学で依田先生が教えているものがベースで、そのさらに要約版だそうです。
山田常務がほほ笑んだように見えた。言葉にしたことで何か自信らしいものが湧くのを感じながら、橘は階段を駆け上がって自分のオフィスに向かった。

[1] : M.E.ポーター「競争の戦略」(土岐他訳)ダイヤモンド社(1982)

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