東麻布システム株式会社は、新興勢力ではあるが、技術力を武器に成長しており、得意分野のいくつかは業界の1-2位、全体でも老舗の大手2社に迫る勢いで業界3位の位置にある。
橘のグループはA社への大規模システムの納入が済んで、メンバーはみな少しほっとしている。そんなある昼下がりのオフィス。デスク上のPCに張り付いているのは20~30歳台の男女。カタカタとあちこちのキーボードの音だけが流れる中で、橘は難しそうな顔でPC画面を睨んでいる。
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橘 |
参ったなー。A社のシステム納入が済めば、少しは楽になるかと思ったのに。A社のあおりで、他のプロジェクトはどれも遅れているよ。 |
山田 |
橘君、暇ある?(フラリと部屋に入ってきた山田常務が橘に声をかけた。) |
橘 |
ええ、まあ。(PCを操作する手を止めずに答えた。) |
山田 |
ちょっと話があるんだが。(山田常務は隅の打合せ机の椅子に腰を下ろして橘を呼んだ。) |
山田 |
入社して10年以上だろう。幾つになった?ああ34か。 |
山田 |
社長とも話したんだが、うちの事業部の事業戦略の見直しの原案を君に考えてもらおうと思ってね。我が東麻布システムが、何処を目指して、何を実現する、そのために何をするのかという戦略の具体論をきちんと考えてほしいんだ。ただお題目を並べるだけの戦略じゃないぞ。 |
橘 |
いきなりの話で、吃驚しますよ。何故私なのですか?「我社には戦略がない」などとボヤいた覚えがないとはいいませんが、正直、事業戦略なんて考えたこともありません。 |
山田 |
そんなことをボヤいていたのかね。しょうがないな。
俺が最初の事業戦略らしきものを作ったのは、社長と会社を始めて何とか落ち着いた頃だよ。無手勝流だったけどね。30歳の頃だったんだ。
昨今の市場の動向では、ここらで大きな戦略の見直しが必要だ。目先はもちろんだが5年・10年先を考えると、戦略には若い目線も大事だということなんだ。君もあっという間に40になる。どうだね、やってみないかね。 |
山田 |
まずは6週間くらいで、基本線を報告してくれないか。誰の知恵を借りてもいいが、最後は自分の頭で考えること。
ああ、それから王君も専従にしたらどうかな。それと、この話は今野君にも言ってあるから。
(返事をためらう橘を無視してそれだけ言うと、山田常務は出て行ってしまった。) |
橘 |
専従といったって、俺も王君もフルに仕事を抱えている身なのに、上の人は気楽なもんだよね。(小声のボヤキが出た。)
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山田常務は橘が入社当時は部長で、直属の上司であった。そのためか、山田さんからは、直属上司の今野部長をすっ飛ばしてグループリーダクラスに話が下りてくることは珍しくない。今野さんも長年山田さんの部下だったから、彼のやり方には慣れている。この話を今野さんにしたら、「そうらしいな。まあ、気張ってやれや。」とあっさりしたものだ。 |
翌週、橘は部下の王哲を連れて港大学経営戦略研究室に准教授の依田を訪ねた。依田は経営戦略分野で売出し中の新進研究者である。アメリカの大学でPhDを取ってきて、最近は経済雑誌などにも時折名前が出るようだ。橘の高校の数年先輩だが、このところ凝り始めた釣りでは橘の弟子のような関係だ。それで、この研究室にも何回か出入りしている橘は気楽な調子で話を始めた。
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橘 |
そんな訳で、ここにいる王君と新しい事業戦略案を作るんですが、そんなことは初めてだし、戦略といったって、どうも色々な考え方がある様で、纏めようとすると堂々巡りの感じがしてきて困っているのですよ。そこで、依田さんは専門の先生らしいし、手っ取り早く事業戦略とは何か、戦略論のさわりのところを整理して教えてくれませんかね。 |
依田 |
改まって研究室まで来たと思ったらそんなことか。
でも、これは会社として絶対にやらなければいけないことだよね。これからは戦略のない会社は伸びないし、若手の有望株に戦略思考をキチンと植えつけることも重要課題だからね。日本企業では、戦略理論もよく知らない経営者や上級マネジャーが罷り通っているから困ったものだよ。聞きかじりや受け売りで、場当たり的に決めてこれが戦略だと思っている始末が悪いケースも多いね。もちろん経験と独学で立派に自社の戦略理論を確立した尊敬すべき経営者も少なくないが。
それで、今までどんなことをやったのかな? |
橘 |
まずは、うちの事業部の分野別の経営状況を整理して、それから分野ごとの今後の見通しなどを聞いています。戦略論については、気になる本をいくつか読んで勉強を始めたところですが、このペースじゃあ間に合わないので... |
依田 |
どんな本を読んでいるの? |
橘 |
経営学の入門書のほか、ドラッカーとか、ブルーオーシャン戦略なんかですかね。 |
王 |
あと、イノベーションという意味で戦略に関係の深そうなモジュール化とかオープンアーキテクチャの本も読んでいます。区立の図書館で『戦略サファリ』なんて本を借りたのですけど、話があちこち飛ぶ感じで、すぐにギブアップでしたね。 |
依田 |
経営戦略論というのは、経営学の大きな一部門だが、事業経営というのは非常に複雑なものだよね。その業界の過去・現在・未来は業界ごとに違うし、その上、会社ごと、事業ごと、さらにはマネジャーごとに能力や置かれた立場が全く違うのはご承知の通りだ。これに対し、経営学というのは、企業経営・事業経営の中での意思決定つまり経営上の打ち手をどう選ぶべきかを理論化する学問、もっと言えば一般法則を目指す学問と言えるだろう。ただし、理論とか法則といっても、適用する現場は個々の企業や事業の置かれた環境、持っている資金や人材などの資源の違い、経営者など意思決定者のもつ願望や事業スタイルとかが影響するから、結論としての意思決定自体は組織ごとに大きく異なるものになる。その点、物理学や数学そして力学のような自然科学の法則とは大きな違いがあるとも言えるね。
ところで、こうした企業経営の中でいう戦略とはどういうことかな? |
橘 |
自社の大きな目的や目標に向かって進む上での大きな方針や作戦ですかね。競争に勝つポリシーというのか、仕事をする上での基本的な方針ではないですか。 |
王 |
会社のミッションなんていうのも戦略に関係しますね。 |
依田 |
経営のやり方は企業ごとの環境の違いが複雑だから、その戦略についての見方・考え方も様々な流儀というか学派がある。そこが面白いともいえるのだが。さっき王君が言っていたミンツバーグの戦略サファリという本は、アフリカのサバンナにいる動物の種類のように、戦略論には主なものでも10種類ほどの学派があるとして、少し皮肉っぽくそれぞれの特徴を描いている。同じ戦略論といっても、シマウマとライオンを区別しないで読んだのでは、よく分からなくなるということなんだ。 |
依田さんは、第1の論点である「戦略とは何か」とそれに関連する事項について説明を始めた。
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【戦略とは?】 |
依田 |
「戦略」にはいろいろな定義があるが、自社の事業戦略を考える立場なら、さっき言ったように「事業活動の長期的な成功を最大化することを目的とした基本的計画または意思決定の基本方針」と言えるだろう。
ここで、「長期的成功」とは事業の持続的な成功という意味で、目先のこまごました成功はさておき長期の成功を重視すると言うことだ。ここで一番の問題となるのは「成功」とは何かだが、これについては後で詳しく考えよう。また「基本的計画または意思決定の基本方針」と並べたのは、戦略を具体的に遂行する計画として見る考え方と組織行動の意思決定のレベルでみる考え方があるからだ。この他にも組織の(成功した)行動パターンだとする考えもあるが、これも後で説明しよう。
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【自社の戦略】 |
依田 |
戦略という言葉が色々な意味で使われるから、経験が少ない人は戸惑うが、理論としての戦略つまり「戦略理論」あるいは「戦略論」と君の会社の戦略つまり「自社の戦略」は全く違うから、これを混同してはいけない。
つまり戦略理論は抽象的であり客観的であるのに対し、自社の戦略は単なる理論ではない。それは経営者の主観的判断と意思に基づく個別具体的で組織的な活動の方針なんだ。抽象的とは様々な事象の本質を抜き出して一般化して説明すること、つまり抽象によってトヨタもソニーもソフトバンクも君の会社の場合もさらにはアップルだって、同じ理論で共通的に説明できる。ここに大きな価値があるし、それを知らなければ大きな間違いを犯す。しかし、言うまでもなく君の会社の具体的状況はトヨタやアップルとは全く違う。個々の事情は戦略理論の一般的な想定とは違うか無視されているから、その理論を表面的に鵜呑みにしてはいけないことも多い。だから、トヨタとホンダ、ソニーとパナソニックの戦略は同じ部分もあるが、全く違う部分も多い。自社固有の戦略では、抽象的な戦略理論の受け売りではなく、それを君がどう活用するかが重要だ。(依田さんは「君が」に特に力を込めて言った。)
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【階層性】 |
依田 |
言うまでもないが経営や戦略には階層性がある。忘れる人がいるから念のために言うと、戦略を議論する場合、それが会社全体の企業戦略なのか、会社の一部の事業を対象にした事業戦略なのか、さらには下位のプログラムやプロジェクト遂行あるいは職能区分の業務に関連した戦略なのか、階層に注意が必要になる。もっとも、あまり下位の階層は戦略ともいえなくなるが。一般に企業はいくつかの異なる種類の事業を営んでいるが、原則として個々の事業戦略は上位の企業戦略に整合している必要がある。 |
依田 |
とりあえず今日の話はここまでにしようか。
次回までの宿題として、事業の「ミッション」や「ビジョン」と、よく言われる「規模の経済」とはどんなことか調べてくるように。
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今日ところは、議論の入り口として言葉の整理が中心で、似たような言葉でも使うときには注意が必要だということ。整理して考えれば、戦略もそれほど難しくなさそうだ。宿題の言葉も、結構よく出てくるけれども、こうした言葉は、何気なくとか聞きかじりではない正確な意味を理解して使うことが大事だと、依田さんが念を押した。 |