「アメリカのような個人志向の社会に於いては、個人の自律と選択こそが価値を置かれる。個人の自律の強調 (のされ過ぎ) は、偏狭な個人的利益の勢力的な主張へと導かれ、他人の権利との対極的な衝突を生じさせる。そのような文化では『謝罪』に対して余り重きを置かず、(関係者間の代替的な) 紛争解決よりは、むしろ訴訟を使う傾向になる。個人志向の文化に於いては『関係性』は社会の枠組みの中で余り重要な役割を有してないから、『謝罪』にも低い価値しか置かれない。」 (Pavlick、Apology and Mediation、平野晋訳)。その結果、日常的な訴訟社会となり、人口一人当たりの登録弁護士数も対日本比では20倍以上となっている。例えば、庭木の枝が垣根を越えて隣家に出ていた場合、そのカットの要請にすぐに応えないと訴訟するが、訴訟関係にあっても隣家とは普通に付き合うのが米国社会だと、訴訟社会の日常性の比喩としてまことしやかに教わった。
最近、米国でこの傾向が変化したという報道を聞き正直少々驚いた。米国内でもっとも保守的といわれる東部マサチューセッツ州で、謝罪の言葉を不利に扱わない、すなわち、謝ったとしても、それをもって過失を認めたことにはならない、それを償う金銭を支払う義務も生じない、Sorry Law (日本語訳の通称は「アイアムソーリー法」) が2000年頃に制定されたという。きっかけは、自転車に乗っていた少女が不幸な交通事故にあって死亡した。加害者の運転手は裁判で不利になるとして謝罪を拒んだ。その州の上院議員であった父親は、この悲しい経験から「アイムソーリー」の一言も言えない社会はおかしいと訴え続け、謝罪が不利にならない法律を提唱し実現したとのことである。その後、40近い他州も後を追うように同様の主旨の法律を制定した。