PMプロの知恵コーナー
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ゼネラルなプロ (53) (実践編 - 10)

向後 忠明 [プロフィール] :3月号

 シンガポールエチレンプロジェクトを無事完了し、日本に戻り、これまでこのプロジェクトで作成した完成図面のフォロー及びその整理そして顧客への最終図書の送付等々と忙しい毎日を過ごしていました。
 その様な時にインドネシアでかなり大きなプロジェクトが受注できたという話が聞こえてきました。
 この時の噂話では総受注額3000億円近いビックプロジェクトという事であり、J社としてはアルジェリアのガス液化プロジェクトそしてクエートの製油所建設プロジェクトに次ぐ大きなプロジェクトのようでした。
 この時、筆者は「飛ぶ鳥跡を濁さず」の例えもあり、地味な仕事でしたがシンガポールプロジェクトの後始末に専念していました。
 ところがある日、シンガポールプロジェクトを一緒にやっていた先輩から「後始末は他の人にやらせ、インドネシアのプロジェクトにすぐ入るように」と連絡が来ました。
 この先輩は筆者の直接の上司でもありプロジェクトマネジメント指導に世話になった先輩でもあり、断ることもできずにこのプロジェクトに入ることにしました。
 一方、この時期はクエートのプロジェクトやアルジェリアのプロジェクトも終盤を迎え、それらに次ぐ規模の大きなプロジェクトでもあり、顧客との今後の関係においてもJ社にとっては重要なプロジェクトと位置付けられたプロジェクトでした。

 また、このプロジェクトのJ社での位置づけは他に大きな案件もなくなっていることもあり重要なプロジェクトと位置付けられていた。そのためプロジェクトメンバーにはプロジェクト事業部の中でもプロジェクトリーダの経験豊富な人達がメンバーとして入っていました。
 筆者としてはせっかくシンガポールプロジェクトで経験したプロジェクトマネジメントを実プロジェクトでプロジェクトマネジャをやりたいと思っていたが、このような陣容ではその夢も幻となりました。プロジェクトメンバーで筆者と同じ30代の人は4人程度でした。
 このプロジェクトの受注にこぎつけ顧客と多くの接点をこの時持っていたのは営業部門でした。その為かどうか営業主導のプロジェクトのように感じられ、筆者がこのプロジェクトに入っても、なぜか知りませんが、プロジェクト体制がはっきりしないままプロジェクトが進められていたような気がしました。
 このままで良いのかと思っていたが、営業より「まずは現地調査を行ってください」という事でインドネシアのスマトラ島パレンバンに行くことになりました。

 パレンバンとはインドネシアでも最も大きな島であるスマトラ島にあり、その中核都市で、ムーシ川が東西に横切るように流れ、ジャワ海に面する位置にあります。
 このプロジェクトの対象はパレンバン市を横切って流れるムーシ川のそばに位置するプルタミナのムーシ製油所です。
 第二次大戦で日本軍がここの製油所を占拠するため、落下傘部隊が奇襲攻撃をしたことで有名です。
 オランダ統治時代、当地で石油資源が発見され油田開発が行われた。パレンバン油田での1年間の産油量は当時の日本の年間石油消費量を上回るほどであったため第二次世界大戦における蘭印作戦では日本軍の最重要攻略目標となりました。
 このような製油所なので、時代物の施設が多く、今回のプロジェクトはこの古い製油所の更改と新設が主な仕事でした。

 日本からはジャカルタ経由でプロペラ機に乗り変えて出かけました。パレンバン上空に近づいた時、飛行機の窓から見た製油所の風景は昔見たパレンバン落下傘部隊の記録映画のシーンでの上空からの製油所の景観そのものが見えました。
 この時、「第二次大戦の時この場所から日本軍の兵隊が落下傘で飛び降りたのだなー」と変な感傷に慕ったりしました。
 パレンバンにつくとすぐにプルタミナとの話し合いに入りました。
 それは、調査の目的やプロジェクトに必要な各種資料及び情報等についての入手や確認そしてJ社の本プロジェクトの方針や計画概要などの説明であり、その後調査となりました。
 調査の求める対象エリアはあまりにも広いエリアであり、製油所の中だけではなく原油受け入れ設備を海岸近くに建設するという事でその位置及び製油所までの配管ルートの調査も含んでいました。
 何はともあれ、調査に来た人たちで30代の人は筆者を含めたった4人であり、製油所内の古い施設の調査そして前記したような場所の調査があり到底数日で出来るはずがありません。
 特に原油受け入れ基地の調査は体力勝負であり、担当は若い4人のくじ引きとなりました。結局は筆者を含む2人の担当となりました。
 今でも思い出しますが、製油所のある場所から原油受け入れ基地建設の場所近くまでは数キロほどあり、途中はマングローブと膝までつかるドロドロな沼地のような原野で、そこに近づくまで何時間もかかってしまいました。
 その場所についてから図面に従って所定の場所を探したが受け入れ施設を建設できるような場所は見つかりませんでした。少しでも地盤の固そうな乾いた陸地は無いものかと探したが結果は良いものではありませんでした。
 このようなことで、この調査は別途方法を考えることとして、次の調査である原油基地から製油所までの配管ルートの調査をしました。製油所までの予定ルート図を歩きながら確認し、泥沼からやっと這い出ることが出来ました。
 しかし、調査の帰り道、日本語の話せる現地の老人が「日本人に日本語を習った」と声をかけてきて「ここで何をやっているのか?」と話しかけてきました。
 「今度パレンバンで仕事をするのでよろしく」と言って現在やっている調査の話をしたら、その老人曰く「原油受け入れ基地のあたりはオランダ人が昔測量などしていたよ!とか配管ルートには像の通り道があるよ!」などと教えてくれました。

 調査に関する報告会議で、上記に示すことを含めたこれまでの調査経緯を説明しました。配管ルートについては技術的な対策で考慮するとし、原油受け入れ基地はこれまでの現地人の話と合わせて顧客との確認事項とすることになった。
 その後、顧客と話をしたところ、オランダ統治時代にオランダの企業が調査した地形図が見つかったとの連絡が入り、それにはボーリングデータもあるという事でした。
 その結果は、その後の衛星による調査でも確認ができ、最終的にここに受け入れ施設を建設することに決まりました。

  この調査で感じたことはローカルの人達とのコミュニケーションが重要であり、特にインフラ関連の設備では大事と思いました。出来れば外国で仕事をする場合は片言でも現地語を学んで、現地の人とその国の言葉でコミュニケーションが取れれば最高です。

 調査が完了し、今後、プロジェクトを進めるにあたって必要な各種事項の確認(例えば既存製油所の既設装置の図書類の入手やその確認そして現状運転条件の確認等々)を顧客と行いました。
 何はともあれこのプロジェクトはオランダ統治時代の古い製油所の改修や必要設備の新増設をあまりにも情報の無い中でJ社に依頼してきたものと思います。
 万事がこのようなことで、受注したとは言えこのプロジェクトが始まったらどうなるのか不安になってきました。
 J社の受注したアルジェリアとクエートのビッグプロジェクトも終盤となり、受注残も少なくなり営業の独走でこのようになったのか?と余計な心配が浮かんできました。
 その様な疑問がいろいろ浮かんできましたが、調査の結果を踏まえて「何とかプロジェクトの全体仕様を固めないといけない、そうしないとこのプロジェクトは破たんするかもしれない」などと思いながら日本に帰ってきました。

 日本に帰ってきてもプロジェクトの具体的要求条件が見えないまま、重要ビッグプロジェクトにもかかわらず、「船頭多くしてこと動かず」の状態がしばらく続きました。
 そんな時、「プラント能力や製油所全体の概要はプロセス設計者が現地を見てある程度把握してきた」、しかし、「顧客には設計基準がないのでこれをエクソンのBP(Basic Practice)のようなものを作る必要がある」と筆者に依頼してきました。この設計基準がないと顧客にいろいろなことを言われプロジェクトコストがどんどん増えてしまうとのことでした。
 この設計基本作成に関する作業は顧客の求める要件事項を含めたFEED (Front End Engineering Design)のような内容であり、筆者にとっても初めてのことで自信がありませんでした。しかし、ここは自分の腕試し、そして将来にとって必ず役に立つ仕事と思い、自分なりに動いてみることにしました。
 作業を進めるにしたがって、各専門部の協力が絶対必要であることに気が付きました。それもJ社には多くの専門部門があり、その全専門部の協力が必要であることがわかりました。
 専門部にとってはこのような仕事は余計な仕事と思われ、「この仕事は一過性のものでなく将来、J社の財産となる設計基本作りである」と説得に奔走する毎日でした。
 結局は専門本部長を説得し、各専門部の部長を集めてもらい筆者の基本的考えを説明し、作業をしてもらえるようになりました。
 一か月程かかりましたが何とか形ができ顧客に出せるようなものになりました。
 そして、この設計基本をもとにプロジェクト予算や計画の見直しを行い、「さー!いよいよ本格的に・・・」と思った矢先に、営業からの話で「プロジェクトに待ったがかかった様だ!」との話が来ました。
 噂ではスカルノ大統領から政権を奪ったスハルト大統領の急激な経済政策と腐敗の蔓延という事でインドネシア経済に暗雲が立ち込め、なんとなく民衆も騒ぎ出しているようだとの話でした。この影響でこのプロジェクトが急きょ中止になるとのうわさが出てきました。
 その後、このプロジェクトに大きな変化がありました。プロジェクトの中止ではなく縮小という事で契約金額も1/10程度に縮小されました。
 これならプロジェクトの規模からみて筆者にプロジェクトマネジャと言う役割が回ってくるかと思っていました。しかし、予想に反し、残念ながら筆者は選ばれませんでした。
 その後、残念無念と思っていたら上司から呼ばれ「J社はこれまでの業態以外の仕事を模索していく必要があるので君にわが社が開発している逆浸透膜を使った海水淡水化に関する仕事にかかわってくれないか?」との依頼がありました。

 このようにインドネシアのプロジェクトは筆者にとっては消化不良で終えました。
 しかし、ここでの経験は後の多くのプロジェクトに役立つことになります。

 来月からはJ社の新規分野への進出とプロジェクトマネジメントについて話します。

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