グローバルフォーラム
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「グローバルPMへの窓」(第100回)
日系人に学ぶ

グローバルPMアナリスト  田中 弘 [プロフィール] :3月号

 今月は、私が種々の国際関係性を持つに至ったことと深く関係している日系人との交流について書きたい。日系人とは、海外在住または海外出身で日本人の血統を持つ人で、時に日本国籍を有する海外在住日本人をも含めることもあるが、通常は、出生国の国籍を有するいわゆる二世・三世などを指す。
 私は中学生の頃から北米と中南米の日系人に強い興味を持ち、若干の個人的研究を行ってきた。そもそものきっかけは、1950年代に、東京の下町の小学生の常で熱狂的な読売ジャイアンツファンであった私は、ハワイ出身でジャイアンツに在籍したウォーリー(Wallace)・ヨナミネ選手やエンディー(Andy)・ミヤモト選手の鮮烈なプレーに魅了され、後楽園球場の選手出口でサインを貰うべく陣取ることも数度(ついにサインは貰えなかったが)。両選手がなぜ外見は日本人であるのに、雰囲気がまるで異なり、これほど鮮烈なプレーをするかという疑問から、血統的には純粋の日本人が海外で生まれ、その国の国籍を持ち、その国で育つとどうなるのか、という問題意識が生まれたことによる。
 ヨナミネ氏の息子さんのポール(Paul)・ヨナミネ日本IBM社長は最近の日経新聞夕刊「こころの玉手箱」にエッセイを寄稿された。お父さんが、かのウォーリー氏かと驚き、ポール氏のエピソードに心打たれたが、私自身の原点の問題意識に照らすと大変面白いのは、①ハワイ育ちの二世であるお父さんのウォーリー氏は、日本在住38年、現役引退後も中日他で監督・コーチを務め立派な実績を残し、星野仙一氏ほか元「部下」からも大変な信望を得ており、日本プロ野球の名球会入りもしたが、日本語は日本を去るまでどうも不十分なレベルであったと報道されている、②一方三世であるが日本生まれ日本育ちであるポール氏は日本語も自然に話すとのこと。一般的には日系人だけでなく、血統の本家の国を離れて暮らす人達は世代(二世、三世、四世)を重ねるごとに先祖の言語を話せる度合いが急激に減っていくが、ポール氏の事例は興味深い。

大学に進学して所属したクラブ活動はラテンアメリカ研究会であり、4年次には1年間休学して南米ペルーに赴いた。自費による調査研究旅行であるが、テーマは「ペルーに於ける日系人の調査研究」だ。1965年7月から66年2月までペルーのリマ市に居住し、その間約4ヶ月は日系新聞「ペルー新報」の企画でペルー在住の日系人の実態調査を実施した。ペルー新報の長谷川治朗社長・主筆が企画責任者で、二世のカルロス(Carlos)・トミタ営業部長と私がペアでフィールド調査員となり、平均週4日首都のリマと近郊都市在住日系人の飛び込み路地調査を実施した。調査結果の総括はペルー新報紙上でなされ、また具体的な成果として「ペルー日系人住所録」が作成された。

私の訪秘を報じるペルー新報記事 調査結果によるペルー日系人住所録
私の訪秘を報じるペルー新報記事 調査結果による
ペルー日系人住所録

 トミタさんと私が直接インタビューをした日系人家族は約1千軒に及んだ。また、地方の日系人会経由書面による調査も行い4百件の追加データを得た。数年前にこの調査のことを日本の大学院の社会科学の教授に話したら、それは立派な社会科学の研究となり得たと言われたが、残念ながら研究者で身を立てることなど念頭になかったので原子記録を手元に残すことなど全く意識になかった。但し、ペルーを中心に南米に滞在した300日については週一の連載エッセイをペルー新報上に残した(自分の手元にはない)。
 今から50年前の記憶であるが、
当時全世代約3万人のペルー日系人社会は一世と二世以下の比率が1対3くらいであり、二世の年長者は40歳代後半に達し、三世が徐々に増えてきた時代であった。
ペルーは日本人の海外移住先で最古の国であり、第二次大戦前にペルーに移住し成功した人たちは敵国人の有力者として約2千名が米国の日系人隔離キャンプに送られるなど苦難の時を過ごしたが、戦後苦労の末に徐々に国での信頼を再構築していた。
成人していた二世は、第二次大戦で、米国の二世達と同じように「二つの故国」問題(自分の生まれた国に忠誠を尽くすか、日本人の血統を持つ者として日本に忠誠を尽くすか)に翻弄された。子どもの将来を考えて交換船(第二次世界大戦当時に、開戦により枢軸国、連合国双方の交戦国や断交国に取り残された外交官や駐在員、留学生、一般市民を帰国させるために運航された船のこと)で日本の親族の元に送られた二世は帰来二世と呼ばれ、二度と故国ペルーの地を踏めずにいる人も多かった。
日系人(この場合一世)の出身県は沖縄が7割、残りが広島、山口、福島などであり、各々の県人会と沖縄の場合は村人会が在った(PMAJの理事長になってから沖縄や広島に何度も行って、ペルーで話されていた日本語のルーツが分かった)。
一世や年長の二世はほとんどが商店か軽工業経営者であり、とくに飲食店経営者が多かった。成功者の子息の二世・三世は成績が良くてペルーの最高学府群である国立サンマルコス大学(アメリカ大陸で最古の大学)や私立カトリック大学に進学していた。(後日談であるが、その一人が後に大統領となったアルベルト(Alberto)・フジモリ氏である。フジモリ氏の両親は熊本県人であり、私がリマでお世話になっていた日本の大学の学友のお父さんが熊本県人であったので、何回か県人会の会合に参加させてもらい、フジモリさんのお母さんと話をした記憶がある。)
インタビューをしたのはほとんど二世であったが、日本語は聞くことはできても話すことはほとんどできなかった。一緒に調査を行ったトミタさんは二世で日本には一回も行ったことがないが完璧な日本語を話していた。トミタさんによると、自分はリマ近郊の日本人しか居住していない農地(スペイン語でコロニア)で育ったので日本語ができるが、都市部に住んでいる二世には日本語の習得は難しいとのこと。

 研究会活動で必要なスペイン語やポルトガル語を教えてもらったのは中南米から日本に留学していた二世からであるし、(当時)日常会話を不自由なくできる程度まで引き上げることができたのもペルーの日系社会とのこの交流があってのことである。

 また南米に行きたいという一心で入社したのは、私がペルーに居た時に日本の海外プラント輸出の奔りとして製油所新設のプロジェクトを受注した総合エンジニアリング企業であるが、そこで配属されたのは外国文書係であり、上司はオーストラリアの二世ジョセフ(Joseph)・ムラカミさんであった。ムラカミさんは西オーストラリアのパース市出身でお父さんは真珠採取業でオーストラリアに渡ったとのこと。ムラカミ氏は温厚な方であったが私は3年間日本語使用禁止令を受け、本当にその通りにした。仕事の間だけでなく、夜渋谷の飲み屋でいっぱいやる時も英語、まわりからはかなり怪しまれた。英会話はそれなりの意識を持てば自己流でも上達するが、ビジネス英語を正しく書くことは徹底的な訓練なしには決してできない。芸は身を助ける。3年間我慢して英語をきちんと書くことを身に着けたことでその後の人生で大変得をした。
 一方入社して半年後に会社から派遣されたのが四谷にある日米会話学院だ。ここには企業からの派遣生のための半年研修コースがあり、銀行を中心に官庁、メーカーの海外駐在員候補が30名程度ずつで4クラスが編成されていた。半年の授業料が確か80万円くらいで昭和42年当時としては大変な額であった。従い、教え方も半端ではなく、朝9時から午後4時まで多角的な教育法で徹底的に鍛えられた。毎月会社にテスト結果が届くこともあり、生徒も必死で、感触としては米国にただ滞在するより3倍強の密度で英語が学習できた。
 15名ほどの先生のうち米国の西海岸出身の日系二世・三世が約半数おり(全員女性であった)、講義の間にカリフォルニアの生活や文化についても種々教えてくれた。特にお世話になったのが院長夫人の板橋和先生で、サンフランシスコ近郊のサンマテオ出身の和先生の授業の2回目に発音訓練で私は捕まった。田中さんRの発音が間違っていますよと15分間立ったままで発音の矯正を受けた。それまでスペイン語に慣れており、Rは舌で弾き気味に強く発音していたのが捕まった故だ。先生からはその後も時々チェックを受けたが一時的によくなっても癖はいまだに出る。言い訳わけではないが、私が聞いた英語以外の言語ではロマンス語(ラテン語系言語)やインドネシア語、ロシア語など、Rを英語のように柔らかく発音する例はない。
 昨日(2月5日)NHKテレビのファミリーヒストリーという番組で歌手の森山良子さんのルーツが紹介された。森山さんのお父さんはカリフォルニア州出身の二世のミュージシャンで「二つの故国」問題に当面したお父さんの物語に私は釘づけになったが、番組中お父さんの妹さん和さんが登場した。番組が進むにつれ、この和さんは板橋和先生であることが分かり大変驚いた。第二次大戦開戦後ニューヨークから交換船で日本人のご主人と幼子と共に日本に来られた帰来二世である和先生は98才になられ大変お元気な様子、50年前の四谷での特訓の日々を生き生きと思い出した。

 プロジェクトマネジメント協会間の国際交流を始めてからも米国PMI所属の何名かの三世のプロフェショナルと交流があったが、その中で90年代中盤にPMIの国際交流担当VPであったシアトル近郊在住のマイケル(Michael)・カタギリ氏との思い出が一番強い。米国人は片桐の苗字の発音はできないのでマイケルはキャーラギーリとイタリア語風の発音で自己紹介していた。PMI®のVPであるが、PMBOK®を受け売りすることなく、戦略性が高い独自のPMビジョンとメソドロジーを有していて私も大いに影響を受けた。
 彼が外資系企業の委託を受けて研修で来日した際に、ヒロシ、これは我が家の家系図みたいだけど、なんて書いてあるか、先祖は日本のどこにいたのか調べてくれるか、と頼まれた。私自身は古文書を解読するのはとてもできないので、史学科在学中であった長女にアルバイトを頼み、3ヵ月かかったがなんとか文書を解読してもらい英語の抄訳版を作った。それは家系図ではなく、1838年にマイケルの先祖が作成した片桐家の系譜の解説と相続争いがお家の分裂を招いたとして家の者が代々守るべき家訓を書いたものであった。カタギリ家の先祖は源氏の支流で1100年から1200年の間に片桐家を長野県上田市で起ここし、最盛時は上田城主を務めたとある。しかしながら近世に至り、跡目争いが起こり、この文書が書かれた時点で4つの分流なったと記されていた。マイケルは三世であるので祖父が米国に渡ったのは1900年前後と推定され、その時点から50年以上前に作成され家に残されていた文書を持って渡米したと思われるが、マイケルの先祖がどの分流に属するのかは特定できなかった。
 米国でマイケルにこの英訳版を渡し、これはインドネシア ジャカルタ市で生まれ2歳前までジャカルタで育った長女が調査を行ったと伝えたら、それでは彼女はインドネシアの二世で、二重国籍だったのでないかと問われた。それは米国生まれにある話で、インドネシアは日本と同じ血統主義であるので、そうではない、と答えた。長女は育児ナースや複数のお手伝いさんに囲まれて育ったので日本に連れて帰ってきた際にはほとんどインドネシア語しか話せなかった。日本人が海外で生まれ育つと言葉はどうなるかという事例が一時我が家にもあった。

 現在教員仲間として親しくしているのがアリゾナ州立大学のディーン(Dean)・カシワギ教授である。フランスの大学院で国際教授仲間として、博士論文の試験官を私とペアで行うことが多い。カシワギ先生は工学部のフルブライト教授で、米国人をあまり高く評価したがらないヨーロッパの大学やPMコミュニティーにあっても、明快な理論と講義技術により、大変人気がある。毎年1回8月のEDEN世界セミナーに奥様か息子さんを連れて参加するが、先生も奥様も三世であるが、顔つきや話し方はまるで純粋の日本人のようで、知らない人からは先生ご夫妻が日本人で私は中国人であると思われているらしい。カシワギ家には9人のお子さんが居て、6名が研究者で、奥様が社長のリサーチ・ファミリービジネスで儲かるよと笑っている。自分は60才代中盤を迎えて歳を取ったものだと思ったが、ヒロシが自分よりかなり年上でまだ元気で飛び回っていることを見て元気がでました、と言ってくれた。

 こうした日系人との交流経験は、その後、中国本土の中国人と華僑の比較(最近の経験では私が研修を行ったフィリピンの華僑四世の何名かが北京語を話せるのに驚いた)、アフリカ系フランス人の特性把握などにおいて大変参考になっている。
 ここにでてきた何名かの方は故人であるが、世界で動く術を教えてくれた方々の思い出と感謝は私の心から消えることはない。  ♥♥♥


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