PMプロの知恵コーナー
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ゼネラルなプロ (58) (実践編 - 15)

向後 忠明 [プロフィール] :8月号

  <先月号からの続き>
 トルコ共和国!!!
 この国と日本は1890年 (明治23年) に、現在の和歌山県串本町沖で発生したエルトゥールル号遭難事件での日本の対応が評価されたことなどから、両国の友好関係が築かれました。
 また、日露戦争 (1904年 (明治37年) 2月8日 - 1905年 (明治38年) 9月5日) において日本が勝利したことなどから、親日的な国となったようです。
 なぜなら、この国はこの当時常にロシアの脅威にさらされ、困っていたところ日本がロシアに勝った国という事で日本は頼りになる国と思われたからです。
 筆者自身も J 社にいるころあるプロジェクトでこの国に関係したこともあり親日的な国と言う印象を持っていました。
 しかし、トルコ共和国 (以降トルコと言います) と言っても読者諸君はイスタンブールを思うでしょう。しかし、我々のプロジェクトに関係する場所は中央銀行や政府の中枢がある首都アンカラです。

 さて、出向期間の残り時間も少なくなってきました。そのため、何はともあれ早く顧客に会ってプロジェクトの具体的内容や考えを聞かなければと思っていました。
 そこで、出張のためのアンカラまでの旅行ルートを調べました。その結果、かなり大変な旅行と思いましたが、日本での準備を早々に終えて、トルコへと出かけることにしました。

 そして、長い飛行機の旅を終えて、アンカラの空港へつきました。ここでまた「ビックリ」なんと首都の空港にもかかわらず、ローカル空港のような貧弱で小さな空港でした。
 そして、空港での入国審査を終えてアンカラ市に向かいました。その時、その道沿いの風景が以前 J 社の仕事で出かけたアルジェリアと同じでその時のいやな記憶を思い出しました。
 土くれの家や土獏が広がる山々がつながる風景が続き、「本当にこんなところに最新鋭のシステムを導入するプロジェクトをやるのか」と頭の中に??マークが出てきました。
 しかし、街が近づくとそれなりの建物が見えてきて、街並みもイスタンブールの派手な街並みとは異なり官庁街と瀟洒な店並みのあるしっくりとした街並みが続いていました。
 ホテルに着いたらすぐに中央銀行に挨拶に伺いました。中央銀行の建物はやはり一国の銀行であり立派な建物でした。
 銀行に着いたら豪華なシャンデリアのある広い立派な会議室に通され、非常に緊張した面持ちで我々と対峙する担当者を待っていました。
 待たされる時間もそれほどでなく地位の高そうな人達が会議室に入ってきました。そして、それぞれ自己紹介となりました。中央銀行側は副総裁、決済局長、電算局長、そして今度のプロジェクトを担当するプロジェクトマネジャとその補佐の 5 人でした。
 この、面々から見ると中央銀行はこのプロジェクトに相当の期待を込めた重要な施策であろうと容易に想像できました。
 中央銀行の出席者に比べこちらは情報通信事業部長、筆者、そして英語に堪能な若手の 3 人のみでした。

 第一回目のこの時の会議はお互い簡単な紹介と中央銀行からの本プロジェクトの考え方についての説明を聞くというものでした。
 こちらは日本で準備してきた提案書を渡し、翌日から我々の用意した提案書について話し合いをすることで、第一回の会議は終えて、我々はホテルに帰りました。
 ホテルに帰ってからは明日からの会議の対応を日本で考えてきた確認事項を色々な視点からのシナリオを考え、それをお互い確認したところで、この日は解散しました。

 翌日も中央銀行側は同じメンバーが出席し、当方は提案書の説明を行い、特に日本の全銀システムについて詳しく説明しました。そして、その後はシステム及びその運用についての質疑応答を行いました。
 また、この時は中央銀行の現状もあまり良くわかってなかったので具体的技術内容にはあまり踏み込めませんでした。そこでこちら側から中央銀行の業務の実情を知りたい旨の要求をし、コンピュータセンター、決済業務部門等を見せてもらいました。
 また、副総裁の案内で「お金」を印刷しているところも見せてくれました。

 中央銀行側がこのように現状のシステム、将来の決済システムセンター予定場所、そして各種業務部門を包み隠さず見せてくれ、中央銀行のこのプロジェクトに対するその本気度をさらに肌で感じることが出来ました。
 その後、中央銀行の決済システムと接続する各銀行との技術的打ち合わせ (ネットワーク構成とリレーコンピュータの仕様の確認等々) を行いました。
 このような作業を何日か行い、中央銀行の求める種々の要件や条件の確認を行い、その結果を盛り込みながら提案書の見直しを行いました。
 しかし、それでもまだ不安な部分もあり、この時点では完全に要件の確定をしたものではありません。そのため、今回の要件設定はあくまでも暫定であることとし、日本で全銀システム経験者の意見も入れて決めていくことにしました。
 その後、今後の具体的なプロジェクトの進め方についての話をすることにしました。
 その内容は前月号で述べた問題点です。すなわち、体制と執務場所、プロジェクトコストそして契約の件です。
 まずは体制と仕事の進め方ですが、体制は双方とも本プロジェクト専用のチームをプロジェクトマネジャの責任と権限の下に編成することにしました。
 本プロジェクト開始後の作業場所等について以下のようにすることにしました。
要件の確定を含めた基本設計の執務場所は日本とし、その内容のレビューはトルコで行う。
詳細設計は基本設計が完了した後、日本人グループは日本に戻り、日本での作業とし、最終レビューは中央銀行のプロジェクトチームが日本に来てその作業を行う。
プログラム作成は日本での作業とし、システムテストは日本人グループがトルコに行き、中央銀行監修のもとでその作業を行う。
 以上のような取決めをして了解されました。

 次はプロジェクトコストについての話に入りました。
 この時、当方から要件の確定が出来ていない段階でのプロジェクトコストの算出には無理があり、少なくとも基本調査、基本設計まではプロジェクト全体コストは決められない旨を説明しました。
 そして、基本調査・設計はコスト+フィーそして、開発に関する基本的要求条件や仕様が確定した後に一括契約とすることで説明しました。その後、コスト+フィー単金やマイルストーンの設定をおこない、それぞれ話し合った内容を議事録に残し、双方その内容を確認し、サインの上、この内容に従い、契約書を後日まとめ提出することになりました。

 約一週間のトルコ滞在でしたが、中央銀行側が副総裁を始め決定権のある人が会議に随時出席し、決めることは決めたことにより、思ったより順調に大きな問題もなく、早く帰国の途に就くことが出来ました。

 日本に帰ってからは早速日本側サイドのプロジェクトチームの編成を行いました。社長直結のチーム編成でプロジェクトマネジャを中心にメンバーを選定しました。特に人材については全銀システム経験者と英語に堪能な人の導入が不可欠であったので、グループ各社から特に「この人」と言う人を選んでもらい配置しました。

 そして、トルコでの打ち合わせに従い、以下のような作業を行いました。

プロジェクトのフェージングと仕様の固め
基本調査と基本設計 (フェーズ 1 )
詳細設計と主要機器の調達 (フェーズ 2 )
機器据付、プログラム製造、検査、コミッショニング (フェーズ 3 )
中央銀行と受託者との役割分担とその組織、そして各フェーズにおける作業場所 (日本またはトルコ) の設定
プロジェクト実施線表と作業手順 (特にトルコと日本とのコミュニケーションを考慮したスケジュールと作業手順) の設定
契約内容 (特に不確実な顧客要求条件での齟齬をなくす契約条件) の設定

 そして、プロジェクト実行においての計画は既に顕在化している下記に示すようなリスクマターに対する対応策を考慮したものとしました。

前例のないプロジェクトの実施 (日本企業によるAP系システム会社開発輸出)
失敗の許されないトルコ共和国の金融政策にかかわるプロジェクト
不確定な要件定義と本システムに関する顧客の知識レベル
コミュニケーションギャップ (システムに関する理解と距離及び英語によるコミュニケーション)
受託側の本プロジェクトに関する知識と経験

 上記のような現状を考慮した人選を適切に行ったが、まだまだ、体制全体から見ても重要なプロジェクトにかかわらず、

言葉や文章が英語、仕様書やプログラム説明書も英語 (ほとんどの人が英語が話せない、聞けない)
日本/トルコと距離もあり意思疎通が不十分
双方の技術者が本プロジェクトの決済システムに造詣がない、ばかりではなく海外プロジェクトの経験がない。 (飛行機に乗るのが初めての人ばかり)
初めてのシステム開発の為、ソフト製品の輸出に関する知的財産に関する知識もない (この当時はテープにてのソフト製品の輸出手段しかなかった)

 以上のようにヘレンケラーのように「話せない、読めない、聞けない」そしてわからない中でのプロジェクトでした。
 このため、プロジェトの全体像 (どのようなことがどのような時に発生するか、その時の対応は!!) を把握することや契約においてもリスクの最小化を図る手立て等を考慮し、多くの時間とコストをかけて契約書を作成しました。
 そして、契約書のやり取りを日本及びトルコの間でやり取りし、内容的に問題がなくなったところで、双方サインを交換し契約を行いました。

 ここにたどり着くまでは「冷や冷やもの」でしたが、思ったほどの障壁もなく順調に契約まで進むことが出来ました。
 一方の中央銀行側も真剣であり、早く契約をしてこのプロジェクトを積極的に進めていきたいとの思いもあったことで、順調に契約が出来たのかもしれません。

 いずれにせよ、「初めての海外輸出システム開発であり、成功に結び付くよう、立ち上げ作業をしっかりとしておく」との思いで早速本番作業に入りました。

 この時は出向期間の切れる時期も秒読みであり、残り3か月程度しかありませんでした。焦る気持ちもありましたが「飛ぶ鳥跡を濁さず」で真剣に取り組み、この作業に全身全霊で取り組む事にしました。

 続きは来月号を見てください。

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