グローバルフォーラム
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「グローバルPMへの窓」(第93回)
医療のプロジェクト

グローバルPMアナリスト  田中 弘 [プロフィール] :7月号

 今月は話題を少し変えて日本の素晴らしい医療のことを書きたい。先月号で、世界に出かけて50年という記事を寄稿した。その陰に私の病気との付き合いがあった。決して誇れる数字ではないが、入院歴 7 回、手術は入院手術 6 回、日帰り手術を 5 回行った。そのうち、私が思うに、または漏れ聞いた担当主治医の言葉から、2回は危ない病態であった。また (知りうる限り) 2 回は症例が学会標本になった。
 1975年、インドネシアに 2 回目の駐在中、一時帰国し、東京で結婚式を挙げて、翌日妻を連れてインドネシアジャカルタに帰任したとたんに A 型急性肝炎に見舞われ 6 か月の療養を余儀なくされた。70年代の日本の東南アジア駐在員は 3 人に一人は A 型肝炎に罹っていたので、いわば勲章なようなものであったが、この肝炎は水を主たる媒体とする感染症であり、私の場合も共に会社のゲストハウスを利用した同僚とその家族合計 6 名がつるべうちとなった。急性肝炎というのは、意識ははっきりしているが、身体がだるくて全くいうことをきかない病気であり、これといった治療法もなく、毎日牛肉と日本から送ってもらった椎茸を食べていたのを覚えている。苦労したのは妻で、異国に着いたとたん夫がいきなり寝たきりとなり、インドネシア語を必至で覚えて、市場での買出し、家では 3 名の家事お手伝いさん (当時の駐在のしきたりで、この数をけちると必ず泥棒に入られる) の司令官となり奮闘した。
 一過性ともいえる A 型肝炎も治り元気で合弁会社の駐在員を務めていたが、最大の危機は1978年、インドネシアでの合計 5 年近い駐在員生活を終えつつあり、後任者も決まり帰国命令も出ていた頃やって来た。ある朝、突如致命すれすれの1800 CC (インドネシア主治医談) の下血に見舞われた。十二指腸潰瘍であった。ジャカルタの顧客の中央病院に担ぎこまれ、止血処理を終え1400 CCの輸血 (インドネシア人の尊い血である) をしてから、日本から来ていただいた消化器科の先生に付き添われてなんとか帰国した。当時の羽田国際空港 (成田空港開港目前であったが) から秋葉原の三井記念病院までは救急車で搬送された。ジャカルタの病院で緊急処置中も意識ははっきりしており、医師の、これは重篤であると話しているインドネシア語の会話は明瞭に聞き取れた。日本の病院で胃のほぼ全摘出手術を終えて元気になった頃の、主治医の、インドネシアの病院の処置は 100% 適切でしたと、いう言葉には、涙がこぼれてきた。5 年も駐在した国を信頼する、そして、私の上司がインドネシアに来たばかりで言葉を含めて全く手が出ない時に、すべてを取りしきり、名うての医師に懇願して、あるべき緊急医療の姿を実現してくれた妻に感謝は尽きない。当時ジャカルタの同じ病院で生まれた長女は 1 歳半、妻は次女を妊娠中であった。家族のためになんとしても生きて、社業を頑張らなくてはという気持ちで一杯であった。
 胃を切り取ってしまってからの 15 年は、長い食事、水物の摂取そして甘味に手をだすとひどい目にあった。分かってはいるが、食いしん坊の性は仕方がない。
 そのようなことも忘れた頃、二つの入院をする羽目になった。まず1996年に副鼻腔炎の手術で、これはつまり鼻のポリープの切除で、赤貝くらいのポリープが 20 数個あった。胃腸の潰瘍は数時間でもできるそうだが、鼻のポリープは20年以上飼っていたもので、耳鼻科の医師に大変叱責された。副鼻腔炎は 3 年後にもう一度手術をして、その際にはポリープは 7 個ほどであった。
  鼻がすっきりしたら、次は心臓であった。2002年6月、旧日本プロジェクトマネジメント・フォーラム (JPMF) の朝9時からの総会で、あろうことか、何の冠もない私が第 3 代目の会長に指名され、当時は同日開催であったプロジェクトマネジメント・シンポジウムに臨んで午後のことであった。事務局控室で小休止している際に強烈な胸の痛みを覚えた。それまで胸の痛みは何回かあったがいずれも数分で収まった。しかし、この時は 20 分ほど続いた。ちょっとおかしいと自分で感じながらも、当時赴任していた子会社における親会社からの事業部ごとの移管受け入れ、JPMF で幹部人事の按配で寝ている暇も惜しむ忙しさであった。
 循環器系の疾病は気圧の変化に敏感に反応するとされている。早い台風が来て胸の痛みの発作は頻度を増して、持続時間が益々長くなった。それでようやく神奈川県循環器呼吸器病センターに駆け込んだところ、狭心症と診断され、すぐに入院となった。狭心症は 2 か所あり、一か所は通常のカテーテル処置 (冠動脈の狭窄部分の血管をカテーテルの先端につけた風船を膨らませて広げ、ステントという金属の筒を入れて血流を確保する) で一時間のほどの手術で済んだが、もう一か所は心筋梗塞同様の血栓が見つかり、通常の風船処理では間に合わず、特殊器具を 1 日がかりで取り寄せ、真空を作って血栓を吸引するという手術になった。カテーテル処置というのは不気味ではあるが身体自体が苦痛ということはないが、2 日目の術後 11 時間にわたる身体固定 (微動だにいけない) は実に苦痛であった。
 狭心症に至るまでに3年連続で 3 千時間以上働いたツケが回ってきて、種々のストレスが爆発した結果であった。ちなみに、ヨーロッパのプロジェクトマネジメントの教授達は半分以上が狭心症を既往している (教授が狭心症を起こすと教え子の博士課程生は大変であるが)。狭心症処置後には再狭窄がよく起こるが、私の場合も半年後に一回再狭窄があったものの、それ以後 10 年間は大丈夫で現在も血流は良い。
 既往症のケアもあってクリニックに行くのは年間平均 20 回を下らない。医療スタッフの方々に感謝あるのみだ。現在も元気で2012年から昨年まで年間平均 8 回ほど海外にでかけた。走り続けるポンコツ車には、ときどきメンテナンスが必要で、今月は白内障手術を左右両眼受けた。安全かつ手際のよい日帰り手術で、視力は大幅に改善した。まるで魔法のようだ。執刀医の技術と手術マネジメントには感動。これまでは毎日、PC上で、海外の学生から時差の関係で夜送られてくる指導を請うメールや論文のドラフトを読むのは大変な苦労であった。
 妻もまた外科手術を受けて退院してきたばかりで、この手術も子供たちや孫をしっかりとサポートできるようにという目的もあり、夫婦で、「いつやるか、いまでしょう」となったものだ。
 さて、医療はプロジェクトマネジメントの最先端であることをご存じであろうか。このことを初めて意識したのは、2000年にオーストラリアのリゾート地ケアンズで開催された国際PM大会であった。クイーンズランド州立大学のPM修士課程生が医療現場でのPM活用について報告したことがひときわ印象に残った。医療現場でのPMとは何か?それは主治医をプロジェクトマネジャーに、医師と看護師が患者を顧客として医療情報を共有しながら、チームとして最適な意思決定を毎日しながら患者一人ひとりに対応して、成果 (患者の軽快) を確保し、医療プロジェクトを完遂することだ。私自身がこの医療PMを体験したのはそれから 2 年後の上記の狭心症での入院時のことだ。看護師がPC持参でデータを見ながら患者に対応し、カンファレンスと称して週に何回か直近の症例情報の共有、治療方法の議論を行うなど、まさにこれはPMである。
 また病院プロジェクトビジネスというジャンルもある。私の元勤務先は元来石油・天然ガス・化学系のプロジェクトのエンジニアリング会社であったが、病院プロジェクト市場でのシェアがかなり高い。メディカルセンターや病院建設の一括請負だけではなく、顧客(病院)側の各種コンサルタントや総額 8 百億円に及ぶ東京都営の大病院のPFI案件、はては医療輸出まで手掛けている。建築物のスペシャリストであるゼネコン各社をさておいてどうしてこのようなことができるかという疑問がある。答えは総合エンジニアリングという顧客に価値提案をしていくら、の企業であり、ビジネスのコアコンピタンスにシステムズ・エンジニアリングとプロジェクトマネジメントがある企業であるからとなろう。
 プロジェクトマネジメントにはクリティカル・パス (CPM) というスケジュール管理上のキーワードがある。医療現場では、これをクリニカル・パスと呼び換える。病院では、医療報酬は患者の入院日数が伸びるにしたがって低減するので、患者ひとりあたり、いかに医療成果を出しながら、早く退院に至らしめるかという経営上の命題がある。それと最適な医療手順を初めに設定し、日々の治療行為を細かく見える化して医師・看護師・患者間で共有するツールとしてもクリニカル・パスが活躍している。
 いうまでもなく、世界一の高齢化社会の日本で医療の生産性向上と国民への医療機会の均等な提供 (医療バリューチェーンの問題) は喫緊のテーマであり、一方、海外での日本の医療インフラへの期待は年々高まるなかで、医療のPMの熱い日が続く。  ♥♥♥


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