PMプロの知恵コーナー
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ゼネラルなプロ (49) (実践編 - 6)

向後 忠明 [プロフィール] :11月号

 <シンガポールエチレンプラント建設>

 いよいよ本格的なビッグプロジェクトに参加することになり、これまで学んできたプロジェクトマネジメントや各種関連知識を実践の場で使うことが出来ると期待したプロジェクトです。

 このようなプロジェクトをJ社が受注できたのはエチレンプラントの海外の経験(例えば前回話をしたトルコ国のプラント)といった実績、そして、この顧客との国内での同種プラントの実績も大きな理由となったようです。
 もちろん、受注競争は激しいものでありました。
 一方、顧客側としても初めての海外案件であり、その上、顧客も特に決まった要件もなくただエチレンプラントOO万トン/年をシンガポールの孤島に建設するという事だけでした。
 このプロジェクトは生産するエチレンの量(プラントキャパシティー)はわかっているのでオンサイト(エチレン製品製造設備の部分)の国内における建設コストはわかるが、それを海外で建設すること、そしてオンサイトをサポートするオフサイト(オンサイトプラント設備のインフラ)設備についてのコストは全く不明の状態でした。
 特に、インフラの全くない孤島でのプラント建設でもあり、顧客にとっても日本での実績はほとんどありませんでした。
 よって、J社の体制としてはエチレンプラント本体はこの関連技術と実績において多くの知見と実績を持つ国内事業本部のエチレン部隊が担当することになり、オフサイト設備及びインフラは海外プロジェクトに習熟している国際事業本部が担当することになりました。
 その理由は本プロジェクトの活動拠点は海外であり、海外経験のある国際事業本部がエチレン本体をサポートする役割を担うといった組織形態が顧客に対しても信頼感がもたれるとの考えからでした。

 受注活動においては、顧客の要件が不明確であったことや、インフラの無い孤島でのプラント建設、そして海外での活動を考えると、顧客要求の一括請負(ランプサム契約)にはJ社も含め各社ともしりごみの状態であったようです。

 そこでJ社は基本的な事項(対シンガポール政庁対策、現地調査や本プロジェクトでの懸念事項調査そして基本設計等々)が決まるまで実費精算契約とし、基本事項が固まり次第、ランプサム契約とする提案をしました。
 なお、初期の実費精算の契約時で、顧客側も予算をきめる必要もあるので最大このプロジェクト完成までいくらかかるのかと言う質問もあり、J社の実績から最大000億円になると提案し、これをシーリングプライスと称し、どのような事態になってもこれを越えないとの約束をしました。
 もちろん、競争他社にも顧客は同じことを要求したと思いますがJ社の単金とシーリングプライスが妥当な金額だったためと思うが、それが受注までの経緯のようでした。

 少し話が変わりますが、最近顧客要求条件が曖昧なため多くのプロジェクトで困っている話が出ています。
 一方、そのようなプロジェクトに対応するための手法としてIT業界ではアジャイル方式などと言う用語も出ています。しかし、筆者は顧客の立場に立った場合、この方式は最終いくらになるかわからないのではとの疑問を持つのではないかと思っています。
 銀行システムの場合の検収方法は殆どの仕事が完了してからの支払いと言う習慣があるようですがこのような場合はアジャイル方式も良いですが、そのほかはどうでしょうか?
 アジャイル方式の批判のように聞こえたらごめんなさい。
 上記に示したプラント受注の実費精算+ランプサムwithシーリングプライス方式は顧客要求が不明確のプロジェクトの場合にはアジャイル方式よりも良いと考えています。
 なぜなら、この場合の方が顧客にとっても請負側にとってもWin-Winの関係で契約が可能となると思っています。もちろん、シーリングプライスと契約条件(特にスコープ)は状況によって変えられるようにすることも可能です

 さて、ここで本題に戻りますが、このようにして受注されたプロジェクトですので、J社のトップは顧客と一体となったプロジェクト運営が出来るような体制とすることが必要と考えたようです。
 すなわち、事業部レベルのタスクフォースとし、責任と権限の一元化が取れる体制となりました。

 この時はまだ筆者の立場はどのようなものになるかは全く不明でした。
 自分としてはこれまでのプロジェクトマネジメントの学びの中でいろいろ勉強をしてきたが実践面ではまだ初級のレベルと考えていました。
 ましてや、顧客側の人材がこの会社のエリートと称される人たちが配置されるという噂も出ていました。
 このような状況から、この大きなプロジェクトでは責任ある立場につけるような状況でなくその一部を担当する程度の役割と思っていました。

 このプロジェクトの組織は先に述べたように国内事業本部と国際事業本部の合同プロジェクト組織となっていて、J社のトップ、すなわちプロジェクトダイレクターはJ社のハイクラスの人材で役員に近い人であり、顧客側も役員クラスが本プロジェクトの責任者となっていました。
 組織としてはプロジェクトダイレクター(主に顧客トップとの対応)とPM(プロジェクト全体を統括)を中心にオンサイト側EMとオフサイトEMの2人のEM(Engineering Manager)が置かれ、オフサイトについてはその下に2名のAEMが配置されました。
 顧客も同じようにオンサイト担当とオフサイト担当に分かれこのプロジェクトに対応することになっていました。

 J社側の組織が決まってからプロジェクトダイレクターから組織責任者の発表があり、筆者はオフサイトEM配下のAEMという事で実質的にEMとともにオフサイト全般を見ることになりました。
 この時は、ビックリ仰天で「なんで私が!」と思いました。
 しかし、これも更なる実践の経験と知識の強化そして新しいことへの挑戦と思い、引き受けることにしました。
 この時ほど興奮したことはありませんでした。

 しかし、筆者はオフサイト設備についてこれまで経験したことは一度もありませんでした。
 オフサイト設備とは原料及び日製品貯槽群、桟橋や原料受入れ設備、道路・交通信号設備、排水、設備冷却用海水取水設備、ボイラー及び給水設備、受電設備、そして各オンサイトへの冷却海水、水、原料供給設備、そして製品出荷設備、建屋(事務所、食堂、そして必要備品)等々、オンサイト設備が動くための各種設備のことです。
 この分野の仕事はどちらかと言うと花形のオンサイトより、あまり日の当たる役割の仕事ではなく縁の下の力持ち的な仕事のようなものとこの時は感じていました。

 さて、いよいよ日本での顧客との打ち合わせを行うことになり顧客の東京本社事務所に出かけました。

 顧客担当との初めての打ち合わせという事で緊張しながら、会議室に入りました。
 既に顧客側のオフサイト関係者が勢ぞろいしていて、お互いに挨拶と自己紹介をし、本題に入りました。
 最初は技術的な話をしていましたが、そのうち内容が契約上の内容にふれ、若干議論が白熱し始めました。
 この時、我々、PM,EMそして筆者は、この顧客は当初から我々に対して高飛車な態度での対応を示している、と感じました。
 議論が白熱したころ顧客から出てきた言葉は「貴社には当社は多くの仕事を出しているが、そのようなことでよいのですか?」でした。
 こちらはそれに対して「あくまでも交渉の話であり契約に準じて話をしているだけです。このことは契約書のここに書いてある通りです」と反論しました。
 それでも顧客は「本当にいいのですか?」でした。
 そこでこちら側は次のような言葉で反論しました。
 「既に契約されているプロジェクトです。我々は国内の顧客と仕事をするのは初めてですが、国際事業は極めて契約を重視します。契約の下では顧客も請負企業も平等です。日本のような甲、乙の関係ではありません」
 それに対して、「本当に我々とは次の仕事がないという事でもよいのですか?」とさらなる上からの目線での言葉が来ました。
 それに対してこちらは
 「我々は国際事業本部出身なので国内でのプロジェクトは二度とやることはありません」
 と答えました。
 このようなやり取りがあり、最後は顧客もあきらめて「それでは契約に基づき貴社の言われるようお互い協働者としてこの仕事を成功に結び付けましょう」という事になりました。
 その後、顧客の若手から「契約と言うものの本質がわかりました。今後海外の多くの業者及びシンガポール政庁との交渉もあるので一緒によろしく」との話もあり、その後の顧客との関係も特に大きな問題もなく作業は順調に進めることが出来ました。

 ここまでの顧客とのやり取りの話で分かったことですが、国内の顧客との契約はむしろ一方的に請負業者を縛ることを目的としたものであり、「甲」の立場での物言いで、請負業者を言いなりにしているように感じました。一方、このようなことから請負側も「顧客は神様」扱いで付き合うので何も言えない状況となっているのだろうと感じました。

 さて、プロジェクト発足当時は上記のようなこともあったが、その後は問題なくスケジュールに従い仕事も進みいよいよシンガポールに調査及びシンガポール政庁との会議のために出張することになりました。

 最初は現場調査と言う事でシンガポール本島から船に揺られての船旅でした。
 この時、出発する桟橋には多くのシンガポール人やインド人がたむろっていて、ビニール袋に入った豆乳を飲んだりして船を待っていました。(この人たちは他の島のプラント(例:エクソン、SRC等の製油所)にかかわる人たちです)
 筆者もためしに豆乳を飲んでみましたが、気持ち悪くなりました。
 この当時はまだ日本には豆乳を飲むといった習慣はなかったのですが、現在日本で売っている豆乳の味とは全く違ったものです。そのため、現在でも筆者はこの時の味を思い起こし豆乳は飲みません。
 また、この当時(1980年代)のシンガポールは中心街(オーチャードロード近辺)は街並みはきれいでしたが、そこから離れると全くの発展途上国の状態でした。
 よって、現代のシンガポールとは隔絶の感がありました。

 その様なことを思ったり考えたりしながら船(本プロジェクト用の専用船)に乗り込みました。
 船が現場に近づくにつれ現場となる島が見えて来ました。
 かなり大きな島であり、到着するとなんとまっ平らな何もない広大な敷地がそこにはありました。
 あるのは仮設の船着き場だけであり、オフサイト設備及びインフラ担当としては面食らうばかりでした。
 ここにエチレンプラントやそれに続く関連プラント設備(将来)ができ、それをサポートするオフサイト及びインフラ設備を設計・建設すると考えると本当に大丈夫なのかと若干不安を覚えました。

 続きは来月とします。

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