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当時全世代約3万人のペルー日系人社会は一世と二世以下の比率が1対3くらいであり、二世の年長者は40歳代後半に達し、三世が徐々に増えてきた時代であった。 |
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ペルーは日本人の海外移住先で最古の国であり、第二次大戦前にペルーに移住し成功した人たちは敵国人の有力者として約2千名が米国の日系人隔離キャンプに送られるなど苦難の時を過ごしたが、戦後苦労の末に徐々に国での信頼を再構築していた。 |
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成人していた二世は、第二次大戦で、米国の二世達と同じように「二つの故国」問題(自分の生まれた国に忠誠を尽くすか、日本人の血統を持つ者として日本に忠誠を尽くすか)に翻弄された。子どもの将来を考えて交換船(第二次世界大戦当時に、開戦により枢軸国、連合国双方の交戦国や断交国に取り残された外交官や駐在員、留学生、一般市民を帰国させるために運航された船のこと)で日本の親族の元に送られた二世は帰来二世と呼ばれ、二度と故国ペルーの地を踏めずにいる人も多かった。 |
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日系人(この場合一世)の出身県は沖縄が7割、残りが広島、山口、福島などであり、各々の県人会と沖縄の場合は村人会が在った(PMAJの理事長になってから沖縄や広島に何度も行って、ペルーで話されていた日本語のルーツが分かった)。 |
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一世や年長の二世はほとんどが商店か軽工業経営者であり、とくに飲食店経営者が多かった。成功者の子息の二世・三世は成績が良くてペルーの最高学府群である国立サンマルコス大学(アメリカ大陸で最古の大学)や私立カトリック大学に進学していた。(後日談であるが、その一人が後に大統領となったアルベルト(Alberto)・フジモリ氏である。フジモリ氏の両親は熊本県人であり、私がリマでお世話になっていた日本の大学の学友のお父さんが熊本県人であったので、何回か県人会の会合に参加させてもらい、フジモリさんのお母さんと話をした記憶がある。) |
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インタビューをしたのはほとんど二世であったが、日本語は聞くことはできても話すことはほとんどできなかった。一緒に調査を行ったトミタさんは二世で日本には一回も行ったことがないが完璧な日本語を話していた。トミタさんによると、自分はリマ近郊の日本人しか居住していない農地(スペイン語でコロニア)で育ったので日本語ができるが、都市部に住んでいる二世には日本語の習得は難しいとのこと。 |