「『戦略理論を学習すること』と『事業戦略を立案すること』は全く違うプロセスだ。何十冊も立派な本を読めば、知識だけは沢山増えるが、それを使う方法論を知らなければ、知識は宝の持ち腐れだし、読むために使った時間は浪費とも言える。戦略理論はゴルフの教則本みたいなものだ。いくら読んでも、それだけではゴルフがうまくなる訳ではない。コースという現場は地形は一定でないし気象条件も変化する。その場その場で、理論を応用して状況をどう読みどう攻めるのかプランを立て実行していく別の能力が要求される。条件が変化するという意味でゴルフはかなり複雑なスポーツだが、事業経営はさらに何百倍(?)も複雑だ。(もっとも、比べても意味はないがね。)」依田さんの話を要約すると、こんなところだ。
理論的知識は必須だが、それを使って事業戦略案を作っていくプロセスで、最初に必要なのが戦略の目指す成果が何であるかを定めることだ。戦略の対象を決めると言ってもいいが、これが漠然としていては何をやっても中途半端になる。これには実務的にはまずは3つの分野を考える必要がある。 |
依田 |
ところで、君たちは事業戦略として、今どんなことを考えているのかな?一番重要なテーマは何? |
橘 |
何といってもT社との競争に勝つことですね。それからブルーオーシャン戦略ではないけど、新製品を開発して競争の少ない新市場に進出することもあります。 |
王 |
戦略の中には、研究開発を進めて生産技術力を高めることも入れたいと思っています。<王の補足を聞いて依田さんはニヤリとした。> |
依田 |
ふーん。でも、なぜそう言うのかしっかりした根拠を説明できる?<依田さんは立ち上がって白板に3つの円を描いた。>競争といってもT社だけ考えればいいの?それに新製品を開発しても、すぐ新市場で沢山売れ始めるのかな?システマティックに考えなければね。
事業戦略で考えなければいけないことは沢山あるし、一方戦略理論にも色んなものがあるのだけれども、多くのケースでは、まずは戦略が目指す成果に関するこの3つの分野について考えるといいだろう。 |
依田さんは白板の一番上の円に「市場の選択」、右下の円に「競争優位の獲得」そして左下の円に「能力・資源の獲得強化」と書き込んだ。 |
依田 |
企業の戦略というと、まず競合他社に対する競争優位の獲得つまり競争戦略を考えるよね。<依田さんは軽く握った拳で、図の「競争優位の獲得」のところをコツコツとたたいた。>それはそれでいいんだけれども、会社にとってもっといい理想的状態は何かな? |
橘 |
市場の独占とかダントツの一位とかでしょう?ゴリゴリ戦うより競争がほとんどない状態がいいですよね。 |
依田 |
そうだね。だけど、そういう市場をどう見つけるのかあるいは作り出すかが問題だ。つまり、どんな市場を選んで戦うのか「市場の選択」の方が競争戦略よりもっと有効かもしれない。ブルーオーシャン戦略が有名だが、独占でなくても2~3社くらいの寡占状態も結構有効だ。プリンタや携帯電話の市場を見ればわかるよね。
競争戦略にしても、現に直接的に顧客を争っている同業他社だけではなく、長期的には別の種類の強力な競争相手が出てくる可能性もある。ゲーム機の市場が予想外のスマホのゲームアプリに侵食されているのが一つの例だ。君の会社の戦略では、T社以外の新たな競争相手についても考えておく必要があるね。図に書いてあるファイブフォーシズというのはそういう競争の分析手法の一つだ。
それから、王君が言ったように研究開発で技術力を高めるのは大事だけど、研究開発は手段であって目的ではない。確かに技術力は高いほうがいいが、それが収益性に直結するかといえば必ずしもそうではない。君たちがいま戦略を考えていること自体が技術力よりマネジメント力の問題だし、君の会社は技術力はいいらしいがマネジメント力が高いという評判はあまり聞いたことがない。 |
橘 |
厳しいことをいうなあ。でも、本当だからしょうがないか。<橘と王は顔を見合わせた。> |
依田 |
会社や組織はどんな能力や資源が必要かが先ずあって、それらを如何に獲得したり強化するかだ。これが3番目の能力・資源の獲得・強化の意味だ。強みを伸ばすことも必要だが、苦手だといって弱みから目をそらしてはいけないよね。 |
橘 |
まあ、分かってはいるんですがね。<橘の声が細くなった。> |
依田 |
戦略は大きな長期の成功のためだ。頭から「T社との競争」とか「技術開発」とか決め打ちではなく、最初はもっと幅広く課題や可能性を考えて、その中から問題の本質を見極めて、どれをやり、どれを外すのかを決めていく。結果的にT社とか技術開発とかが最重要かもしれないけれど、多分それ以外のテーマも必ず必要になるはずだ。そういう時に、漏れなく目配りをした上で効果や優先順位などを体系的かつ論理的に分析するのが、いろいろな手法とかフレームワークと言われるものなんだ。ただし、分析の最終的な目的は総花的でない戦略施策の重点化だ。何にフォーカスするのか絞り込むポイントを見つけること、そのための論理的根拠を明らかにすることだ。それと、分かりやすく3つの分野といったが、現実には例えば市場の選択の戦略が単独で成り立つわけではなく、競争優位や新たな能力や資源を獲得する戦略が同時に必要となるケースが多い。だから、戦略の遂行はいくつかの施策を統合したプログラム的になるのが一般的だね。
おや、何か言いたそうだね。<王を見て、依田さんが言った。> |
王 |
あのう、何故3つの分野なのですか?例えば5つでなく。また、3つだとして何でこの3つなのですか?例えば、「顧客の視点」などは入らないのですか? |
依田 |
さっき複雑なものの分析について君たちが言ったのと似ているが、様々な、つまり多様性の高い多数の事象を分析する場合、類似した事象毎にいくつかのグループに分類して、分析することが一般的だ。このグループをクラスターと呼ぶが、あるクラスターに属する事象の間では高い類似性や関連性があり、クラスターの間では互いに異質性が著しい。と言うか、そうなる様にクラスター分けを設定するのだが、クラスターをどういう基準で設定するか、またいくつに分類するかは、任意つまり特別な決まりはない。ただ、区分の仕方が優れているか否かは、当然だがその後の分析の有効性に大きく影響する。
ここで、市場の選択、競争優位、資源の獲得・強化の3つのクラスターは、上位の戦略目的(企業の場合、一般的には利益の獲得)の為に、戦略が獲得を目指す成果を分類したものだ。それは、これらの成果の内容によって、実務としての計画と行動の内容に大きな違いがあるからだ。学術的には、これらの分類に対応する分野別に専門家がおり、重要な理論研究がされている。王君が言った顧客の視点は、これらの達成すべき成果の視点のクラスターに並ぶものとは考えにくいね。顧客の視点については、もっと別のところでよく考えることにしよう。
一方、主要な戦略的成果はおそらくこの3つの分類で8~9割はカバーされるだろうし、いたずらに議論を複雑化させないためには3つで良いだろう。まずこれで考察した上で、当てはまらないテーマがあれば、追加的に考察すればよいだろうね。 |
王 |
それと、さっきも「戦略の方策」」(第2回参照)という3種類の表がありました。あれとこの3つの分野との関係はどうなるのでしょう? |
依田 |
おっ、いい質問だね。しつこく疑問を出すことは重要だ。表面的に納得していても、しっかり議論をしておかないと、肝心なところで失敗するからね。
前回の分類は、方策の視点つまり戦略を実践する場合に具体的に何をするのかという手段の視点でのクラスター分けだ。今回の方は戦略の目的あるいは成果で分けている。実際の戦略立案の実行フローは、まず目的があり、その目的を成果に分けるが、次の段階として誰に何をさせてその成果を達成するのかという流れになる。例えば、競争優位の獲得という成果の為に、新たな仕組みを作るのか、新たな価値を作るのかというような方策レベルの検討が必要だ。
前に階層化の話をしたけれど、戦略の概念を整理すると、まず目的があり、それを3種類のクラスターに分類した成果のレベルがあり、さらにそれぞれの成果を実現する方策のレベルがある。最上位の目的は利益という抽象的なものだが、ここで言う成果は少し具体的で、方策はさらに具体的な活動に近い位置にある。 |
王 |
そうすると3種類の方策は、市場の選択、競争優位の獲得、そして能力資源の獲得強化のそれぞれの中にあるということですか? |
依田 |
そういうことだ。ただ、例えば、「能力・資源の強化の分野」では、「新たな仕組みの整備」は重要だが、「新たな価値の創出」というのは重要性が低いというように、それぞれのケースで重みに濃淡はあるだろうね。 |