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日本人に共通する計画への対応 (2/3)

PMAJ理事長 光藤 昭男 [プロフィール] :12月号

 先月号では日本の A 社がチャンスを目の前にして米国 B 社に市場を奪われる事例を述べた。複数の実話を一本化し、計画の観点に絞った事例である。本号ではそれを戦略と計画の観点から、戦後すぐに出版された「太平洋海戦史」 (高木惣吉@岩波新書) と比較して考察してみたい。初版は1949年8月で、現在までに第20刷を超えているロングベストセラーで、アマゾンの書評には「太平洋戦争の陸戦の全局面を、物動、編成、兵器、動員人員などあらゆる角度からはじめて総合的に把握し、記録した画期的な書。・・・参謀本部の中枢にあり、敗戦時陸相の秘書官であった著者が、苦労をはらい収集した豊富な資料を駆使して正確に記述する」とある。

 「太平洋海戦史」の「まえがき」には「戦後の岩波新書の再出発にあたり・・・終戦後 3 年余の間に、さまざまな立場からする無数の批判が現れた。・・・殆どすべて・・・ (軍部の) 外からこれを批判する・・・超越的批判に属する・・・」うえで、岩波書店は「 (内部の) 海軍軍令部兼海軍省の元海軍少将高木惣吉氏に懇請して成ったものである」とある。国が無くなるかとか、個人が生きるか死ぬかの究極の場面において、日本軍部エリート幹部がどのように決断し、行動したかが、内部の目でさらりと書いてある。名著「失敗の本質」でも頻繁に参照されている貴重な本である。

 さて、先月号では、A 社の営業企画のM部長が、自社特許に基づく強豪競争相手の米国 B 社の上級製品と真正面からぶつかる新製品の販売をB社より安く販売することを思いたった。個別にヒアリングした社内主要部門長は全員反対の意向を示した。しかし、M 部長は絶対に行けると信じ、事業計画書は楽観的シナリオを選択して経営の審議に上程した。熱意ある説得の結果、3 度目の審議を経て社長は了承し、取締役会でも承認を得て、プロジェクトは開始した。このように、現場を知る実務の責任者であり、やり手の上級管理職 (しばしば部長) が執拗に熱心に主張する意見は通ることが多い。今回は自社特許とか競合 B 社上位製品を安く販売できるという自己組織に有利と思われる事由があると、縦割り組織の他部門の役員には反対しづらい空気が醸成されるのだ。

 米国との開戦、真珠湾攻撃の決定は1941年11月3日に長い議論の末、軍令部永野総長の実質的な決断で決まったとある。しかし、この永野総長の開戦直前の有名な述懐があり「中堅の参謀たちはよく勉強している。あの連中にまかせておけば、まず間違いない」という。 A 社の社長に通じる言葉だ。戦闘準備はその決定の前から既に開始されていた。公式には12月1日の御前会議で最終決定をみた。ハワイ真珠湾攻撃は12月8日の未明に開始された。海軍主力部隊は千島列島に集結していた。米国駐在の長かった山本五十六大将は、総合的に判断し米国には絶対に勝てないと信じており、米国に一撃を与えて有利なうちに停戦させようと思っていたという。

 一方、海軍より戦力に勝る陸軍は、ソ連との開戦を想定して満州に主力を集結していた。兵力は集中させるとう戦術の大原則がある。仮想敵国からして異なる陸海軍は、この大原則に従わなかった。元々明治憲法によれば、陸軍大臣と海軍大臣は総理大臣とも対等であり、その報告先は個別に天皇であった。陸海軍の中枢は終戦間際まで、意思決定は個別にされ、行動は連携を取ることがほとんどなかった。いわゆる縦割組織の典型であった。

 それでも御前会議までは、経済力で圧倒する米国との開戦は避けるべきと一人一人は考えていたとの資料が残っているが、日米交渉が決裂し、他の客観情勢でも日本は追い詰められる事件が続いた。10月には第 3 次近衛内閣が退陣し、前陸相の東條英機が首相に就任した。一方、5 月から 3 国同盟の同盟国ドイツの欧州戦線での快進撃が続いていた。軍備も満州や南方諸島の現場では整っていると判断された。準備が進んでいるかという質問にたいして、自部門を否定する人はなく、開戦もやむを得ずとなった。個々の幹部も自らの合理的な判断では勝ち目がないと思っていたにも拘わらず、会議での周囲の空気により結論が出た。高木は、これをして「望ましき結果を天来の偶然に期待し」と述べている (「序」) 。

 A 社社長の決断も御前会議のようであったかもしれない。更に、社長は大胆な投資を避け、小出しの段階的な投資を行ない、それぞれの結果を見て次の投資を行う事とした。一見、慎重で合理的判断かのようだ。一方、A 社製品を見た B 社の対応する動きは速く、A 社新製品と競合する既存上級製品をすぐに値下げした上で、1 年以内に A 社を上回る新製品を上市した。 A 社はマーケットを支配していないにも拘わらず、挑戦者としてなすべき事を徹底できなかった。結果、一時獲得しかかった市場を、再度奪われることとなった。B社の能力を見て、自社の打つ手を選択すべきであった。

 日本軍の戦力の逐次投入も有名だ。この場合も兵力の集中の大原則を忘れたかのようであった。物量と人員に勝る米国に負け続け、特に戦争中盤以降では兵器の質量ともに充分に生産することができなくなったこともあり、逐次投入の頻度がより多くなった。更に、新技術の採用も後ろ向きであった。特に、試作されていたレーダーを不採用としたのは痛かった。当初成果を上げた夜間の奇襲を常套手段としたが、米軍レーダーにより察知され、待ち伏せされ、惨敗を続けた。米軍がまだやるのかと勘ぐるほどであった。陸海軍内でも、連隊長や大隊長ごとの縦割り組織であり、現場の事情を充分把握してないか目を瞑ることで、参謀本部の指示に従った意思決定により、兵士の犠牲を大きくした。戦闘ごとに学んだ米国との差は開くばかりであった。

 以上の記述は、限られた紙面のため内容が充分でないことはご容赦願いたい。しかし、組織運営の成否良否は結果が示す。結果が好ましくなければ、組織の意思決定も間違っていたといえる。その結果とはご存じの通りである。日本は無条件降伏を受け入れ、A 社は売り上げを急激に減らした。さて、次回号では、組織運営の核となる戦略と計画に関連させた話題を取上げ、3 連載のまとめとしたい。P2Mのコアに関する話である。

以 上

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