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エッセンシャル・セミナー:事業戦略のつくり方

清水 基夫 [プロフィール] :4月号

第1回:
 
橘圭吾(たちばなけいご):東麻布システム株式会社システム事業部で将来を嘱望されるグループリーダ、34歳である。
ある日、彼は上司から所属事業部の中期事業戦略を立案することを命じられた。戦略という言葉は、これまでも会社の中期計画などに沢山出ているが、プロジェクトの技術畑一筋の彼には縁遠い話だった。戦略立案は経営の経験がなくてもできるのか?戦略理論はいろいろあるが、どの理論が自社に当てはまるのか?様々な疑問を抱えて、橘は経営学を専門とする港大学准教授依田智史(よださとし)に「戦略」の基礎知識の手ほどきを要請する。

○ プロローグ

東麻布システム株式会社は、新興勢力ではあるが、技術力を武器に成長しており、得意分野のいくつかは業界の1-2位、全体でも老舗の大手2社に迫る勢いで業界3位の位置にある。
橘のグループはA社への大規模システムの納入が済んで、メンバーはみな少しほっとしている。そんなある昼下がりのオフィス。デスク上のPCに張り付いているのは20~30歳台の男女。カタカタとあちこちのキーボードの音だけが流れる中で、橘は難しそうな顔でPC画面を睨んでいる。

参ったなー。A社のシステム納入が済めば、少しは楽になるかと思ったのに。A社のあおりで、他のプロジェクトはどれも遅れているよ。
山田 橘君、暇ある?(フラリと部屋に入ってきた山田常務が橘に声をかけた。)
ええ、まあ。(PCを操作する手を止めずに答えた。)
山田 ちょっと話があるんだが。(山田常務は隅の打合せ机の椅子に腰を下ろして橘を呼んだ。)
山田 入社して10年以上だろう。幾つになった?ああ34か。
山田 社長とも話したんだが、うちの事業部の事業戦略の見直しの原案を君に考えてもらおうと思ってね。我が東麻布システムが、何処を目指して、何を実現する、そのために何をするのかという戦略の具体論をきちんと考えてほしいんだ。ただお題目を並べるだけの戦略じゃないぞ。
いきなりの話で、吃驚しますよ。何故私なのですか?「我社には戦略がない」などとボヤいた覚えがないとはいいませんが、正直、事業戦略なんて考えたこともありません。
山田 そんなことをボヤいていたのかね。しょうがないな。
俺が最初の事業戦略らしきものを作ったのは、社長と会社を始めて何とか落ち着いた頃だよ。無手勝流だったけどね。30歳の頃だったんだ。
昨今の市場の動向では、ここらで大きな戦略の見直しが必要だ。目先はもちろんだが5年・10年先を考えると、戦略には若い目線も大事だということなんだ。君もあっという間に40になる。どうだね、やってみないかね。
山田 まずは6週間くらいで、基本線を報告してくれないか。誰の知恵を借りてもいいが、最後は自分の頭で考えること。
ああ、それから王君も専従にしたらどうかな。それと、この話は今野君にも言ってあるから。
(返事をためらう橘を無視してそれだけ言うと、山田常務は出て行ってしまった。)
専従といったって、俺も王君もフルに仕事を抱えている身なのに、上の人は気楽なもんだよね。(小声のボヤキが出た。)

山田常務は橘が入社当時は部長で、直属の上司であった。そのためか、山田さんからは、直属上司の今野部長をすっ飛ばしてグループリーダクラスに話が下りてくることは珍しくない。今野さんも長年山田さんの部下だったから、彼のやり方には慣れている。この話を今野さんにしたら、「そうらしいな。まあ、気張ってやれや。」とあっさりしたものだ。

○ 港大学経営戦略研究室

翌週、橘は部下の王哲を連れて港大学経営戦略研究室に准教授の依田を訪ねた。依田は経営戦略分野で売出し中の新進研究者である。アメリカの大学でPhDを取ってきて、最近は経済雑誌などにも時折名前が出るようだ。橘の高校の数年先輩だが、このところ凝り始めた釣りでは橘の弟子のような関係だ。それで、この研究室にも何回か出入りしている橘は気楽な調子で話を始めた。

そんな訳で、ここにいる王君と新しい事業戦略案を作るんですが、そんなことは初めてだし、戦略といったって、どうも色々な考え方がある様で、纏めようとすると堂々巡りの感じがしてきて困っているのですよ。そこで、依田さんは専門の先生らしいし、手っ取り早く事業戦略とは何か、戦略論のさわりのところを整理して教えてくれませんかね。
依田 改まって研究室まで来たと思ったらそんなことか。
でも、これは会社として絶対にやらなければいけないことだよね。これからは戦略のない会社は伸びないし、若手の有望株に戦略思考をキチンと植えつけることも重要課題だからね。日本企業では、戦略理論もよく知らない経営者や上級マネジャーが罷り通っているから困ったものだよ。聞きかじりや受け売りで、場当たり的に決めてこれが戦略だと思っている始末が悪いケースも多いね。もちろん経験と独学で立派に自社の戦略理論を確立した尊敬すべき経営者も少なくないが。
それで、今までどんなことをやったのかな?
まずは、うちの事業部の分野別の経営状況を整理して、それから分野ごとの今後の見通しなどを聞いています。戦略論については、気になる本をいくつか読んで勉強を始めたところですが、このペースじゃあ間に合わないので...
依田 どんな本を読んでいるの?
経営学の入門書のほか、ドラッカーとか、ブルーオーシャン戦略なんかですかね。
あと、イノベーションという意味で戦略に関係の深そうなモジュール化とかオープンアーキテクチャの本も読んでいます。区立の図書館で『戦略サファリ』なんて本を借りたのですけど、話があちこち飛ぶ感じで、すぐにギブアップでしたね。
依田 経営戦略論というのは、経営学の大きな一部門だが、事業経営というのは非常に複雑なものだよね。その業界の過去・現在・未来は業界ごとに違うし、その上、会社ごと、事業ごと、さらにはマネジャーごとに能力や置かれた立場が全く違うのはご承知の通りだ。これに対し、経営学というのは、企業経営・事業経営の中での意思決定つまり経営上の打ち手をどう選ぶべきかを理論化する学問、もっと言えば一般法則を目指す学問と言えるだろう。ただし、理論とか法則といっても、適用する現場は個々の企業や事業の置かれた環境、持っている資金や人材などの資源の違い、経営者など意思決定者のもつ願望や事業スタイルとかが影響するから、結論としての意思決定自体は組織ごとに大きく異なるものになる。その点、物理学や数学そして力学のような自然科学の法則とは大きな違いがあるとも言えるね。
ところで、こうした企業経営の中でいう戦略とはどういうことかな?
自社の大きな目的や目標に向かって進む上での大きな方針や作戦ですかね。競争に勝つポリシーというのか、仕事をする上での基本的な方針ではないですか。
会社のミッションなんていうのも戦略に関係しますね。
依田 経営のやり方は企業ごとの環境の違いが複雑だから、その戦略についての見方・考え方も様々な流儀というか学派がある。そこが面白いともいえるのだが。さっき王君が言っていたミンツバーグの戦略サファリという本は、アフリカのサバンナにいる動物の種類のように、戦略論には主なものでも10種類ほどの学派があるとして、少し皮肉っぽくそれぞれの特徴を描いている。同じ戦略論といっても、シマウマとライオンを区別しないで読んだのでは、よく分からなくなるということなんだ。

○ 日本企業には「戦略」がない

依田さんはコーヒーサーバーで、マグカップにコーヒーを淹れると、橘たちに「まあ、自分でやって。」と目配せをした。コーヒーを手に、依田さんが何か考えている間に、橘たちも紙コップを取ってコーヒーを淹れる。結構いいコーヒーだなと感心していると、依田さんは「戦略」の意味について話を始めた。

依田 さて、手始めに言葉の整理をしよう。
戦略という言葉自体が、実に多様かつ安直に使われている。三品和弘先生の本によれば、日経ビジネスのある1年間で、69種類の「戦略」を含む言葉が合わせて7,000回以上も使われていたという。こんなにいろんな意味に使われるから、誰しも悩むのだが、本来の企業戦略とは「会社の長期的な成功を目的とした基本的な計画や方針、あるいはそのための意思決定の基本的な指針」というあたりだろう。
ただ、目的や目標というと、たとえば「売上高1,000億円の達成」みたいなものが出てくるが、それだけでは単なる予測か願望であって、戦略と言えるものではない。当たり前だが、まず自社の成功とは何であるか、つまり自分達は「何をやろうとしているのか」の本質を見定めて、それに対する戦略を考えることが重要なんだ。
うーん、1,000万台以上を売って世界一になると言って、大失敗したドイツの自動車会社があったっけ。あれは単なる数字の目標であって戦略ではないということですね。でも、分かったような、分からないような・・・。いつも山田常務が話しているのを聞いていると、要するに重要なのは「選択と集中」の戦略のように思えるんですけどね。
依田 確かに選択と集中は重要な戦略の一つで、日本でも20年以上前から言われているが、掛け声だけでうまくできない会社が多いね。選択と集中と言いつつ、何を判断基準として選択し集中するのか、それが明確でないから失敗が多い。この場合、戦略立案上は、Whyの部分が重要だよね。もちろん事業戦略はそれだけではないから、もっと多くの視点も理解した上で考えていくことが重要なんだ。
日本では、戦略論に関するいい本も沢山翻訳されたり出版されているけど、戦略に責任がある経営者や上級マネジャー層が戦略論を体系的に勉強していないで、カンと経験で判断してしまうケースが多い。悩んではいるのだろうけど、一寸読んで飛びつくとか、他社に遅れるなとかで決めてしまう。言い換えれば論理的な意思決定ができない傾向が強いということだ。
マイケル・ポーターという現代経営学の教祖みたいな大先生が、「日本の企業には戦略がない。」とはっきり本に書いているが、ここらあたりを指摘しているのだろうね。もちろん、日本企業にだって戦略性が何も無い訳ではないのだけどね。
まあ、戦略思考という点で弱いことは確かだな。マネジャークラスが戦略をきちんと勉強していないことについてはこんな調査もあるよ。(依田さんはファイルから資料を抜き取ってテーブルに置いた。)

○ 論点のまとめ

次に、依田さんは橘たちが何を教えてほしいのか、つまり論点が何なのかについて整理した。

依田 少し整理してみようか?橘君たちは、本当は何を知りたいのかな?
目的は事業部の戦略の策定、当面はその原案の策定ですが、色々な要素が絡んで複雑で、それをどう整理して進めればよいのか自信がないのですよ。
知りたいのは、戦略策定には何を考えればよいのか?つまり考慮すべき要素は何かということと、戦略策定の手順、つまり考えて決定していく一般的な手順のようなものですかね。
依田 つまり、戦略の考慮すべき要素と策定の手順ということかな。そのほかに、君たちには「そもそも戦略とは何か」という一番基本の点について整理が必要かもしれないね。これで良いかな? (言いつつ、依田さんは3つの項目をホワイトボードに書き、最後にその上に「事業戦略のつくり方」とタイトルを書いた。)
 
エッセンシャル・セミナーですか。中身もこんなところです。それを参考にして、俺たちが事業戦略の具体案をまとめるわけですね。
依田 時間もないようだから、実務上本質にかかわる大事な事柄つまりエッセンスに絞ること、それから戦略論の単なるお勉強ではなく「戦略を作る」ことを意識しよう。絞るといっても手を抜いてはだめだ。大事なポイントをきちんと押さえれば会社の大きな力になるよ。もちろん君たち自身の実力も一段上がる。それから、山田常務も言っていたらしいが、具体論は君たちが自分の頭で考えることが重要だ。戦略の分析にはいろいろな理論やフレームワークがあるけれども、主だったところは、かいつまんで話すから、あとは事業部戦略の必要に応じて本を読んだり、自分で考えてほしいい。具体的な戦略策定の手順は、プロジェクト活動に慣れている君たちにはP2Mのスキームモデルプロジェクトの考え方がいいのではないかな。

○ 戦略とは何か?

依田さんは、第1の論点である「戦略とは何か」とそれに関連する事項について説明を始めた。

【戦略とは?】
依田 「戦略」にはいろいろな定義があるが、自社の事業戦略を考える立場なら、さっき言ったように「事業活動の長期的な成功を最大化することを目的とした基本的計画または意思決定の基本方針」と言えるだろう。
ここで、「長期的成功」とは事業の持続的な成功という意味で、目先のこまごました成功はさておき長期の成功を重視すると言うことだ。ここで一番の問題となるのは「成功」とは何かだが、これについては後で詳しく考えよう。また「基本的計画または意思決定の基本方針」と並べたのは、戦略を具体的に遂行する計画として見る考え方と組織行動の意思決定のレベルでみる考え方があるからだ。この他にも組織の(成功した)行動パターンだとする考えもあるが、これも後で説明しよう。

【自社の戦略】
依田 戦略という言葉が色々な意味で使われるから、経験が少ない人は戸惑うが、理論としての戦略つまり「戦略理論」あるいは「戦略論」と君の会社の戦略つまり「自社の戦略」は全く違うから、これを混同してはいけない。
つまり戦略理論は抽象的であり客観的であるのに対し、自社の戦略は単なる理論ではない。それは経営者の主観的判断と意思に基づく個別具体的で組織的な活動の方針なんだ。抽象的とは様々な事象の本質を抜き出して一般化して説明すること、つまり抽象によってトヨタもソニーもソフトバンクも君の会社の場合もさらにはアップルだって、同じ理論で共通的に説明できる。ここに大きな価値があるし、それを知らなければ大きな間違いを犯す。しかし、言うまでもなく君の会社の具体的状況はトヨタやアップルとは全く違う。個々の事情は戦略理論の一般的な想定とは違うか無視されているから、その理論を表面的に鵜呑みにしてはいけないことも多い。だから、トヨタとホンダ、ソニーとパナソニックの戦略は同じ部分もあるが、全く違う部分も多い。自社固有の戦略では、抽象的な戦略理論の受け売りではなく、それを君がどう活用するかが重要だ。(依田さんは「君が」に特に力を込めて言った。)

【階層性】
依田 言うまでもないが経営や戦略には階層性がある。忘れる人がいるから念のために言うと、戦略を議論する場合、それが会社全体の企業戦略なのか、会社の一部の事業を対象にした事業戦略なのか、さらには下位のプログラムやプロジェクト遂行あるいは職能区分の業務に関連した戦略なのか、階層に注意が必要になる。もっとも、あまり下位の階層は戦略ともいえなくなるが。一般に企業はいくつかの異なる種類の事業を営んでいるが、原則として個々の事業戦略は上位の企業戦略に整合している必要がある。
依田 とりあえず今日の話はここまでにしようか。
次回までの宿題として、事業の「ミッション」や「ビジョン」と、よく言われる「規模の経済」とはどんなことか調べてくるように。

今日ところは、議論の入り口として言葉の整理が中心で、似たような言葉でも使うときには注意が必要だということ。整理して考えれば、戦略もそれほど難しくなさそうだ。宿題の言葉も、結構よく出てくるけれども、こうした言葉は、何気なくとか聞きかじりではない正確な意味を理解して使うことが大事だと、依田さんが念を押した。

○ 雑談

窓から差し込む明るい夕日の中で、冷えてしまったコーヒーを飲んで一息つくと、ニヤニヤしながら依田さんは続けた。

依田 ところで、これは会社にとって結構大事な話だよね。君たちに手間をかけて教えて、何か私の方にいいことがあるのかな?
エーと。うまく終わったら、山田常務に言って一席設けますよ。
依田 なんだ、同じイッセキといったって俺の方は船の方がいいな。 (一人称が俺に変わって、遊びモードだ。)
ん?何ですかそれ?
あー、この間言ってた八丈島へキンメの深海釣りに連れて行けってヤツでしょ。でも、東京湾のハゼ釣りで喜んでいる人にはまだまだ無理。相模湾でカツオ位でどうですか?道具も簡単だし、船頭が魚群を追っかけてくれるから、腕も戦略性も大して要りませんからね。まあ、基盤技術は俺が速成でしっかり教えてあげるからそれでチャラですね。
依田 ひどいね。ハゼ釣りばっかじゃないんだけどな。ま、期待しているよ。

<以下次回に続く>

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