理事長コーナー
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筑波山とP2M

PMAJ理事長 光藤 昭男 [プロフィール] :4月号

 「名所江戸百景」で歌川広重が描いた江戸の街の風景画の背景に、西方の富士山と北方の筑波山がしばしば描かれている。いずれも孤高の山である。都内の高層ビルから北北東の方角をのぞむ。その雲霞の先に薄茶色の頂が地平線から抜け出して見える。それが筑波山だ。良く見ると頂が二つある。女体山 (877m) と男体山 (871m) だ。その各々の頂には、筑波山神社の筑波女大神と筑波男大神が祭られているが、勿論それらは東京からは見えない。「北は足尾、加波の山波に、東と南は筑波連峰の起伏につながり、西は肥沃な平野が広がります」と筑波山神社の「筑波山由来」に記載されている。筑波山は一億年以上も古い時代に、海底に積もった地層に花崗岩などのマグマがあいついで貫入し、その後の地殻変動によって持ち上げられ、山塊となった。縄文時代前期には、気温が高く「縄文海進」と云われた頃には、筑波山麓まで太平洋がせまり、その名残りの貝塚もあるそうだ。

 筑波山の南斜面の中腹にある筑波山神社の脇からは、ケーブルカーが男体山の山頂へ、一方、東斜面からはロープウェイが女体山の山頂まで通じている。そのほぼ真南に位置し20kmほど離れているつくば市は学園研究都市だ。市役所近くの「つくば駅」は標高25mであり、山頂との標高差は約850mだ。気温差にして5度程度違うことになる。「常陸国風土記」には、五穀豊穣を祝う新嘗祭の頃に、富士山を訪問し一夜の宿を所望したところ、繁忙を理由に断られた。その後、筑波山を訪れ同じく宿を所望したら、「(大変忙しい) 新嘗祭にもかかわらず、快く宿を供し、飲食を奉った温かく歓迎した」記述がある。「それから富士山はいつも雪に覆われて登る人もなく、筑波山は昼も夜も人が集い、歌い飲食をするようになった」という土地柄であることが記されている。関東平野と利根川などの大河川からうまれた豊な田園地域であったことが理由であろう。

 多くの人が山登りを人生に例えている。その場合の山は、適当な標高の孤高の山と周囲に見渡す限り広がる平らな田園がある筑波山がふさわしい。麓から歩み出した時は、ありきたりの家並みや木々などしか見えない。しばらくして、ふと後ろを振り返ると豊かな緑の田園が広がっていることに驚かされる。それは良く知っていると思い込んでいた景観のはずだったが、登ってみて初めて見えてくる景色がある。新たな発見の時だ。

 P2Mは、”Program & Project Management for Enterprise Innovation”の略称だ。イノベーションに挑戦するP2Mプログラムマネジメントでは、初めに対象とするテーマの課題・問題を洗い出し整理する。さらに解決するためのシナリオを展開する。このプロセスをミッションプロファイリングと呼び「広い視野と高い視点」で俯瞰することの重要さを強調している。まさに、筑波山を登るアナロジーだ。重い荷物を持って、テーマに挑戦し、一歩一歩登ってゆくと苦しくて止めたくなる。ふと、広がる景色を見て感じ考える。同行者と話して気づく。急に視野が開ける場所にいることに気付く。背に広がっていたのは、豊かな関東平野だと気付く。その村落や街並みを豊かにしている人々の営みや関係性が、登り始める前と違う視点で見えてくる。登り始めねば気付くことはまれだ。「何故貴方は山に登るのですか」に対して「そこに山があるからです」とは登山家の言葉だ。課題は前に進まないと解決しない。イノベーションも起こせない。この当たり前のことに気付く。

 「広い視野と高い視点」は、このようなことだ。登り出して、初めて得られることだと思う。春霞のかなたにみえる筑波山を眺めていて気付いた。つくば研究学園都市は、この観点から、イノベーションを目指す研究に没頭する、あるいは、若い人を育くむ街として、素晴らしい立地だと思える。染井吉野が咲くのはもうすぐだ。桜を愛で楽しむ時を作くろう。

 山登りとは限らないが、高度成長期に日本人が好きだった言葉を最後に添えたい。「人の一生は、重き荷物を負うて、遠き道をゆくがごとし」、さらに続き「重荷が人をつくるのじゃぞ。身軽足軽では人は出来ぬ」(「徳川家康」山岡荘八)と言っている。「高いところから落ちる人間は惨めだ。しかし、高いところまで登れない人間はもっと惨めだ」「この言葉の意味を知りたくて山に登る」とは、厳冬の八ヶ岳踏破中、25歳の誕生日翌日に亡くなったある登山家の言葉だ。(「完結された青春」クライマー中嶋正宏遺稿集)

以 上

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