理事長コーナー
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ポツダムにて考えたこと

PMAJ理事長 光藤 昭男 [プロフィール] :10月号

 今月号は、遅目の夏休みの旅行の話題を取り上げた。欧州政治の中心都市ベルリン近郊のポツダムに行って来た。社会科の授業で習った言葉「ポツダム宣言無条件降伏」の「無条件」に強烈な印象を受けていたからである。その教科書のモノクロ写真で見た左側から英国チャーチル首相、米国トルーマン大統領、ソ連スターリン書記長の顔や姿勢と緊迫感を印象深く覚えていた。従い、いつかその舞台のポツダム市とその会場と周辺環境を見に行きたいという興味があったのだ。ベルリンには、20年以上も前に仕事で訪問したが、その時には、スケジュール上の制約から訪問できずにいた。当時はベルリンの壁が崩壊した時期で、まだ壁の残骸が市街のあちこちに残っていた。

 簡潔に歴史を振り返る。1941年12月8日(日本時間)に日本軍のハワイ真珠湾攻撃をもって太平洋戦争が勃発した。戦争は急拡大したが、翌1942年6月のミッドウェー海戦での米軍勝利以降は、日本は次第に劣勢となり、1945年7月26日に、米国大統領トルーマン、英国首相チャーチル、中華民国蒋主席の共同声明による「全日本軍の無条件降伏」等を含めた全13か条から成るポツダム宣言(Potsdam Declaration)が大日本帝国に対して発せられた。その後、沖縄戦、原爆投下、ソ連参戦などにより、翌8月14日に日本がポツダム宣言を受諾した。8月15日の天皇による玉音放送、9月2日の東京湾上にて降伏文書に調印と続く。

 ポツダム宣言を採択のため、米国、英国、ソ連の連合国首脳は、1945年7月17日から8月2日の約2週間にポツダムにて戦後処理を含め協議した。しかし、「無条件降伏」自体は、遡ること2年半も前の1943年1月にモロッコのカサブランカにおいて、連合国はドイツ、イタリア、大日本帝国に対し、無条件降伏を求める姿勢を明確化していた。この時すでに、連合国側は勝利を見通していたことになる。同年11月17日のカイロ宣言(米国ルーズベルト大統領、英国チャーチル首相、中華民国蒋主席によるが、ソ連首脳は不在)においてもこの姿勢は確認された。第二次世界大戦の大勢が決まりかけた1945年2月4日から11日には、ソ連のクリミア半島ヤルタにて行われた米国ルーズベルト大統領、英国チャーチル首相、ソ連スターリン書記長による首脳会談があり、ソ連の日本への宣戦布告や戦後の敗戦国の分割が話された。ヤルタ体制といわれその後の冷戦の遠因となったとされている。敗戦国ドイツは、米国、英国、フランス、ソ連にて分割統治すると決めたが、その際、フランスはスターリンの拒否により呼ばれなかったそうだ。この後、1945年5月8日にドイツは無条件降伏に調印した。

 その後紆余曲折があり、ドイツは連合国4か国により分割管理が始まったが、米英仏の管理地区は相次いで統合し、1949年に西ドイツとなった。同年対抗したソ連により東ドイツが設立された。終戦時にはソ連軍による占領状態にあった首都ベルリンは、その後各国の駐留軍が進駐していたが、各国の思惑から対立が表面化し、西ベルリンは米英仏の3か国、東ベルリンはソ連が管理し、実質的に2分割された。西ベルリンの周囲は、全てソ連統治下のため飛地状態となった。ベルリン市南西に位置するポツダム市の中心から以西は、ソ連軍とKGBが管轄していたが、それより東側から西ベルリンに至るまでは、米軍の管理下にあった。英国とフランスの管轄地は、米軍の北側であった。

 ポツダム会議は、ツェツィーリエンホーフ宮殿(Schloss Cecilienhof)にて開かれた。米軍管理下の地域からは30m程度のグリーニッカー橋(Glienicker Bruecke)を渡って1km程西にある英国風の小館であり、建物の敷地はソ連の管轄下であった。東西の力が均衡する適当な会場であったのだ。ホーエンツォレルン家の最後の皇太子ヴィルヘルムが家族と暮らしており、皇太子妃ツェツィーリアの館と名付けられていた。北側と東側には湖が広がる広大な敷地内にあったが、今は、館周囲の庭園以外は充分な手入れがされていない感じだ。館の中の会議があった部屋は公開されている。瀟洒なプチホテルが同じ館内に隣接している。現在は静かな佇まいであるが、ダークチャコール系の木製内壁の室内と大きな円形テーブルの前で、あのトルーマン、チャーチル、スターリンが駆け引きしたかと思うと、漂う空気は歴史の重みを感じさせた。

 フランクリン・ルーズベルトは、1944年11月に第32代米国大統領として唯一4選を果たしたが、翌年のヤルタ会議後、4月12日に脳卒中で突然他界した。就任まもない副大統領であったハリー・トルーマンが急遽大統領になり、外交の表舞台に登場し、戦後処理を行った。ポツダムの館内のショップで唯一販売している会議時の三首脳の写真は、社会科の教科書に掲載されていた写真と同じだと思う。何故か、正面を向いている二首脳をよそに、中心にいるトルーマン大統領は左横を向いている。会議は、8月2日に終了しているが、8月14日に日本が無条件降伏を受諾した事実を立って発表している写真は、大統領執務室内であろうか、多くの記者に囲まれてトルーマン一人で他の首脳は居ない。戦中から戦後処理までの連合国の首脳の内、歴史に残る前述の会議のすべてに参加したのは、英国チャーチル首相だけである。駆け引きあり、裏切りあり、偶然あり、興味がつきない。戦後日本の出発点でもある。

注 : 歴史上の事実は、Wikipedia から一部引用、及び、確認した。Potsdam市関係の人名と地名はPotsdam City Guide と「地球の歩き方:ドイツ’13~’14」を参考とした。すべて2014年9月28日時点の版からの情報である。

以 上

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